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2019年2月10日()   礼拝説教


「神が愛されたそのように、わたしたちも」  (石田 学牧師)
 説教は音声付きです。

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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
ミカ書7:14


14 あなたの杖をもって
御自分の民を牧してください
あなたの嗣業である羊の群れを。彼らが豊かな牧場の森に
ただひとり守られて住み
遠い昔のように、バシャンとギレアドで
草をはむことができるように。


2) 新約聖書
コリントの信徒への手紙一 13:4−7


◆愛
4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年2月10日

「神が愛されたそのように、わたしたちも」

中学生の時、スタンダール『恋愛論』を、
うんと背伸びして読みました。
日本語訳では「恋愛論」ですが、
原題を直訳すると「愛について」です。
愛の種類、愛のプロセスなどを論じています。
がんばって半分くらいまで読んだでしょうか。
忍耐と努力が養われただけ。
難しくてさっぱりわかりませんでした。
「愛について」論じているのですが、
言葉や理屈が難しいだけでした。
仮に「愛について」理解できたとしても、
それは愛を知ることとは、
どうやら全く別のことのようです。
「愛」は思春期ころから誰もが関心を抱きます。
でも、わたしが思うに、
日本人が口にするのがもっとも苦手な言葉は、
「わたしはあなたを愛しています」です。
まだ英語の I love you の方が言い易いかも。
愛とは何かとか、愛についてとかは、
語ることはそんなに難しくないのでしょう。
そこに主語と目的語、
「わたし」と「あなた」が入ると、
とたんにハードルが上がるように思います。
他の言葉なら、
たとえば「嫌い」「興味がある」などなら、
そんなに恥ずかしく感じないでしょう。
なぜ「愛している」と言いづらいのか、
なぜ恥ずかしく感じるのか、
その理由を考えてみました。
たぶん、自分の心のもっとも奥深いところ、
自分だけで秘めている心の奥底を、
相手に開いて見せる、
そんな言葉だからなのだと思います。
本気ではなく遊び半分で、
あるいは相手をその気にさせて騙す目的で、
口先だけで言うなら難しくありません。
本当の心の奥底を見せないで、
ただの音として言うだけですから。
だが、心の底からの本心として言うことは、
心の奥底を相手に開いて見せることになります。
「わたしはあなたを愛しています」。
そう本気で言われたなら、
それを受け止める側にとっても、
相応の決断が必要です。
聖書は愛を語りますが、
まさにそのような仕方で愛を語るのです。
聖書は、「愛について」語りません。
聖書は、「愛とは何か」を定義しません。
聖書は、「愛の理論」を論じません。
聖書は愛を動詞として、
「わたしはあなたを愛する」という仕方で、
主語と目的語をはっきりとさせて、
愛を語るのです。
聖書が愛を語るとき、
その主語の多くは神です。
目的語の多くは「あなた」「あなたがた」です。
「神が世を愛された」。
「神がまずわたしたちを愛してくださった」。
「わたしの愛する子」
「あなたがたは神に愛されている子ども」
神の御心のもっとも奥深くを、
神ご自身がわたしたちに開いて見せ、
わたしたちに心の奥底を差し出す仕方で、
聖書は語ります。
神がわたしたちを愛しておられるのだと。
神はご自分の御心の奥深く、
つまり神の本心・本音を、
理屈や定義や説明で隠したりなさいません。
神ご自身がすべてを賭けた仕方で、
わたしたちに向かって行動なさいました。
それが神の愛です。
神がご自分を捧げ尽くそうとする愛の、
もっとも究極の表れが、
神の御子が人となられたことであり、
御子キリストの生涯そのものであり、
十字架の死に至る受難でした。
わたしたち人間は不良少年か不良少女のよう。
親の愛を信じられなくなった子どもが、
どこまで反抗して親の期待を裏切れば、
親が本心を表して自分を見捨てるか。
その限界を確かめるために、
わざと反抗を繰り返すかのようです。
ここまですれば見捨てるか?
こんどこそは忍耐の限界か?
ここまでが親の愛の限度か?
人は神を疑い、
神を否定し、
神を利用し、
神に怒り、
神をばかにし、
自分や世界の問題を神のせいにします。
神はまさか自分のところまでは来ないだろう。
でも神の御子が来られました。
神はまさか悪人を赦しはしないだろう。
でも神の御子は罪の赦しを告げました。
神はまさかわたしのために、
御子を見捨てるまではしないだろう。
だが神は御子が十字架にかけられる時、
介入して御子を救い出し、
十字架に掛けようとした人々を滅ぼさず、
むしろ御子キリストは十字架の上で、
彼らの赦しを願いました。
「わたしはあなたを愛している」。
この神の本心からの言葉は、
音だけの虚しい言葉ではなく、
難しい理論でもなく、
神の全存在をかけた振る舞いとして、
わたしたちに示されたのでした。
だからパウロも愛について語る時、
愛を理屈や定義や論理で語りません。
愛はどのような仕方で表され、
どれほどまでの仕方で示されるのか。
愛はどのように生きることなのか。
そのことをパウロは語ります。
きょうの聖書の箇所でパウロは、
まさに愛を生きる生き方を、
具体的に語っています。
それはわたしたちがどう愛を生きるかですが、
それ以前に、神が愛をどう生きておられるか、
神の愛の表れを語る言葉でもあります。
神はどのような仕方で、
どれほどまでにわたしたちを愛されるのか。
そのことを踏まえての教えです。
きょうの箇所でパウロは、
「愛は・・」を十五回連ねます。
全部にいちいち「愛は」を付けていませんが、
パウロは十五回のすべてに、
「愛は」を前提として語っています。
どれも愛を定義する言葉ではありません。
愛についての理論でもありません。
愛はどのような道を歩むことなのか、
愛はどのように生きることなのか、
それを十五に具体化して語ります。
その前提にあるのは、
神がそのように愛を表したということです。
ですから、わたしたちはこの十五の言葉に、
「神の」を付けて考えると、
神がどのような仕方でわたしたちを愛するか、
そのことがよくわかることでしょう。
「神の愛は忍耐強い」。
神はどれほど繰り返し、
人に裏切られてもあきらめず、
どれほど人々が神を侮辱しても見捨てず、
救いの手を人々に差し伸べ続けています。
「神の愛は情け深い」。
神は自己中心で憐れみにかけるわたしたちを、
怒りを向けて裁くのではなく、
赦し、懐に受け入れてくださいました。
続けてパウロは言います。
「神の愛は妬まない」。
神はそれが自分自身であれ、財産であれ、
自分の信念や思想であれ、
なんであれ、自分の神を造り出してあがめる、
偶像崇拝者のわたしたちを憎まず、
かえって善意を示してくださいました。
「神の愛は自慢せず、高ぶらない」。
神の御子は栄光に輝く偉大な王としてではなく、
わたしたちを服従させる権力者としてではなく、
天から、わたしたちの低さにまで降り、
わたしたちと共にいてくださる仕方で、
わたしたちの救い主となられました。
「神の愛は礼儀に反することをしない」。
神はわたしたちを威圧したり脅したりせず、
強制的にわたしたちを服従させて、
ご自分のものにしたりなさいませんでした。
むしろ、わたしたちに語りかけ、
呼びかけ、訴えかけ、
わたしたちが自ら望んで応えるように、
わたしたちに働きかけてくださいました。
「神の愛は自分の利益を求めない」。
神は人々の間に価値の差を設けたりせず、
神にとって役立つ強い人や能力のある人を、
価値ある者として選んだりしませんでした。
信じる者すべてを神は無条件で受け入れ、
神の子としてくださいました。
「神の愛はいらだたず、恨みを抱かない」。
神は弱く乏しい、不足ばかりのわたしたち、
過ちの絶えないわたしたちに怒りを向けず、
人の悪をいつまでも心に留めたりしません。
「神の愛は不義を喜ばず、真実を喜ぶ」。
神は常にわたしたちに善意を向け、
恵みと慈しみをもって養ってくださいます。
そしてパウロは7節でまとめの言葉を述べます。
「神の愛はすべてを忍び、すべてを信じ、
すべてを望み、すべてに耐える」。
キリストの御生涯そのものが、
ここに言い表されています。
キリストがどう生き、どう死なれたのか。
そこにわたしたちは、
神の御心の奥底を見ることができます。
キリストを通して表された神の愛は、
神の御心そのものであることを、
わたしたちは知り、信じています。
それだからこそ、わたしたちもまた、
自分がどう生きるべきかを、
はっきりと知るはずです。
神が愛されたそのように、
わたしたちも人を愛することを願い、
神が愛されたそのように、
互いを思い、互いに振る舞い、
互いに慈しんで生きることを、
わたしたちは心から願うのです。
「わたしはあなたを愛している」。
それが、神がわたしたちに対して開かれた、
神の御心の奥底の思いであるように、
わたしたちも、そのように生きたいものです。
やっぱり言うのは恥ずかしい?
言わなくてもいいです、そう生きさえすれば。

(以上)

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