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朗読箇所

四旬節第11主日

旧約 エゼキエル書 47:1−12

◆命の水
1 彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。
2 彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。
3 その人は、手に測り縄を持って東の方に出て行き、一千アンマを測り、わたしに水の中を渡らせると、水はくるぶしまであった。
4 更に一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は膝に達した。更に、一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は腰に達した。
5 更に彼が一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった。
6 彼はわたしに、「人の子よ、見ましたか」と言って、わたしを川岸へ連れ戻した。
7 わたしが戻って来ると、川岸には、こちら側にもあちら側にも、非常に多くの木が生えていた。
8 彼はわたしに言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。
9 川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。
10 漁師たちは岸辺に立ち、エン・ゲディからエン・エグライムに至るまで、網を広げて干す所とする。そこの魚は、いろいろな種類に増え、大海の魚のように非常に多くなる。
11 しかし、その沢と沼はきれいにならず、塩を取ることができる。
12 川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる。」


新約 ヨハネによる福音書 4:13−26


13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
15 女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
16 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、
17 女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。
18 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
19 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
20 わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
21 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
22 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。
23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。
24 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
25 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
26 イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

説教

どこで礼拝をするべきですか?

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    ヨハネによる福音書は、
    イエスさまとひとりの女性の会話を記録しています。
    物語が進むにつれて、彼女がどのような人であったのか、
    わたしたちは少しずつ知ることが出来ます。
    彼女は、サマリア人でした。
    この福音書が記された当時、この物語を耳にしたであろう、
    キリストを信じるユダヤ人にとって、
    彼女がサマリア人であることは、
    彼女の文化的背景を伝えるとても重要なことでした。
    ユダヤ人とサマリア人の間には敵意があり、
    お互いがお互いのことを憎み合っていました。
    だからこそ、「水を飲ませてください」(ヨハネ4:7)と、
    ユダヤ人であるイエスさまが話しかけてきたとき、
    サマリア人である彼女はとても驚きました。

    この二人の会話は、
    イエスさまが水を求めることから始まりましたが、
    いつの間にか、この女性がイエスさまに、
    渇くことのない生ける水を求めるようになり、
    水を求める側が入れ替わっています。
    このとき、イエスさまは、神によって
    すべての人の心の渇きが癒され、命が与えられることを、
    生ける水という象徴的な表現を用いて彼女に伝えました。
    けれど、どうやら彼女は、
    実際に自分が飲み、生活で使用できる水を
    イエスさまから受け取ることを期待していたようです。
    「また、ここに汲みに来なくてもいいように、
    その水をください」(15節)と言って、
    彼女は泉のように湧き出る、その水を
    イエスさまに求めました。

    それに対するイエスさまの受け答えは、
    とても不思議です。
    イエスさまは彼女に、「行って、あなたの夫を
    ここに呼んできなさい」と言います(16節)。
    何だか話が噛み合っていないように思えますし、
    何よりも、話の内容が急に変わってしまいました。
    なぜイエスさまは、
    急に彼女の夫の話をしようとしたのでしょうか。

    きっとそれこそが、彼女の抱えていた
    心の渇きだったのでしょう。
    彼女には5人の夫がいましたが、
    今はその5人とも一緒に暮らしていません。
    また、今は別の男性と暮らしていました。
    イエスさまが明らかにしたこの女性のことについて、
    伝統的には、彼女の道徳観の乱れとして
    解釈されてきました。
    つまり、夫を何度も変えるような、
    問題を抱えた女性であったと、
    このサマリア人女性は考えられてきました。
    でも、ヨハネ福音書は、彼女の過去や現在について、
    何も判断を下していません。
    何よりも、当時の文化において、
    女性の側から離婚するような権利はありませんでした。
    ですから、かつて彼女の夫であった男性が5人いるという
    彼女のこの状況は、
    彼女の道徳的問題や彼女の罪を
    指し示しているのではありません。
    むしろ、文化的に自然な結論は、
    彼女が夫を何度も亡くしていること。
    または、何らかの理由で男性の側から見放され、
    離婚をさせられたことです。
    古代の社会において、女性が夫を持たず、
    ひとりで生活することは無理な話でした。
    ですから、夫を何度も失った彼女にとって、
    彼女の置かれた環境は悲しみそのものでした。
    共に生きるパートナーとの関係を引き裂かれただけでなく、
    これから生活を続けていくための経済力は、
    彼女ひとりにはなかったため、
    現在においても、将来においても、望みのない状態でした。
    そんな悲しむべき経験をしたであろう彼女が
    人と関わることを避けて、
    昼間の時間帯を選んで井戸に
    やって来た理由もわかる気がします。
    どれだけ周りから慰めを受けても、
    優しい言葉をかけられても、
    自分の環境が変わるようにも思えません。
    共に生きる家族が亡くなったり、
    自分のもとを去っていくたびに、
    心が引き裂かれる思いにもなりました。
    そのような心の渇きを
    彼女自身が抱えていることを伝えるために、
    そしてそのことをイエスさまは知っていることを伝えるために、
    イエスさまは急に話を変えて、
    夫を呼んでくるようにと彼女に伝えたのでしょう。
    いや何よりも、彼女のその心の渇きを神が癒すために、
    イエスさまが彼女の前に現れたのでした。

    目の前にいるこの人が、
    自分の心の渇きが何であるかを見破り、
    その渇きを癒すために生ける水を
    与えることが出来ることを知って、
    彼女はイエスさまのことを
    神に選ばれた預言者として受け止めるようになります。
    でも、考えてみると、おかしなことに彼女は気づきました。
    彼女の心の渇きを癒すという、
    生ける水を与える神と
    サマリア人である自分は一体どこで出会えるのでしょうか?
    彼女の目の前にいるのはユダヤ人であるイエスさまです。
    ユダヤ人の理屈で考えるならば、
    神と出会える場所は、当然、エルサレムです。
    でも、彼女はサマリア人です。
    果たしてエルサレムを訪れて、
    神を礼拝しても良いのでしょうか。
    いや、そもそもユダヤ人とサマリア人は
    同じ神を信じているのですから、
    サマリア人が聖なる場所と考える、
    ゲリジム山でも良いはずです。
    そんな疑問を抱いたから、彼女はイエスさまに
    正直に自分の思いを打ち明けました。
    わたしたちサマリア人の先祖は、
    この山、ゲリジム山で礼拝をしてきました。
    でも、あなたたちユダヤ人は、
    ここではなく、エルサレムでこそ
    神に礼拝を捧げるべきだと考えていますよね?
    では、ユダヤ人ではなく、サマリア人であるわたしは、
    一体どこでその命の水を
    神から受けることが出来るのでしょうか?
    そのような疑問が込められている、
    サマリア人女性の言葉に対するイエスさまの答えは、
    ユダヤ人にとっても、またサマリア人にとっても、
    驚くべきものでした。
    というのも、神を礼拝する場所は、
    ゲリジム山でも、エルサレムでもない、というのですから。

    サマリア人にとっても、ユダヤ人にとっても、
    ここでこそ神を礼拝するべき、
    という理由が当然ありました。
    でも、イエスさまは特定の場所を示しませんでした。
    霊と真実をもって、神を礼拝するべき時が来る。
    今がその時である。
    それがイエスさまの確信でした。
    何よりも、ヨハネ福音書は、イエスさまのことについて、
    イエスさまは神を礼拝する場として紹介しています。
    イエスさまこそが神殿であり(2:19−21参照)、
    わたしたちと共に歩む、
    移動式の礼拝所である(1:14参照)、と。
    そうであるならば、このサマリア人女性の疑問は、
    彼女の想像を越えた形で解決されていると言えます。
    だって、イエス・キリストにあって神を礼拝するとき、
    わたしたちはどんな場所においても、
    神を礼拝することが出来るのですから。
    それは、場所を問わないというだけの話ではありません。
    サマリア人であろうと、
    ユダヤ人であろうと関係ありません。
    彼女の抱えた過去の経験も関係はありません。
    言葉も、民族も、性別も、文化的価値観も、
    目や髪や肌の色も、社会的な立場も、過去の経験も、
    すべて何もかも乗り越えて、
    わたしたちは神の前に出ることが出来ます。
    わたしたちが神を礼拝するための条件はありません。
    誰もが、今のありのままの姿で、神のもとに呼ばれています。
    そして、誰もが、キリストを通して、
    神から生ける水を受け取ることができ、
    その渇きを癒やされることができます。
    それは、聖なる場所や教会の礼拝堂でなくてもです。

    それならば、教会に来て、
    礼拝をする必要なんてないんじゃないの?
    と思うかもしれません。
    イエスさまの言葉によれば、
    いつでも、どこにいても、
    わたしたちは神を礼拝することが出来るのですから。
    ある意味でそれは、部分的には間違えていません。
    でも、この疑問は、ひとつ大切なことを見落としています。
    わたしたちは一体、
    どこで神を礼拝をすることを学べるのでしょうか?
    そうです。
    わたしたちは、単に神を礼拝するためだけに、
    この場所には集っていません。
    わたしたちが毎週この場所で捧げる礼拝は、
    神を礼拝する方法を学び続け、
    わたしたちの生き方が、
    神への礼拝へと変えられていくためです。
    そして、わたしたちがここで
    礼拝する方法を学ぶことを通して、
    わたしたちの日々の生活の場所は、
    神を礼拝する場所へと変えられていきます。
    そのようにして、この世界全体が、
    まさにわたしたちにとって、
    神を礼拝する舞台へと変えられていくのです。

    既に、その時は始まっていると、イエスさまは伝えています。
    この世界は本来、神が造ってくださった美しい世界です。
    その美しい世界を舞台に、
    わたしたちは神を礼拝し続けるようにと、招かれています。
    もちろん、世界の醜く、汚い部分と
    向き合わなければいけないことだって、たくさんあります。
    その意味では、今わたしたちが暮らすこの世界は、
    美しさよりもむしろ、醜さや汚い部分が目立つ、
    礼拝の場所なのかもしれません。
    だからこそ、わたしたちはきょうも、ここで、
    礼拝を通して学び続けたいと思うのです。
    争いに溢れ、愛や憐れみに欠けている世界に生きながら、
    そのような場所で、神にとりなし祈る方法を。
    無関心に溢れる世界で、人を愛する心を持ち続けることを。
    過ちや罪を重ねたとしても、
    神と共に再び歩み出せることが許されていることを。
    混沌としている世界だけれども、
    それでも、本来は神が造ってくださった美しい世界で、
    そこに喜びや楽しみを見出し、神をたたえることが出来ることを。
    神のもとには常に、いのちを与える水があり、
    わたしたちの心を癒やすだけでなく、
    いのちを豊かに溢れさせ、
    わたしたちやこの世界が
    新しく歩みだす力を与えてくださることを。
    わたしたちが不安を抱え、失望する場所に、
    神は励ましと希望を与えることができることを。
    わたしたちはここに集い、神を礼拝し続けながら、
    この場所で神を礼拝する方法を学び続けます。
    どうか礼拝堂を出ていく時は、
    身に付けたものを十分に用いて、この世界で神をたたえ、
    みなさんが足を運ぶあらゆる場所で、
    神を礼拝することができますように。

週報より

  • 2024.04.28 週報より抜粋・要約

  • ① 月報『モレノ』5月号が完成しました。
    原稿・写真・絵をご寄稿くださったみなさま、
    編集や製本にご協力くださったみなさま、ありがとうございました。

    ② きょうは礼拝後に、教会月報『モレノ』の編集会をおこないます。
    新しい企画や月報の構成などを考えやすいように、
    今月より第4日曜日に編集会を開くことにしました。
    モレノチームの方だけでなく、今回のみ加わってくださる方も歓迎します。

    ③ きょう午後4時から、教会教育委員会主催のリレー講義があります。
    『道・真理・命 〜 恵みの旅としての弟子の歩み』という書籍に基づいて、
    ナザレン教会の牧師たちのリレー講義を行う企画が昨年から始まりました。
    第4回目は、きょうの午後4時からで、基嗣牧師が担当です。
    ZoomのルームIDは 845 4653 5777 で、パスワードはありません。

    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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