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<公現後第7主日>

2019年2月24日()   礼拝説教


「何よりも心を向けるべきことは・・」  (石田 学牧師)
 説教は音声付きです。

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◇ 聖書 < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
ゼファニヤ書3:16~17


16 その日、人々はエルサレムに向かって言う、
「シオンよ、恐れるな 力なく手を垂れるな。
17 お前の主なる神はお前のただ中におられ
勇士であって勝利を与えられる。
主はお前のゆえに喜び楽しみ
愛によってお前を新たにし
お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」



2) 新約聖書
コリントの信徒への手紙一 13:13


◆愛
13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。
その中で最も大いなるものは、愛である。

(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年2月24日

「何よりも心を向けるべきことは・・」

きょうは有名な1コリント13章の中でも、
特に有名な言葉、13節だけを取り上げます。
この一節だけを読んでみて、
わたしが気になったのは冒頭の言葉、
「それゆえ」でした。
「それゆえ」は、前にある言葉を土台にして、
それに基づいて話を続けるつなぎの言葉です。
ということは、ここまでの13章に基づいて、
パウロは結論として13節を書いたのか・・。
そう思いながら13節を考えてみました。
その結果、日本語訳に疑問を感じました。
日本語訳に重大な疑問を感じたと言うべきでしょう。
わたしたちが使っている新共同訳聖書は、
「それゆえ」と訳しています。
他の聖書の訳も見てみました。
新改訳聖書は「こういうわけで」。
以前使っていた口語訳聖書は「このように」。
フランシスコ会訳聖書は「だから」。
どの訳もみな、13節を、
それまでの議論の結論と見なしているようです。
岩波書店版は「そこで今や」。
これはだいぶ直訳に近いです。
パウロが書いたギリシア語原文は「ヌーニ・デ」。
これをどうすれば「それゆえ」と訳せるのか。
どうしたら「こういうわけで」と訳せるのか。
わたしには理解できません。
どちらの聖書の翻訳者も13節を、
12節までの議論の結論とみなし、
パウロによるまとめの言葉と考えたのでしょう。
だから、原文にはない解釈を加えて、
「それゆえ」という、
結論を導く言葉として訳したのでしょう。
訳したというより解釈したと言うべきでしょう。
この訳が定着しているために、
13節は13章全体のまとめの言葉、
そのように思われてきました。
それは間違っている。
わたしは今回、そう確信するに至りました。
パウロが書いたギリシア語原文、
「ヌーニ・デ」は二つの単語です。
「ヌーニ」は「今」、
「デ」は「そして」あるいは「だが」。
ですから、「ヌーニ・デ」は直訳すれば、
「それゆえ」でも「こういうわけで」でもなく、
「そして今は」
もしくは「だが今は」。
パウロが13章で論じていることを考えて、
ここでパウロが述べたことを訳すとしたら、
「だが今は」という意味でしかあり得ない。
そう確信するに至りました。
たった二語の翻訳にすぎないのですが、
どう訳すかで重大な意味の違いが出て来ます。
パウロは13章の後半で、
この世のあらゆる知識も預言も異言も、
みな一時的・部分的であり、
過ぎ去るものにすぎず、
したがって今は鏡におぼろに映ったものを、
わたしたちは見ているに過ぎないと言います。
今は完全にはっきりとではなく、
不完全で一時的なものを、
部分的な仕方でしか知ることができない。
そう述べたあとで、
「そのとき(キリストが来るとき)には、
はっきりと知るようになる」。
この将来の出来事を望みとして語ります。
それが知識であれ預言であれ、
あるいはこの世のどのようなものであれ、
わたしたちが完全に理解し、
はっきりと知るようになるのは、
やがてキリストが再び来られる、
将来の出来事です。
そのことを踏まえてパウロは、
「だが今は」と続けるのです。
いつかはっきりと知るときが来る。

 だが今は、
信仰と、希望と、愛、
この三つがあり続ける。

 パウロはわたしたちが生きる二つの現実を、
未来のキリストの来臨を間に挟む仕方で、
わたしたちに示すのです。
今は鏡におぼろに映ったものを見ている。
それは一時的で部分的なものにすぎない。
だが今は、信仰と希望と愛、
この三つがあり続ける。
そしてもっとも大いなるものは愛だ。
今のわたしたちには、
完全なもの、永続するものは何もありません。
知識は部分的、預言も一時的。
この世でわたしたちが得るものは不完全であり、
どれもいつまでもあり続けるものではありません。
そもそもわたしたちの存在自体が、
一時的であり限りのあるものにすぎません。
そんなわたしたちは、しかし、
往々にして勘違いします。
この世のものが永続的であるかのように。
そのため、この世のものに心を向けすぎすぎて、
この世のものにしか目を向けない生き方をします。
わたしたちの持っているものはなんであれ、
それが所有物であれ財産であれ、
立場であれ地位であれ、名誉であれ、
すべては一時的なものにすぎません。
わたしたちはそういう「今」を、
そういうこの世を、今生きています。
そうであれば、
わたしたちはいったい何にこそ、
わたしたちの心を向けるべきでしょうか。
わたしたちはなかなか難しい時代を生きています。
あまりに必要と思われるもの、
ないと困ると思うもの、
足りないと不幸だと感じるもの、
欲しいもの、
不足していると苦労するように思われるもの、
不安の材料、
心配のたねは尽きません。
それらが際限なくわたしたちの前に現れ、
それらを獲得し、身に付け、手に入れるため、
「あれを、これを、それを」と、
ひたすら努力して追い求めます。
そして、いつしかそれら一時的なもの、
部分的にすぎないものが、
わたしたちの心を捕らえて離さなくなり、
自分の命を部分的なもののために注ぎ込み、
一時的なもののために消耗して生きています。
パウロはそれらの一時的・部分的なものが、
いっさいだめだとか、
何の役にも立たないと言うのではありません。
知識であれ預言であれ、
才能であれ能力であれ、
財産であれ地位であれ、
それらはあったら良いし、
一生懸命獲得しようとすることも必要です。
だが同時に、
それらが部分的であり一時的なものにすぎず、
わたしたちに神の愛を実感させることも、
神の国を望ませることも、
永遠の命を与えることもないという、
その事実をわきまえていなければなりません。
そうしてこそ、わたしたちは、
何よりも心を向けるべきことを心に留め、
それをわきまえて生きるようになるからです。
今は、この世にあるものはなんであれ、
部分的であり一時的なものにすぎません。
いつかキリストが再び来られるなら、
その時には完全に知るようになります。

 だが今は、
信仰と、希望と、愛、
この三つがあり続けるのであり、
その中で最も大いなるものは愛である。

 信仰と希望と愛。
この三つは物ではありません。
知識でも能力でも才能でもありません。
わたしたちの生き方であり、
わたしたちの心の有り様であり、
わたしたちの歩む道です。
信仰とは、
この世の何か、この世の誰かにではなく、
神に信頼して生きることです。
希望とは、
この世の何かを目当てに生きるのではなく、
天の故郷をあこがれて目指すことです。
愛とは、
災いや困難や苦難に遭うとしても、
神がわたしを愛しておられるという、
その事実に生かされることです。
神の愛は永遠の愛。
だからわたしたちは永遠の命を信じます。
神の永遠性の内に受け入れられているからです。
わたしたちにとって究極の拠り所は、
神がわたしたちを愛しておられることです。
そのことを知るとき、
わたしたちはたとえ今は苦難の中にあっても、
平安と慰めをなくしてしまうことなく、
絶望の淵に落とされることもありません。
神の愛を支えとしてこの世を旅するからです。



(以上)

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