<四旬節第3主日>

2019年3月24日()   礼拝説教


「信仰とは神が共にいてくださること」  (石田 学牧師)
 説教は音声付きです。

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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
イザヤ28:9-13


9 誰に知るべきことを教え
お告げを説き明かそうというのか。乳離れした子にか、乳房を離れた幼子にか。
10 「ツァウ・ラ・ツァウ、ツァウ・ラ・ツァウ
(命令に命令、命令に命令)
カウ・ラ・カウ、カウ・ラ・カウ
(規則に規則、規則に規則)
しばらくはここ、しばらくはあそこ」と
彼らは言う。
11 確かに、主はどもる唇と異国の言葉で
この民に語られる。
12 主が彼らに言っておかれたことはこうだ。「これこそが安息である。疲れた者に安息を与えよ。これこそ憩いの場だ」と。しかし、彼らは聞こうとはしなかった。
13 それゆえ、主の言葉は、彼らにとってこうなる。「ツァウ・ラ・ツァウ、ツァウ・ラ・ツァウ
(命令に命令、命令に命令)
カウ・ラ・カウ、カウ・ラ・カウ
(規則に規則、規則に規則)
しばらくはここ、しばらくはあそこ。」彼らは歩むとき、つまずいて倒れ
打ち砕かれ、罠にかかって、捕らえられる。



2) 新約聖書
コリントの信徒への手紙一、14:20−25


◆異言と預言

20 兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。
21 律法にこう書いてあります。「『異国の言葉を語る人々によって、
異国の人々の唇で
わたしはこの民に語るが、
それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう』
と主は言われる。」
22 このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです。
23 教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。
24 反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、
25 心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。



(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年3月24日

「信仰とは神が共にいてくださること」

 きょうの旧約聖書の箇所は、
ずいぶんと不思議な言葉です。
紀元前八世紀、
イザヤという預言者が現れて、
人々に預言の言葉を告げました。
ところが、イザヤの預言を聞いた人々は、
イザヤの言うことを信じようとはせず、
まともに聞こうともしませんでした。
彼らはイザヤの言葉をからかって、
子どもがアレフ・ベトを習う、
発音練習みたいだと嘲るのです。

 ツァヴ・ラツァヴ、ツァヴ・ラツァヴ、
カヴ・ラカヴ、カヴ・ラカヴ

意味の通じない変な音。
それとも、ひどくなまって、
こんなふうにも聞こえるでしょうか。

 命令に命令、命令に命令
規則に規則、規則に規則

これだって意味不明。
何のことだかわからない、
でたらめな単語の羅列みたい。
神の警告と戒めを伝えるイザヤの言葉は、
しかし信じない人々の耳にはただの雑音。
だから神は彼ら信じない者たちに、
異国アッシリアの言葉で語ることにします。
彼らが信じない人々であることのしるしとして。
信じない人々には神の言葉が通じない証として。
パウロはコリント教会での異言の問題を、
かつてイザヤの時に起きた問題と重ねて、
イザヤの時代の出来事を例として取り上げます。
教会に集まっている人たちがみんな、
意味のわからない異言だけを語っていて、
そこにはじめて教会に来た人や、
まだ教会に来始めたばかりの人が来たら、
どう思われるだろうか。
気が変な人たちの中に来てしまった、
そのように思うに違いない。
かつてイザヤの時代、
預言者の言葉を嘲る人々に、
神は異国の言葉で語りました。
彼らが信じない人々であるしるしとして。
それと同じことだとパウロは言うのです。
人々が語る異言は、
信じない人々のためのしるしとなる、
つまり異言を聞いて驚いた人々は、
神を信じることを止めてしまうでしょう。
しかし、もし人々が預言を、
つまり意味のわかる言葉で、
人の罪と神の救いを語り、
神の愛と憐れみが教えられていたら、
その言葉は信じる人々のためのしるし、
つまり人々が神を信じるようになる、
そうパウロは言います。
パウロが伝えたいことははっきりしています。
パウロは、教会とは何かを示したいのです。
異言が神の霊の賜物であるのは確かです。
だが、異言は自分と神との間だけの、
閉ざされた恵みであって、
他の人々、特に外の人々に向かいません。
自分たちだけの間での恵みです。
だからパウロは異言に反対ではないとしても、
異言が教会を造り上げることはないと言います。
教会とは、自分たちだけが恵まれ、
霊に満たされたと感じて満足し、
心地よくなる所ではないからです。
コリント教会のある人々は、
この点で教会の意味を勘違いしていました。
異言で自分と神の世界に浸り、
自分の霊的な満足だけを求めたのです。
だが、異言をみんなで語る彼らの集まりは、
未信者を教会から離れさせ、
信じなくさせる結果を招いていたのでした。
多くの教会がそうだったわけではありません。
むしろコリント教会だけの問題でした。
そうであれば、パウロの時代の他の教会も、
現代の多くの教会も、
異言ばかりを盛んに語る教会はないですから、
パウロの警告はあまり関係ないでしょうか。
いいえ、たしかに異言そのものはなくても、
コリント教会が陥っていた本質的な問題は、
時代を超えて、どの場所でも、どの教会でも、
陥りやすい問題です。
その問題とは、
自分の心地良さだけを願い求める在り方です。
自分たち仲間だけで交わり、
内輪での快適さを楽しみ、
自分が恵まれたと言って満足しているとしたら、
あるいは牧師が難しい思想や神学を語って喜び、
教会の中で仲間内の話だけで盛り上がるなら、
未信者や教会に来たての人は意味がわからず、
異言だけしか語らないで人々を困惑させ、
神を信じなくさせていた、
あのコリント教会と同じです。
教会とは何か。
この問いに対するパウロの答えは明快です。
教会とは、
神について、
わたしたちの罪について、
神の裁きについて、
神の愛について、
神の憐れみと救いについて、
神の国と将来の希望について、
理解できる言葉で語られ、聞かれ、
信じる人々がいっそう堅く信じ、
聞く人々が神を知り、信じるようになり、
信仰を堅く抱くようになる所です。
信仰を抱き、信仰を堅くする。
では信仰とは何でしょうか。
信仰の意味を間違って考える人がいます。
多くの人は信仰を、
神が願いを叶えてくれるためのものと考えます。
あるいは、こんな風に思い込みます。
信仰とは神についての知識、
聖書についての知識を持つことだと。
そうではありません。
パウロは信仰についてこう教えています。
信仰とは神が共にいてくださることだと。
わたしたちが信仰を抱いているということは、
神が共にいてくださると信じて生きることです。
わたしたちは、神が共にいてくださると信じて、
この世の旅を歩んで行くのです。
信仰を抱いているわたしたちは、
もはや自分一人だけでこの世を旅してはいません。
神と共に世を旅しているからです。
共におられる神を、
わたしたちは目で見ず手で触れもしません。
しかし、神の息吹を感じ、
神が共におられることを意識しています。
だからわたしたちはいつも、
判断に迷う時や、誘惑に晒されるときや、
困難や試練に遭って思い悩む時、
共におられる神に問いかけ、
神に導きを願い、
神と共に喜び合うことのできる道を、
わたしたちは選んで歩もうとします。
教会とは、神とのそのような出会いの場、
そして神と共に歩む旅を続けるための場所です。
信仰を抱く皆さんには、
生涯にわたって神が共にいてくださいます。
共におられる神は皆さんのしもべではなく、
皆さんに無視されてよい方でもありません。
共に旅することを喜び楽しみ、
尋ね、教わり、導かれ、
必要な時には慰められ、支えられ、
励まされる旅の同伴者です。
わたしたちは神と共に生き、
神と共に歩み、
神と共にこの世の旅を終えて、
神と共に天の御国に行きます。
信仰を抱いているとは、
そのように歩むことです。
今から終わりの時まで、
神があなたと共にいてくださいます。
あなたに信仰がある限り。

あなたが神と共に歩むことを願う限り。



(以上)


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