<四旬節第2主日>

2019年3月17日()   礼拝説教


「霊と理性をもって、神をたたえる」  (石田 学牧師)
 説教は音声付きです。

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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
箴言2:1−8


1 わが子よ
わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして
2 知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら
3 分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら
4 銀を求めるようにそれを尋ね
宝物を求めるようにそれを捜すなら
5 あなたは主を畏れることを悟り
神を知ることに到達するであろう。
6 知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える。
7 主は正しい人のために力を
完全な道を歩く人のために盾を備えて
8 裁きの道を守り
主の慈しみに生きる人の道を見守ってくださる。


2) 新約聖書
コリントの信徒への手紙一、14:6−19


◆異言と預言

6 だから兄弟たち、わたしがあなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。
7 笛であれ竪琴であれ、命のない楽器も、もしその音に変化がなければ、何を吹き、何を弾いているのか、どうして分かるでしょう。
8 ラッパがはっきりした音を出さなければ、だれが戦いの準備をしますか。
9 同じように、あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうして分かってもらえましょう。空に向かって語ることになるからです。
10 世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。
11 だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとってわたしは外国人であり、わたしにとってその話し手も外国人であることになります。
12 あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。
13 だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。
14 わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。
15 では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。
16 さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。
17 あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。
18 わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。
19 しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。


(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年3月17日

「霊と理性をもって、神をたたえる」

 わたしたちはよく、人を二通りに仕分けします。
あの人は感情的な人だとか、
この人は理性的な人だとかいうように。
たいていの場合、理性的と言われると、
ほめられたように感じると思います。
感情的と言われると、
思慮が足りないかのように感じます。
しかし、実際には片方だけの人はなく、
感情と理性を合わせ持っています。
どちらの方がより強いかは、
人それぞれでしょう。
片方だけに偏ってしまうのは問題です。
たとえば、
感情がすぐに膨れ上がって爆発し、
理性を吹き飛ばしてしまうとき、
虐待や暴力が支配者になってしまいます。
反対に、
理性が感情をないがしろにするとき、
憐れみと共感が失われることになります。
感情と理性。
ほんとうはその両方が必要です。
感情豊かで、理性的であるとき、
わたしたちは人間らしくあるのだと思います。
パウロはきょうの聖書箇所で、
そのバランスを求めているのではないでしょうか。
パウロは霊と理性という言葉を用いています。
両者を対比して、
異言を霊的なこと、
預言を理性的なことと考えているようです。
異言は人の理解できる言葉ではなく、
霊に動かされる感情の表現です。
パウロによれば、
異言は解釈者がいるのでないかぎり、
人に理解できないので、
教えとはなりません。
理解されず教えることもないので、
異言は教会を造り上げません。
パウロによれば異言はあくまで、
その人自身と神との関係のことがらです。
パウロの書き方から明らかなのは、
パウロ自身も異言を語り、
異言で祈り、異言で賛美しています。
他の教会でも異言を語る人はいました。
それなのになぜ、
パウロはコリント教会だけに宛てて、
異言についての教えと指導を、
しかもかなり詳しく書き送ったのでしょうか。
その理由は明らかです。
コリント教会には他の教会とは異なる、
ある特殊な特徴がありました。
理性を重んじるよりも、
異言という霊の賜物を強調する人たちがいて、
彼らが教会を支配しようとしていたのです。
預言に代表される理性的なことを軽んじ、
神の言葉を教えることをないがしろにして、
異言を語る自分たちを霊的に優れた者とみなし、
他の人たちを見下していたのでした。
1コリントのきょうの箇所は、
パウロがそうした問題に対処するため、
異言に否定的な書き方をしています。
そのことを踏まえずにきょうの箇所を読むと、
パウロは理性主義者のようにみなされます。
でも、実際にはパウロは、
霊と理性の両方が必要なことを知っています。
そこで、霊と理性を並列的に配置して、
パウロはこのように語っています。

   霊で祈り、
理性でも祈ることにしましょう。
霊で賛美し、
理性でも賛美することにしましょう。

 両方が必要なのです。
だが、両者のバランスは常に課題でした。
霊的なことと理性的なこと、
そのバランスを取ることは、
教会の歴史の中でいつも難しい課題でした。
教会はすぐにギリシア・ローマ世界に出て行き、
福音を宣べ伝えてきました。
ギリシア世界では理性が重んじられたため、
キリスト教がギリシア世界に広まると共に、
理性が重要視されるようになりました。
近現代はいっそう理性の時代です。
科学的な証明と説明が求められ、
合理的・理性的なことだけを信じ、
受け入れる風潮が強い世の中です。
それにつれて、
霊的なことがらは排除され、
感情は軽蔑されるようになりました。
それはイエス様の姿とは異なります。
イエス様はむしろ霊的なことを重んじ、
感情に訴えました。
神をアッバ(おとうさま)と呼び、
神は愛だと教えました。
でもギリシアの思想家や、
近代の神学者たちは、
神を全能者、第一原因、
創造者、存在の根拠などと定義してきました。
感情には余地のない、
理性による神の定義です。
明治時代にキリスト教が伝えられたとき、
多くの人々はキリスト教を、
「学問」「教養」「道徳」として学び、
キリスト教を文字通り勉強したのでした。
感情ではなく理性で、
キリスト教を理解しようとしたのです。
わたしたちはどうでしょうか。
キリスト教を学ぼう、勉強しよう、
キリスト教を理性で理解しよう。
そのように考えていないでしょうか。
学びは知識を深め、
理性的な理解力は信仰をよりよく説明します。
でも、それだけだとしたら、
わたしたちはキリスト教信仰を、
自分の存在の半分だけ、
理性的な面でだけ受け止めています。
霊的な面は疎かにされたままです。
よく「キリスト教はむずかしい」と言われます。
何を勉強したらクリスチャンになれるのかと、
わたしたちは不安になります。
まだ充分に理解できていない、
まだよくわかっていない。
そのような戸惑いがあるとしたら、
教会に問題があるのでしょう。
信仰を理性で教えようとし、
理性で理解しなければと考えるからです。
たしかにパウロが言うように、
理性で考え、理性で理解し、
理性で祈り、理性で賛美し、
理性で学ぶことは教会を造り上げます。
しかし、わたしたちの心を動かし、
わたしたちを深く感動させ、
わたしたちを喜びと感謝で満たすのは、
理性よりも神の愛に触れるときであり、
理屈でキリストを学ぶよりも、
わたしのために十字架にかかり、
その命を捨てられたことを思って、
感情を揺り動かされるときです。
わたし自身について言えば、
神について、信仰について、
もっとも心を動かされ感動を覚えるのは、
神についての深い神学的説明を読んだり、
みごとな神学的論述を学んだ時ではなく、
きょう礼拝で、

  冠も天の座も惜しまずに捨てて
地に降る御子イェスを泊める部屋はない
おいでくださいイェスよ、
ここに、この胸に。

と歌うときであり、
説教のあとで歌う讃美歌で、

  谷川の流れを慕う鹿のように、
わが魂は主よあなたを慕う

と旋律に乗せて歌い上げるときです。
わたしが病の床にある方を見舞うとき、
その方が神に心を開いていると感じるのは、
わたしが神についての神学的説明をしたり、
神の愛や神の御旨について、
理屈を語る時ではなく、
神が愛しておられることを宣言する、
聖書の御言葉を読んだ時であり、
思いを込めて祈るときであり、
イエス様がそうなさった、そのように、
その方の手を取り、
その方をこの腕に、この胸に抱き留める時です。
わたしたちは理性的な存在であると共に、
霊的な存在です。
ですから、わたしたちは、
霊と理性をもって、神をたたえ、
霊と理性によって神を賛美する、
そのような生涯を生き、

そのような仕方で生涯を終えたいと願います。

(以上)

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