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2019年1月6日()   礼拝説教


「信仰」って、わたしたちの気持ちの問題?」  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
イザヤ書60:1−6


◆栄光と救いの到来

1 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り
主の栄光はあなたの上に輝く。
2 見よ、闇は地を覆い
暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で
主の栄光があなたの上に現れる。
3 国々はあなたを照らす光に向かい
王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。
4 目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから
娘たちは抱かれて、進んで来る。
5 そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き
おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ
国々の富はあなたのもとに集まる。
6 らくだの大群
ミディアンとエファの若いらくだが
あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。


2) 新約聖書
コリントの信徒への手紙一 12:1−3


◆霊的な賜物

1 兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。
2 あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。
3 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年1月6日

「信仰」って、わたしたちの気持ちの問題?」

よく「信仰」とか「信仰心」と言いますが、
それはいったい何でしょうか。
日本で信仰という言葉はしばしば、
よくわからないけれど信じることと考えられます。
曖昧さと不明瞭さがつきまとうように思います。
信仰が「ある」「ない」という言い方もします。
信仰があるという場合、
何らかの宗教を信じているという意味であり、
信仰がないという場合、
無宗教のことを意味すると思われています。
信仰が篤いとか薄いとも言われます。
あるとかないとか、
濃いとか薄いとか、
信仰って、そのように量で計れるものでしょうか。
わたしはいろいろな人と出会う機会があります。
クリスチャンではない人たちが、
わたしが教会の牧師であると知ると、
「わたしは信仰心が薄いので」という言い方で、
教会に行かない言い訳をしたくなるようです。
あるときイエス様もこんな言い方をなさいました。
「ああ、信仰の薄い者たちよ」。
でも、別の時にはこうも言われます。
「あなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」。
少ないとだめなのか、
小さくてもあればよいのか。
どちらなのかはっきりしてくださいと、
イエス様に尋ねたい気もします。
きょうの1コリントの箇所は、
信仰という言葉自体は出て来ませんが、
信仰が主題であることは間違いありません。
パウロはここで、
信仰について大胆な定義づけをしています。
信仰とは、「イエスは主である」と言うことだと。
もちろん、口先で言うだけのことではありません。
心を込めて信実に、
イエスは主であると表明することです。
もしそれがわたしたちの言う信仰であるなら、
信仰は気持ちの問題とか、
なんとなく信じているとか、
よくわからないが拝んでいるといった、
漠然としたものではあり得ず、
信仰はとても実際的かつ具体的、
画期的でありダイナミックなもののはずです。
考えてみればすぐにわかります。
イエス様を「我が主」として生きることは、
その他の何ものをもわたしの主とはせず、
その他の何ものもわたしの主とはならない、
という信念を心に抱くことだからです。
パウロの時代、たくさんの「主」がありました。
最高の「主」は皇帝でした。
地方領主や高級役人も「主」と呼ばれました。
軍隊では上官が部下から「我が主」と呼ばれ、
家では夫や父親が「主」とみなされました。
(日本ではいまだに夫を「主人」と言いますが)
また、願掛けや願い事をする神殿や神社で、
そこに神として祀られている神体も、
主と崇められました。
さまざまな人や物が主となり、
そうしたたくさんの「主」が、
時と場合によって使い分けられ、
人々はいろいろな主の間を行き来して、
空気を読みながら複数の主に仕えたのでした。
イエス様はあるとき言われました。
「人は二人の主人に仕えることはできない」。
だが、実際には二人どころか、
もっとたくさんの主に仕えていたのです。
しかし、もしイエス様が「我が主」となるなら、
その時からすべては大きく変わります。
イエス様が多くの主の一人になるのではなく、
イエス様だけが主となるという意味だからです。
イエス様を我が主と呼ぶ人は、
皇帝を敬うかもしれませんが、
皇帝を主と崇めることはしなくなります。
イエス様を主と呼ぶ人は、
領主や上官に従うことでしょうか。
どんなことにでも服従することはなくなります。
家の主人は家族をまとめることでしょうが、
家で暴君のように支配することはなくなります。
イエス様を主と呼ぶ人は、
何が善であり何が悪なのか、
何が正義であり何が不正義なのか、
何が公平であり何が不公平なのかを、
王や権力者や役人の判断に任せるのではなく、
神の義と公平を世に現し、
愛と憐れみをものさしとするように教えた、
我らの主イエスを、
最終・最高の審判者として、
その判断に従うようになります。
もし、そういう意味での信仰が、
わたしたちの気持ち次第なのだとしたら、
いったいだれが、
「イエスは主である」など言うでしょうか。
そんな気持ちになるとは考えられません。
なぜなら、イエス様は、
世の人々が期待するものをほとんど何も約束せず、
人々が望むものを何一つ提供しないのですから。
イエス様は商売繁盛も家内安全も約束せず、
健康も長寿も信心の褒美として保証せず、
合格も縁結びも成功も約束せず、
むしろ、イエス様を信じるゆえの迫害を予告し、
信仰のゆえの困難や苦難があることを教え、
イエスは主であると言う道が、
険しい道をとおって狭い門から入ることだと、
はっきりと言われたのではなかったでしょうか。
イエスは主であると言うこと、
しかも十字架に掛けられたイエスを主と信じるのは、
何か良いことがあるでしょうか。
イエスは主であると信じて歩むことは、
罪の赦しを受けるということです。
イエス・キリストを信じる道は、
神の子の身分を受け、
天の国籍を与えられ、
永遠の命の約束を得ることです。
イエス・キリストを我が主と信じることは、
愛と慈しみを生きることを願い、
正義と公平を重んじる道を歩むことです。
良い時も悪い時も。
世の中の多くの人がそう願う時も、
世の中の多くの人が冷淡で無慈悲になり、
公平を重んじなくなる時も。
世の人々からみれば、
そのような生き方はばかげた、
愚かなこととしか思えないことでしょう。
そうだとしたら、
イエスは主であると言うこと自体、
不思議であり、奇跡的なことです。
でも、それは事実、起きてきました。
イエス様の時代に、
イエス様を我が主と信じた人々がいました。
以来ずっと、いつの時代にもどこの世界でも、
キリスト信仰が弾圧され、
苛酷な迫害にさらされている最中にも、
イエスは主であると言う人々が現れました。
こうして教会は信仰を繫いできました。
今の時代、今の日本にも、
イエスは主であると言う人々がいて、
わたしたちの教会にも集っています。
大勢ではないが、ほぼ毎年、
イエスは主であると新たに信じる人々が現れ、
洗礼を受けています。
不思議で、奇跡的なことです。
パウロはその不思議で奇跡的な出来事の理由を、
はっきりとこのように表明しました。

  聖霊によらなければ、
  だれもイエスは主であるとは言えない。

このパウロの言葉は、
なぜ本来ならばかげた愚かしいこととして、
ほとんどだれも相手にしないようなことを、
信じて言い表す人がいるのか、
その理由をわたしたちに示してくれます。
それはわたしたちの気持ちの問題ではなく、
聖霊がその人に働いてくださるからです。
最初に信じたときだけでなく、
こうして日毎に信仰を抱いて生きるとき、
こうして週毎に礼拝に集い、
イエスがわたしの主であると表明し賛美する時、
聖霊は今もわたしたちに働いています。
聖霊は見えず、触れることができず、
臭いも味も音もしません。
そのためにわたしたちは時として戸惑います。
聖霊についての実感が持てないと感じるからです。
パウロはその点ではっきりしています。
あなたが「イエスは主である」と信じるなら、
それは聖霊による以外にはあり得ません。
信仰告白が、聖霊を受けたことの保証です。
きょうの聖書箇所は、
聖霊の賜物についての冒頭部分です。
聖霊の賜物はいろいろあり、人それぞれです。
そのことを教えるにあたり、
パウロはまず、はっきりさせようとしたのでした。
わたしたちがイエス様を我が主と言うこと自体、
聖霊の賜物、
すなわち、神からの奇跡の賜物なのだと。
神から聖霊をとおしていただいた、
信仰という賜物を喜び、感謝して、
イエスが主であると言いつつ、
この世の旅を歩んでゆきましょう。
わたしたちは孤独な旅をしていません。
同じ信仰を抱く友たち、兄弟姉妹たちと、
いっしょに旅をしているのですから。

(以上)

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