公現後第8主日>

2019年3月3日()   礼拝説教


「ナザレン教会の選択」  (石田 学牧師)
 説教は音声付きです。

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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
申命記 10:12−22


12 イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、
13 わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。
14 見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。
15 主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった。
16 心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない。
17 あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、
18 孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。
19 あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。
20 あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従ってその御名によって誓いなさい。
21 この方こそ、あなたの賛美、あなたの神であり、あなたの目撃したこれらの大いなる恐るべきことをあなたのために行われた方である。
22 あなたの先祖は七十人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主はあなたを天の星のように数多くされた。


2) 新約聖書
コリントの信徒への手紙一 14:1−5


◆異言と預言

1 愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。
2 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。
3 しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。
4 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。
5 あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。

(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年3月3日

「ナザレン教会の選択」

賜物。
普段、あまり使わない言葉です。
聖書の言葉ではカリスマ。
最近、日本でもカリスマは使われます。
「カリスマ美容師」とか。
聖書の意味と少し違いますが。
英語ではたいていギフトと訳されます。
文字通り、贈り物の意味です。
自分のものではなく、
授けられた良いもの。
聖書の賜物は、神から授けられた贈り物。
それが本来の意味です。
神の霊によって特別な賜物が与えられて、
それぞれ異なった働きや務めを担います。
パウロは少し前の12章で、
賜物にはどのようなものがあるかを、
一覧表のように並べ上げて語っています。
使徒の働きをするための賜物
預言者としての務め、
教師、
奇跡をおこなう力
癒しの賜物
援助する賜物
管理の賜物。
これが全部というのではなく、
多くの賜物の一部です。
たくさんある賜物は、
しかし例外なく神に授けられたものです。
人間の問題は、
それらの能力や才能、
あるいは力や知恵、知識などを、
自分のものと思い込むことです。
授けられたのではなく、
自分に生来備わっていたもの、
自分で努力して獲得し磨きあげたわたしのもの、
そのように思い込むことです。
おそらく、世の中の大多数の人は、
自分の才能であれ能力であれ、
知恵や知識や豊かさであれ、
自分のものと考えています。
だから自分の立場や地位や利益のために使い、
自分を高めることを目指します。
わたしたちキリスト者は別の考え方をします。
わたしたちの持っているものはすべて、
自分の独占物ではないことを知っています。
なにしろ、使徒パウロはそうしたもの一切が、
「賜物」つまり授けられたものだと言うのですから。
賜物とは神から賜ったものということです。
神から委託されたものだということです。
そうであれば、
もちろんわたしたち自身の賜物は、
自分のために用いるのは間違いではないし、
自分の評判や名声に役立てることも、
悪いことではありませんが、
それを第一の用い方にしてはならず、
優先的な目的にしてしまってもいけません。
神から授けられた賜物であるのなら、
わたしたちは神の栄光を表す仕方で用い、
人々の益となるように用いるべきです。
そのことをわたしたちは知っています。
賜物にはたくさんの種類があるとパウロは言います。
賜物の間には上下や優劣もありません。
パウロはその事実を強調してきました。
しかし、きょうの1コリントの箇所で、
一点だけ例外を語るのです。
預言を語る人と、異言を語る人を比較して、
預言を語る人の方が優っていると言うのです。
さて、ここで疑問を抱く方もあることでしょう。
「異言」とは何でしょうか。
パウロは異言のことをこう定義します。

 神に向かって語る言葉
 霊によって神秘を語ること

異言は、神の霊が与える賜物の一つで、
解釈することなしには、
人間には意味が通じない言葉、
あるいは音のことです。
意味のない音だとはパウロは言いません。
きっと、意味はあるのでしょう。
ただそれが人間には理解できない。
だから「神に向かって語る」言葉、
「霊によって神秘を語る」こと。
そうパウロは呼びます。
異言を語る人はわたしたちの教会には、
積極的な意味ではおりませんので、
多くの皆さまにはなじみがありません。
異言の賜物を積極的に認めている教会もあり、
集会で多くの人が異言を語る教会もあります。
わたしは以前、友人に誘われて、
ペンテコステ派の教会に行ったことがあります。
集会のあちらこちらで異言を語る人が現れ、
けっこう賑やかで活発な礼拝でした。
パウロ自身も異言で祈り、
異言で歌い、
異言を語ることを勧めています。
異言は聖霊が授ける賜物。
その事実を踏まえたうえで、
パウロは預言と異言を比較して、
預言を語る者の方がまさっていると言い、
預言の方を推奨したのでした。
異言と預言の間にある違いが、
そのような結論を出させたのです。
パウロによると、
異言は神に向かって語るものであり、
霊によって神秘を語ることであり、
自分を造り上げることです。
異言は本質的にその人と神の関係。
そのようにパウロは定義しています。
異言自体は良いことであり、
パウロもこんな言い方をしています。
「異言を語れるにこしたことはない」。
しかし、異言は本質的に、
自分と神との関係で意味があることです。
他の人に語り聞かせたり、
他の人に何かを告げ知らせるためのものではなく、
他の人を教え導くためのものでもない。
それがパウロの異言理解です。
それに対して、
預言は人に語る言葉であり、
人を励まし慰め、
教会を造り上げます。
人々に福音を告げ知らせ、
人々を教え導き、
教会を造り上げるという意味で、
預言の方が優っているとパウロは言うのです。
この言葉には重大な意味が込められています。
どういうことかというと、
教会は人々に理解できる言葉で、
キリストを告げ知らせ、
人々に救いと望みをもたらし、
この世を旅する民として呼び出し、
天の国を本国とさせ、
その旅を終わりまで支え導く務めがある、
ということです。
わたしたちのナザレン教会は、
ちょうど今から百年前の1919年に、
ある選択をいたしました。
もともと、わたしたちの教会は教派の名前を、
ペンテコスタル・チャーチ・オブ・ザ・ナザレン、
そう称していました。
百年前、この名前から、
ペンテコスタルを除いて、
チャーチ・オブ・ザ・ナザレン
と改名しました。
意味は「あのナザレ人の教会」。
小さい者を招き、貧しい人と歩み、
病を癒し、悩む者を慰め、
差別され苦しめられる者と生きた、
あのナザレ人イエス・キリストの教会。
それを教派の名称として採択したのでした。
ペンテコスタルを除いたのは、
聖霊の特殊な働きによって生じる現象よりも、
すべての人が招かれている愛を生きることを、
教会の本質的、優先的なことと信じたからです。
この選択によって、
ナザレン教会は異言を否定したのではなく、
異言を排斥したのでもありません。
異言を積極的に勧めるのではなく、
教会を造り上げること、
つまり理解できる言葉で福音を語り、
意味のある言葉で教え導くことを、
なによりも重要なこととして掲げたのでした。
しかし、理解できることは大切ですが、
ただ理解できる言葉なら良いのではありません。
理解できる言葉で攻撃や批判をしたり、
裁いたり責めたりすることもあり得ますから。
意味のある言葉で語られ、
理解できる言葉で教えられる福音が、
神の愛を告げ知らせ、
神の憐れみと慈しみを体験させることこそ、
なによりも重要です。
互いに愛を生きる人々の共同体として、
教会を造り上げる言葉が教会で語られる時、
教会はパウロが大前提として最初に呼びかけた、
「愛を追い求めなさい」という在り方を、
ここにおいて、この教会において、
わたしたちも実現することができる。
そのように信じて教会を造り上げましょう。

(以上)

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