公現後第2主日>

2019年1月20日()   礼拝説教


「共に苦しみ、共に喜ぶ」  (石田 学牧師)
 説教は音声付きです。

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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
イザヤ書62:10−12


10 城門を通れ、通れ、民の道を開け。
盛り上げよ、土を盛り上げて広い道を備え
石を取り除け。諸国の民に向かって旗を掲げよ。
11 見よ、主は地の果てにまで布告される。
娘シオンに言え。見よ、あなたの救いが進んで来る。
見よ、主のかち得られたものは御もとに従い
主の働きの実りは御前を進む。
12 彼らは聖なる民、主に贖われた者、と呼ばれ
あなたは尋ね求められる女
捨てられることのない都と呼ばれる。


2) 新約聖書
コリントの信徒への手紙一 12:12−26


◆一つの体、多くの部分

12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
13 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
14 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
15 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
16 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
17 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
18 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
19 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
20 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
21 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
22 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
23 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
24 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
25 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
26 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年1月20日

「共に苦しみ、共に喜ぶ

パウロって、なんとなく怖い。
そんなイメージがありませんか。
実際、多くの人が抱くパウロのイメージは、
「厳格で少し怖そう」です。
たしかにパウロの手紙や使徒言行録からは、
そのような印象を受けます。
なにしろ、手紙の中でパウロは、
しばしば人々を叱責し、戒め、
問題を指摘しているのですから。
厳しい言葉や厳格な態度が手紙にあふれ、
パウロのイメージを作り上げています。
だが、ほんとうはどうなのでしょう。
手紙から受ける印象だけで、
パウロを判断するのは間違いかもしれません。
手紙というものの性質上、
パウロの厳しい面が際立つのは、
仕方のないことだからです。
パウロは各地の教会が問題や誤りに陥り、
危機的な状況にあるので、
必要に迫られて手紙を書いたからです。
やんわりと穏やかに伝えるには、
事態が深刻すぎたのでした。
実際のパウロはどうだったのか。
残念ながら正確にはわかりません。
だが、手紙や使徒言行録をていねいに見ると、
最初の印象とは異なったパウロが見えてきます。
随所に愛情に満ちた表現があり、
細やかな気配りがみられ、
忍耐と寛容の精神に溢れています。
愛情と優しさに満ちた人のように思います。
それに加えてもう一つ、
きょうの聖書1コリント12章からは、
パウロがすばらしいユーモアの持ち主で、
ひょうきんな人という印象を受けます。
パウロによれば、人は誰も同じ聖霊によって、
異なる賜物を授けられています。
ところが、人の側は賜物の違いを、
優劣や上下、支配や被支配に結び付け、
教会の中に格差と分断を作り出します。
その事実をパウロはユーモアに描写します。

  体全部が目だったら、どこで聞くか?
  体全体が耳だったら、どこで嗅ぐか?

体中が目で、あるいは耳で覆われている。
そんなおもしろおかしい、
あるいは少し不気味な姿を自ら想像しながら、
パウロは読者にも想像させるのです。
そんな体のあちらこちらが、
互いに「おまえはいらない」と言い合い、
体のある部分は自分を上に置こうとし、
ある部分は自分を低く見積もってひがみ、
耳や鼻や目が顔の中でうろうろさまよい、
追い出し、追い出されたりして動いている。
まるで福笑いのようなことが起きていると、
パウロは面白おかしく描写します。
わたしたちもパウロの言葉を想像すると、
思わずにやにやしてしまいます。
ところが、この滑稽な話の背後にある現実は、
ユーモアどころではない深刻な現実です。
コリント教会の中で、
こうした事態が実際に起きていたからです。
コリント教会の中には存在していたのです。
「足が手ではないから、体の一部ではない」
と言い出す人が。
「耳が目ではないから、体の一部ではない」
と言う人が。
足は手のように見栄えが良いわけではなく、
有用さも低いように感じられます。
そのように、自分を否定し、
自分の存在を無価値のように思う人がいました。
同様に、耳も目のように正面で活動しませんから、
目と比べれば価値が低いように思われます。
そのように、自分が役に立たないと感じ、
自分は体にふさわしくないと思う人がいました。
それとは逆に、
自分の価値を高く評価して、
教会の誰かを役立たずのように見なし、
「目が手に向かって、おまえはいらない」
と言い出す人がいました。
自分が教会の指導者だと思う人が、
「頭が手に向かって、おまえはいらない」
と言う人がいました。
自分と他人を評価の対象にして、
量り合い、価値付けし合っていました。
中には教会のある人々を見下し、
格好の悪い人、
見劣りのする人として、
それらの人の仲間と見られることを、
恥かしいことと考える人がいました。
教会で、必要な人と不必要な人が分けられ、
役立つ人と役立たずの人が区別され、
教会で上の人と下の人の序列が作られ、
優れた人と劣った人が判定されていました。
それがコリント教会の実態でした。
ひとつの体としての教会。
でも、このコリント教会の姿は、
実は少しもめずらしいことではなく、
おかしな姿でもありませんでした。
その時代の、
否、時代を超えて、
この世の制度や組織は、
常に一つの「体」と考えられてきました。
日本でも戦前まで、
日本という国家の在り方を、
「国体」と表現してきました。
国民体育大会のことではありません。
国家という形態を、
国という体とみなしたのです。
パウロとコリント教会の時代も、
ローマ帝国は一つの体と見なされていました。
一つの体である国家に、
一人の皇帝がいて、
支配階級があって、
上から下までの役人がいて、
将軍から一兵卒までの軍隊があって、
市民がいて、
奴隷がいて、
高貴な身分から卑しい身分の人までいて、
そこに上下関係、優劣、支配と被支配があり、
全体で一つのピラミッド型の体を構成している。
そう考えられ、教えられていました。
下の者は上に服従し、
全体のために自分を犠牲にすることが賛美され、
全体のために献身的に仕えて奉仕することが、
美徳であり義務であるとみなされました。
そうしない者は非国民して処罰されましたから、
自分の意志や願いを殺して仕えることが、
当然の義務であり良いこととされました。
パウロは、そういう体理解があることを、
重々承知の上で、
教会を(キリストの)一つの体、
おのおの個々人をその部分と教えました。
だが、同じ「体」のイメージを使っていながら、
なんと異なる実態を、
パウロは体としての教会に当てはめたことか!
個々人を全体のための犠牲にする、
全体主義とは対極をパウロは主張するのです。
ふつうの世界では、民族の上下優劣が常識でした。
ユダヤ人とギリシア人は互いに相手を見下し、
差別し合い、批判し合い、敵意を向けていました。
しかし、洗礼によって一つの霊を飲んだ者は、
民族の違いが無意味、無価値になり、
同じキリストに属する体の部分とされました。
ふつうの世界では、社会的立場がものを言い、
身分や階級が分断されていました。
自由人と奴隷の間には深い溝がありました。
しかし、洗礼によって同じ霊を受けた者は、
自由人も奴隷も、等しくキリストの部分です。
しかも、パウロにとって真に重要なことは、
キリストを信じて洗礼を受けた者は、
等しく聖霊を受けているのであり、
聖霊を受けた者は例外なく、
霊の賜物を与えられているということです。
賜物は多様です。
その多様性をパウロは体の多様性で説明します。
体に多様な器官、部分があるように、
教会における各自の賜物も多様です。
ある賜物はすばらしく立派に思われ、
ある賜物は見劣りがして、
格好悪く見苦しく思われるかもしれません。
実際、コリント教会では、
賜物に優劣や上下があって当然だと考え、
差別し誇り、あるいは卑屈になる人がいました。
パウロはそうしたこの世の常識的な体理解を、
真っ向から反対して言います。
「頼りも弱く見える部分こそが必要だ」と。
もし、教会が強い者、優れた者だけだとしたら、
頭しかない教会、目しかない教会になります。
弱い者、小さな者の存在が許されない教会、
強い者がいっそう自分を強くしようと争う教会、
多様性のない一種類だけが存在する教会は、
不気味な、モンスターのような教会です。
教会には、ふさわしくない人はなく、
いらない人はいません。
教会が多様であればあるほど、
教会には互いへの配慮が満ち、
助け合うことが必要となり、
補い合うことが生きがいとなり、
憐れみを生きることの喜びがある、
そういう体になるはずです。
パウロはそういう教会の実際の姿を、
こういう言葉で描写しました。

 一つの部分が苦しめば、
 すべての部分が共に苦しみ、
 一つの部分が尊ばれれば、
 すべての部分が共に喜ぶのです。

こうして教会は一つの体として、
互いに配慮し合い、
いっしょにキリストの体を生き、
共にキリストを現すのです。
キリストは昔の人であって、
今はもういない?
いいえ、
キリストはいまも生きて、
わたしたちと共におられます。
いや、それ以上に、
わたしたちがキリストを生きています。
わたしたちはキリストの体なのですから。

(以上)

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