<四旬節第4主日>

2019年3月31日()   礼拝説教


「神の平和を生きる」  (石田 学牧師)
 説教は音声付きです。

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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書1:1-5

1 初めに、神は天地を創造された。
2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。


2) 新約聖書
コリントの信徒への手紙一、14:26−33a


◆集会の秩序

26 兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。
27 異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。
28 解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。
29 預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。
30 座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい。
31 皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。
32 預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。
33 神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。

(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年3月31日

「神の平和を生きる」

「それでは、どうすればよいだろうか」。
パウロはそう問いかけます。
これまでに述べて来た議論に基づいて、
具体的な対応を問いかけるのです。
パウロはコリント教会の混乱が、
どういった原因で起き、
どのような問題をはらんでいるかを、
かなり詳しく議論し説明してきました。
異言と預言という、
二通りの神の啓示をめぐる問題です。
異言は人間の理解できる言葉とは違う仕方で、
神をたたえ、神に感謝を捧げ、祈ること。
預言は人間の理解できる言葉で、
神の恵みと救いについて語ることです。
パウロの結論はこういうことでした。
異言は節度をもって時と場をわきまえて語り、
預言は教会の集まりで大いに語りなさい。
この結論に基づいて教会生活を送るには、
どうすればよいのか。
それがパウロの問いかけていることです。
パウロ自ら、この問いに答えを与えます。
コリント教会の人々は礼拝のとき、
どのような態度で、どのように行動すべきなのか。
パウロは指示を与えるのですが、
それは抽象的であいまいな指示ではなく、
とても具体的で、明確な指示です。
礼拝に集まった人々は、
賛美歌を歌い、教え、神の恵みを告げ知らせ、
異言を語り、解釈します。
どれもみな、教会を造り上げるためです。
異言について、パウロは特に指示を与えます。
異言が適切な仕方で語られていないことが、
コリント教会の混乱の原因だったからです。
異言を語る人がいる場合は、
その異言の意味を説き明かす人がいる場合は、
二人か三人が順番に語りなさい。
もし解き明かす人がいないなら、
集会では異言を語らず、
自分自身と神とが向き合う時に語りなさい。
人々に語りかけるための預言もまた、
無秩序に勝手に語るのではなく、
良い秩序を保つ仕方で語るべきです。
順番が守られるように語ることが重要です。
こうしたパウロの具体的な指示をみると、
コリント教会の礼拝の様子が見えてきます。
現代のわたしたちは礼拝順序を持っていますが、
初代のコリント教会では、
決まった礼拝順序があったわけではなく、
神の霊が導いてくださるままに、
賛美歌を歌い、
礼拝に集まった人たちの幾人かが順に、
聖書の解き明かしや教え、説教を語り、
解釈者がいる場合には異言でも語る。
そういう礼拝だったのでしょう。
今のように礼拝順序が決まっていれば、
無秩序には陥りにくいですが、
そうでないコリント教会の礼拝は、
無秩序に陥らないために、
人々の理性的な自己抑制が必要でした。
礼拝は順序立てて、
秩序のあるものでなければならない。
それがパウロの指示です。
なぜなのでしょうか。
なぜ、パウロの時代に人気のあった、
ギリシアやローマの神々の集会のように、
人々が陶酔し、我を忘れて恍惚になり、
好きなように踊ったり歌ったりして、
心地良さに浸ってはいけないのでしょうか。
パウロはその理由を33節でこう告げます。

 神は無秩序の神ではなく、
平和の神だからです。

「あれ?」と思いませんでしたか。
わたしはこの言葉を見た時、
「なんで?」と思いました。
「神は無秩序の神ではなく」と言い、
その反対を示したいのなら、
「秩序の神だからです」であるべきです。
ところがパウロは「平和の神だから」と続けます。
「無秩序の神ではなく、秩序の神だからです」
そう言う方ははるかに、
明確な対比になってわかりやすいはず。
それなのにどうして、
きれいな対照にしないで、
「無秩序の神ではなく、平和の神」としたのか。
それが不思議でした。
だが、パウロがこういう言い方をしたのには、
それなりの理由があったはずです。
だから、この謎の解明に取り組んでみました。
結果、たどりついた理由は、
こういうことです。
神にとっては、「無秩序」の反対語は、
「秩序」ではないから。
無秩序の反対は秩序。
それは常識的にはそのとおりですが、
こと神に関して言えば、
無秩序の反対は秩序ではない。
それがわたしのたどりついた結論です。
無秩序はわたしたちを困惑させ、
混乱と破壊、恐れと不安に陥れ、
生命や財産の危険にも至ります。
学級崩壊、無政府状態、暴動、テロリズム。
無秩序は混沌を造り出します。
だから、たしかに秩序は大切。
でも、本当に大切なのは、
秩序をどのようにして造り出すかです。
皆さんは、もっとも強い秩序と言われたら、
何を想像しますか。
わたしは「軍隊」だと思います。
軍隊の行進を見ると、見事にそろっています。
完璧に秩序立てられ、
一糸乱れることなく統率されています。
命令に対する完璧な服従が軍隊を造り上げます。
戦いの時に最後まで秩序を保ち、
命令通りに行動し、戦うためです。
敵を倒し、あるいは倒されても、
秩序のもとにあり続けること。
それが軍隊の使命であり、
その秩序に服従させるために、
命令違反や不服従には厳罰が科せられます。
独裁者の国家も同様に、
もっとも秩序だった世界です。
国家全体が統制されて秩序を保つからです。
もっとも効果的な秩序の作り方は、
命令、強制、戒律、あめと鞭、違反への厳罰。
もし、パウロが神のことを、
「秩序の神」とだけ表現したとしたなら、
神を不正確、不適切に語ることになります。
なぜなら、秩序の神という言い方の中には、
神の愛も、神の憐れみも、神の慈しみも、
神の民であることの喜びも楽しみも含まれず、
神についてもっとも肝心な言葉が語られず、
抜け落ちてしまうからです。
きょうわたしたちは旧約聖書の箇所を、
創世記1:1−5から読みました。

 初めに、神は天地を創造された。

 聖書は神による天地創造から語り始めます。
神が天と地をお造りになったとき、
世界はどうだったでしょうか。
創世記はこう物語ります。
「地は混沌であって、
闇が深淵の面に」あった。
神の創造は、混沌に調和を、
闇に光をもたらしました。
ただ秩序を作ったのではありません。
神の創造は
美と調和を生み、
喜びと楽しみをもたらし、
安息と祝福を造り出すことでした。
きょう交読した詩編の19編の詩人は、
神の創造に心動かされ、
神によって造られたものがすべて、
美と調和を与えられて神をたたえる、
その喜びと感謝を歌い上げています。
神の創造によって造り出された世界の姿を、
聖書は神の平和として語っています。
神の平和を作り出すこと。
それが、神の創造の働きであり、
神による命の喜びであり、
わたしたちの生き方の源です。
だからこそパウロは、
「神は無秩序の神ではなく」の反対語を、
「神は平和の神だからです」と言いました。
聖書が語る神の「平和」という言葉、
ヘブライ語のシャローム、
ギリシア語のエイレーネーは、
とても豊かな麗しい言葉です。
神の平和は美しく、調和があります。
神の平和は造られた喜びの表現です。
神の平和は、対立や敵意を和らげて、
和解と赦しを生み出すことです。
神の平和は、神の御手の内にあることを、
喜び楽しむことです。
神の平和は神への感謝を抱くことです。
神の平和は神を喜びたたえることです。
神を信じるとは、
そういう平和の神を信じるということであり、
そういう平和を生きるということです。
わたしが、あなたが、皆さんが生きる。
それは抽象概念や理屈ではありません。
観念的なことでもありません。
実に具体的なことです。
きょうわたしや皆さんが何を語り、
何を喜び、何を願い、何を祈るかということ、
きょうわたしや皆さんが神をどう礼拝し、
神にどのように感謝を捧げるかということです。
神の平和を生きるということは、
わたしたちが神の平和を作る生き方を望み、
願いとし、努力し、祈り、おこなうことです。
わたしたちの生きることそのものが、
神の平和を生きるということです。
わたしたちにとって、
そのことをもっともはっきりと表すのは、
わたしたちが礼拝を捧げるときです。
礼拝こそ、神の平和の表れのはず。
だからこそパウロは、
礼拝の在り方を具体的に指示したのでした。
神の平和を生きることを表す、
もっとも明確な象徴として。
わたしたちも神の平和を生きてゆきます。
そのことの最高のしるしとして、
このように礼拝を捧げ、
これからも礼拝を喜び楽しみながら、
捧げ続けてゆきましょう。



(以上)


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