公現後第1主日>

2019年1月13日()   礼拝説教


「わたしはいらない」とは誰も言えない  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
イザヤ書61:1−3


◆栄光と救いの到来

1 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り
主の栄光はあなたの上に輝く。
2 見よ、闇は地を覆い
暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で
主の栄光があなたの上に現れる。
3 国々はあなたを照らす光に向かい
王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。


2) 新約聖書
コリントの信徒への手紙一 12:4−11


4 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
5 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
6 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。
7 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
8 ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、
9 ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、
10 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。
11 これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年1月13日

「わたしはいらない」とは誰も言えない

きょうの説教題は、
「わたしはいらない」とは誰も言えない。
変わった説教題だと思われたことでしょう。
だが、自分の存在価値を見失うことは、
往々にして陥りやすい、
とても深刻な問題ではないでしょうか。
わたしたちはいつも危機にさらされています。
自分の存在価値を低くしてしまう危機です。
いじめも、あらゆるハラスメントも、
結局のところ、
だれかを「いらない存在」として追い詰め、
ついにはその人自身が、
「わたしはいらない」人間だと思い込まされ、
自分の存在の意味も価値も喜びも失わせる、
破壊的な問題です。
教会もまた、この問題から自由ではありません。
クリスチャンであるわたしたちにとって、
最大の霊的な危機は何かと言えば、
試練や困難に直面することよりもむしろ、
自分がそこにいてもいなくても、
関係がないと思い込まされることです。
必要とされていない、
何の役にも立たない、
いなくても誰も困らない。
そういう虚しさを感じることが、
信仰的な意味で最大の霊的な危機です。
すぐれた才能や能力がある人は、
その賜物が自分の価値を高く感じさせ、
自分が必要とされていると実感できます。
教会で大きな働きや貢献をしている人は、
信仰の甲斐があると感じることでしょう。
でも、教会にはいろいろな人が集い、
共に信仰を生きています。
強い人もいれば弱い人もいます。
自分に自信のある人もいれば、
自分に自信のない人もいます。
豊かな賜物を与えられている人にも、
危機は訪れます。
優れた賜物を自分の持ち物のように誇り、
他の人を低く見るようになる危機です。
そのような人が支配的になり、
そのために問題が生じて批判されると、
自分の力を正当に評価しないと不満を感じ、
ここに自分は必要ないと思い込んで、
去っていってしまうようなことが起きます。
反対に、
自分には何の賜物もないと思い込む人は、
別の意味で危機に陥る危険があります。
自分が何の役にも立たない邪魔者のように感じ、
自己憐憫に陥ってしまうことです。
自分で自分を無価値な人間として否定し、
自分はいらない存在だと思い込んでしまうのです。
ほんとうは「いらない」人など、
ひとりもいないにもかかわらず、
どうして人間というものは、
そのように自分や他人を決めつけてしまい、
裁くようなことをしてしまうのでしょう。
やはり、そこには全ての人にとって普遍的な、
罪の問題があるのだと思います。
アダムとエヴァが神の戒めに背いた時、
彼らの精神が大きく変わりました。
神の目を恐れて身をひそめ、
不安を抱き、自分への信頼を喪失し、
互いに責め合い、否定し合うようになりました。
教会も罪びと(つまりわたしたちの)集まりです。
だから教会も人間の問題から自由ではありません。
コリント教会も例外ではなく、
賜物をめぐっての問題が生じていました。
ある人は賜物を自分の所有物であるかのように誇り、
ある人は自分に賜物がないと感じて自分を蔑み、
誇りとねたみ、高ぶりと自己卑下に翻弄され、
互いの存在を喜び合うことができず、
自分自身の存在を感謝することもできない、
そんな状態に陥っていました。
たしかに教会も罪びとの集まりです。
だが、教会はそれだけであるはずがありません。
教会は、キリストによって罪を赦され、
神に受け入れられている人々の集まりですから。
だから、霊的な危機に陥っているコリント教会に、
パウロは賜物についての教えを書き送りました。
わたしたちはきょうの聖書箇所をとおして、
パウロが確信を込めて主張した要点を三つ、
考えてみましょう。
パウロが教える要点の一つは、
賜物のない人は一人もいないという事実です。
パウロは賜物のリストを挙げています。
知恵の言葉
知識の言葉
信仰
病気をいやす賜物
奇跡をおこなう力
預言
霊の識別
種々の異言
異言の解釈
この一覧表だけを見ると、
わたしたちはがっかりすることでしょう。
賜物とは特殊能力のことで、
わたしにはそんな賜物はないと感じますから。
だが、パウロがリストとして挙げるのは、
コリント教会で人々が誇っていた賜物です。
その意味では特殊なものばかりです。
パウロはこうした特殊なものだけを、
賜物と考えていたわけではありません。
ここでリストアップしているのは、
賜物の全てではなく、
コリント教会の事情を背景にしての、
ほんの一部の例だけです。
むしろパウロは、
「一人一人に霊の働きが現れる」(7節)、
「霊は望むままに一人一人に与える」(11節)
と「一人一人に」を二度繰り返して強調して、
一部の限られた人のものではないことを告げます。
信仰者「一人一人」というからには、
仲間はずれは存在しないはずです。
「わたしには賜物はない」というのは間違いです。
「一人一人」の中には「わたし」もいますから。
「わたしにはろくな賜物がない」と言うのも、
パウロの言葉から考えれば間違いです。
賜物の間に優劣も上下もないはずからです。
パウロが強調する第二の要点は、
賜物とは特殊な能力という意味ではないことです。
賜物とは、特殊な何かの能力ではなく、
特定の力のことでもなく、
「全体の益」となるあらゆることを意味します。
全体の益となる、一人一人の持つ力。
そう考えると、あることに気付かされます。
どんなに優れた才能や能力を持っていても、
それが全体の益となるように用いられないなら、
それは本当の意味で賜物として用いられていません。
特別な力や知識を持っていても、
それが自分のためにしか用いられないなら、
本当の意味で賜物として生かされてはいません。
どのようなことであれ、全体の益となるなら、
それは神からの霊的な賜物として、
有益に用いられているに違いありません。
たとえば、人を選ばずに親切であること。
悲しみや嘆きの中にある人に同情を寄せること。
自分以外の人たちのために祈ること。
笑顔を他の人に向けること。
誰かのために涙を流すこと。
慈しみに満ちた言葉を用いること。
他の人の重荷を軽くしようとすること。
他の人の益となる言葉やおこないや態度は、
それが全体の益となるゆえに、
優れた賜物以外の何だと言うのでしょう。
パウロの強調する賜物についての第三の要点は、
賜物はすべて神から与えられているということです。
パウロはこの点で、とても注意深く言葉を選び、
こう述べています。

  賜物にはいろいろありますが、
   それをお与えになるのは同じ霊です。
  務めにはいろいろありますが、
   それをお与えになるのは同じ主です。
  働きにはいろいろありますが、
   すべての場合にすべてのことをなさるのは
   同じ神です。

全ての賜物は「同じ唯一の霊」の働きであり、
同じ霊が与えてくださる。
そのことを繰り返し強調するのは、
賜物が与えられているのは「わたし」でも、
賜物はわたしのものではないからです。
賜物は、それがどのようなものであれ、
すべての起源は神にあります。
だから、どのような賜物であれ、
神への感謝を抱いて用いるべきですし、
全体の益となるように、
つまり究極においては神の栄光になる仕方で、
わたしたちは賜物を用いるべきです。
そして、明らかなことは、
きょうの説教題に戻りますが、
「わたしはいらない」とは誰も言えないことです。
誰もがみな、その人の存在そのものにおいて、
全体の益となる賜物、
すなわち、
神の栄光となる賜物に満ちた存在だからです。
わたしたちは互いに、
存在そのものがかけがえのない賜物。
一つの群れとして、ひとりの主のもとで、
一つの霊によって賜物を与えられ、
その賜物で互いに豊かにされていることに、
心から感謝します。
皆さんがここにいてくださるという、
その豊かな賜物に、
心から感謝します。

(以上)

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