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2019年2月17日()   礼拝説教


「もし愛がなければ」  (石田 学牧師)
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◇ 聖書 < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
ミカ書7:17~18


18 あなたのような神がほかにあろうか
咎を除き、罪を赦される神が。
神は御自分の嗣業の民の残りの者に
いつまでも怒りを保たれることはない
神は慈しみを喜ばれるゆえに。
19 主は再び我らを憐れみ
我らの咎を抑え
すべての罪を海の深みに投げ込まれる。


2) 新約聖書
コリントの信徒への手紙一 13:8−13


◆愛
8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。
9 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
12 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年2月17日

「もし愛がなければ」

きょうの礼拝説教を用意するにあたり、
人類の文明の歴史を考えてみました。
文明の起源にいろいろな説はあるでしょうが、
五千年の歴史として振り返ってみましょう。
なだらかな文明の発展が、
この二百五十年ほどで加速的に進みました。
蒸気機関ができたのが二百五十年ほど前。
電気を使うようになって、たかだか百五十年。
ライト兄弟が空を飛んでからまだ百年そこそこ。
石油がおもなエネルギー源になって百年ほど。
原子力の火が最初に灯されたのは1942年。
その数年後に最初の原爆が使用されました。
この五十年ほどの間に、
あらゆる分野で知識と技術は進展し、
コンピュータの性能は飛躍的に進歩して、
人工知能の研究が加速し、
通信技術、バイオテクノロジー、
遺伝子工学など、
あらゆる分野で神の領域に踏み込んでいます。
飛躍的な知識の増加、
めざましい技術の発展が、
いったい何を人類にもたらしてきたのか、
何をこれからもたらすのか。
わたしたちはどう考え、
どのように受け止めるべきでしょうか。
わたしは発展と変化の早さに、
ついて行けなくなりつつあります。
もちろん、そうした知識と技術は、
多様な恩恵をもたらしてきました。
生活や仕事が格段に便利になり、
快適さも手に入れてきました。
もう手で文字を書くなど、
ほとんどないのが現実です。
でも、それらの知識や技術が、
恐るべき破壊と恐怖を生み出し、
殺戮と破壊を作り出してもきました。
近代科学技術のおかげで救われた人と、
そのために命を落とした人と、
いったいどちらが多いのだろうかと、
わたしは考え込んでしまいました。
なぜ、知識や技術が悪を増幅させ、
恐怖の道具になってしまうのか。
その理由をパウロは、はるか昔に、
はっきりと告げています。

 たとえ、異言を語ろうとも、
たとえ、預言する賜物を持ち、
神秘と知識に通じていようとも、
愛がなければ、無に等しい。

もし愛がないのなら・・
パウロはそう断言するのです。
もし愛がなければ。
この有名な言葉を含む1コリント13章は、
きょうも世界の何百何千という場所で読まれ、
人々をロマンチックな気持ちにさせています。
キリスト教の結婚式では、
この箇所がほぼ例外なく読まれるからです。
1コリント13章は、愛の賛歌。
そう呼ばれ、そう信じられ、そう扱われています。
ほんとうにそうなのでしょうか。
わたしたちは愛を、恋愛感情と結び付け、
あるいはせいぜい、家族のきずなと考えます。
そのために、愛を人類の運命や、
共同体の在り方と関係があるとは思いもしません。
愛とはプライベートなものであり、
情緒的な雰囲気の中で語るものとみなします。
いったいどれほどの人が、
愛と知識の関連を考え、
愛と科学技術の関係を思い巡らし、
愛と思想の一体性を議論するでしょうか。
どれほどの人が、
愛と権力を結び付けて考えるでしょうか。
そういったことは愛とは関係がない。
それが大多数の人々の気持ちです。
でも、ほんとうにそうでしょうか。
知識に愛が伴わないとしたら、
いったい何が起きるのか。
よく考えると、恐ろしいことです。
知識が憐れみを伴わないで使われたら、
人を効果的かつ大量に殺害する方法が、
知識によって発明されることもあります。
そうした発明が大量殺戮の火を作り出しました。
愛を意識しないで科学技術を用いた結果、
原子の火を核兵器に応用することになりました。
思想(イデオロギー)が愛を伴わない時、
イデオロギーのために多くの人が断罪され、
処刑されることとなりました。
権力が愛に基づいて行使されないとき、
権力は人を物とみなし、
人を国の道具として使い捨てました。
知識も、技術も、思想も、権力も、
愛と結び合わされないで用いられる時、
恐るべき破壊と恐怖が作り出され、
破滅が現実の可能性となります。
パウロはまさにそこに、
人間の罪深さを見ているように思います。
もちろん、現代のわたしたちの問題を、
パウロが知っているわけではありません。
だが、問題の根本は時代を越えて共通です。
愛のない知識、愛のない預言が何をもたらすのか。
そのことを、コリント教会の現状に即して、
パウロはこの手紙を書いています。
コリントで問題となっていたのは、
預言であり、異言であり、知識でした。
すぐれた預言の賜物、
異言を語る特別な賜物、
他の人を凌駕する知識。
それらを具体的にパウロは挙げますが、
本質は全人類に共通しています。
「もし愛がなければ」という問いは、
人類の知恵、知識、技術、支配など、
すべてのことがらに当てはまることです。
「愛がなければ」とパウロは問いますが、
愛は付け足しや添加物ではありません。
愛は生き方そのもの、
つまり道であり、
振る舞い方であり、
意志であり決断の在り方です。
したがって、「愛がなければ」は同時に、
「もし忍耐しないなら」と問うことであり、
「もし情け深くないなら」と問うことです。
「もし愛がなければ」と問うことは同時に、
「もし妬むなら」と問うことであり、
「もし自慢し、高ぶるなら」と問うことです。
もし神が愛でないとしたら、
つまり、もし神が忍耐しないとしたら、
もし神が情け深くないとしたら、
もし神が妬む方であったら、
もし神が自慢し高ぶる方だとしたら、
わたしたちはいったいどうなるのでしょうか。
もし、神は正義の神だが、愛がないとしたら、
神の正義はわたしたちにとって恐怖です。
神が忍耐せず憐れまずに正義を振るうなら、
神の正義によって命を絶たれるでしょう。
もし、神は愛なしに裁く方であるとしたら、
わたしたちは罪のゆえに、
神に容赦なく断罪されるでしょう。
もし聖なる神が愛をもたないとしたら、
わたしたちは神の聖さによって、
跡形もなく焼き尽くされ滅ぼされるでしょう。
神は愛です。
旧約聖書から新約聖書に至るまで、
神が愛であり、憐れみ深い方であることを、
至るところで、繰り返し、
人々に語り伝えています。
きょう旧約はミカ書の7章から読みました。
預言者は神に向かって高らかに呼びかけます。

 あなたのような神がほかにあろうか。
咎を除き、罪を赦される神が。
神はご自分の嗣業の民の残りの者に
いつまでも怒りを保たれることはない。
神は慈しみを喜ばれるゆえに。
主は再び我らを憐れみ
我らの咎を抑え、
すべての罪を海の深みに投げ込まれる。

神が愛だからこそ、
神はわたしたちの罪深さを忍耐し、
憐れみ深く接してくださり、
わたしたちを赦し受け入れてくださいます。
もし神に愛がなければ、
神はわたしたちに敵対し、
わたしたちを罪に定め、
わたしたちを滅ぼすことでしょう。
神は義にして聖、公平に裁く神ですから。
神はわたしたちに賜物を分け与え、
互いに賜物を生かして用いるようにと、
賜物である知恵と知識を与え、
能力や力を与えてくださいました。
だが、もしわたしたちに愛が亡ければ、
わたしたちが賜物を愛なしに用いるなら、
それらの賜物は必ず、
対立を生み、敵意を作り出し、
賜物に対する高ぶりやねたみを引き起こし、
互いに恐れを抱き、
批判、攻撃、不一致を作り出すでしょう。
愛のない知識は、
他の人の無知や誤りを赦さず、
裁き、あるいは軽蔑へと至らせるでしょう。
愛のない異言、
あるいは異言に代表される特別な賜物は、
人を高ぶらせ、
他の人を見下すようにさせることでしょう。
愛のない預言は、
自分の正義による裁き合いを生み、
人々の間に隔ての壁を築くことでしょう。
人間の持つ知識は部分的にしかすぎず、
どのような知恵も力も能力も、
一時的なものにしかすぎません。
でも、愛がなければ、
人はその節度を見失い、
自分をすべてのことにおいて正当化し、
他の人を自分の量りで裁くようになります。
パウロはおもしろい表現を持ち出します。

 幼子だったとき、
わたしは幼子のように話し、
幼子のように思い、
幼子のように考えていた。
成人した今、
幼子のことを棄てた。

なぜ突然、幼子のことなど持ち出したのか。
それがわたしには謎でした。
パウロはここで、幼子という言葉を、
イエス様とは違う意味で用いています。
イエス様は、
幼子のように神の国を受け入れなければ、
そこに入ることはできない。
そう言われました。
でもパウロは、
幼子という言葉の意味を、
たとえば3:1−2で、
霊の人ではなく肉の人という意味で、
キリストとの関係では堅い食物を口にできない、
乳飲み子にすぎない人という意味で使います。
パウロは「幼子だったとき」と、
「成人した今」を対比しています。
幼子、つまりキリストを知らなかった時、
パウロは愛なしに、
預言や異言や知識を使っていました。
それらによって意見の異なる人を裁き、
迫害し、断罪していたのでした。
愛のない知識、異言、預言は、
妬みや争いを生み出し、
高ぶりや裁きをもたらしました。
迫害者であったパウロが、
自分自身のことを思っていたのでしょう。
キリストをとおして神の愛を知ったことを、
パウロは「成人した今」と呼びます。
愛をもって知識や預言や異言を考えるとき、
それらがいかに部分的なものにすぎないかを、
わきまえることができ、
自分を正義として他の人を裁き、
自分を高くおいて他の人を見下すのではなく、
完全な知識はキリストのものであることを知って、
主キリストが来られてすべてを明らかにする、
その時を望みつつ、
今は互いへの愛に基づいた生き方をするのです。



(以上)

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