<四旬節第5主日>

2019年4月7日()   礼拝説教


「教会は神の国に向かって旅を続ける」  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) エゼキエル書11:19-20


19 わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。
20 彼らがわたしの掟に従って歩み、わたしの法を守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。


2) 新約聖書
コリントの信徒への手紙一、14:33b−40


◆集会の秩序

33b 聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、
34 婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。
35 何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。
36 それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たのでしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。
37 自分は預言する者であるとか、霊の人であると思っている者がいれば、わたしがここに書いてきたことは主の命令であると認めなさい。
38 それを認めない者は、その人もまた認められないでしょう。
39 わたしの兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。
40 しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい。


(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年4月7日

「教会は神の国に向かって旅を続ける」

きょうの聖書箇所に驚き、
戸惑いを感じない方がおられるでしょうか。
おそらく、聖書の中でもっとも、
理解が困難な言葉の一つだと思います。
女性にとって、
また女性の知性と能力と働きを正当に評価し、
対等の関係を生きることを志す人にとって、
特にそう感じられることでしょう。
実際、今の時代でもいくつかの教会教派は、
この聖書箇所に基づいて、
女性牧師を認めてはいません。
なぜパウロはこんな不当としか思えない言葉を、
コリント教会に書き送ったのでしょうか。
この箇所を単純にそのまま読めば、
世界中の教会から女性牧師や説教者が消え、
教会は不当な差別を温存する集団として、
良識ある人たちから見放されることでしょう。
使徒たちやパウロが活躍していた古代教会では、
女性の使徒や指導者、説教者がいました。
パウロはその事実をよく知っているはずです。
だからこそ、なおのこと、
パウロがなぜこんな不当なとしか思えない、
女性を抑圧するような言葉を書いたのでしょう。
きょうはその理由と、
この言葉をどう理解するべきなのかを、
説教の主題として語りたいと思います。
実は、こうした解釈の困難な言葉は、
聖書の中に幾つかあります。
敵をすべて滅ぼし尽くせとの命令が、
旧約聖書には出てきます。
イエス様はあるとき、
「父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、
更には自分の命であろうとも、
これを憎まないなら、
わたしの弟子ではありえない」(ルカ14:27)
と言われました。
このような困惑させられる箇所の場合、
その言葉だけを取り上げて、
そのまま教会の教えにすべきではなく、
聖書全体がどのように教えているか、
聖書が全体としてどう主張しているかと、
よく照らし合わせて考えることが必要です。
パウロが女性に教会で語ることを禁じるのは、
じつは、きょうの聖書箇所と、
もう一箇所だけです(1テモテ2:12以下)。
他の幾つもの箇所で、
パウロは女性が使徒であることを認め、
ケンクレアイ教会の女性牧者フェベを、
パウロの全権大使として、
手紙を持たせてローマに派遣しています。
プリスカという女性指導者をパウロは高く評価し、
深い信頼を寄せて何度も彼女に言及しています。
フィリピ教会のエボディアとシンティケ、
この二人の女性指導者にパウロは期待を寄せ、
手紙の中で彼女たちの名を挙げています。
パウロが深く確信していたのは、
「キリストにおいて男も女もない」という、
大原則でした。
古代教会において女性の働きは特に重要でした。
マグダラのマリアは使徒に匹敵する働きをし、
他にも女性使徒や説教者が活躍していたことは、
古代教会の研究者の間で常識です。
女性が教会で語ることに対する否定的表現は、
驚くほどわずかです。
むしろ、1コリント全体や聖書全体と見比べて、
あまりに異質で違和感がありすぎます。
なぜなのか。
現代の聖書学者が理由を明らかにしています。
この33節後半から35節の部分は、
後の時代の人たちによる挿入だからです。
実際、この箇所を除くと、
14章33節前半と36節はよく繋がります。
だったらこの部分を聖書から取り除いたらよい、
そう考えるべきでしょうか。
いいえ、わたしたちはむしろこの箇所を、
わたしたちに聖書とは何か、
教会とは何かを指し示す重要な証言として、
聖書の中にあることの意味を考えるべきです。
教会は一世紀末から二世紀にかけて、
急速に男性中心の仕組みになってゆきました。
その過程の中で必然的に女性説教者が退けられ、
女性の指導力が教会から失われてゆきました。
きょうの聖書箇所は、
教会のそうした歴史を証言しています。
これは教会にとって負の遺産?
教会が誤りを犯してきた歴史の証言?
そのように考える人たちはいます。
この箇所のゆえに教会を嫌い、
キリスト教に批判的になって、
教会を去ってゆく人たちがいます。
この箇所だけに注目して、
教会の歴史のマイナス面だけを見るなら、
そうなってしまうこともうなずけます。
しかし、わたしたちはむしろ、
きょうの聖書箇所こそが、
教会がこの世にあるという現実と、
教会が神の国を望み見る共同体であるという、
二つの事実を知る手がかりとなると考えます。
わたしたちは二つのことを考える必要があります。
一つは、女性に沈黙を強いることが、
教会の本来の姿ではなく、
むしろ反対であった事実を考えるべきです。
イエス様は女性を対等に受け入れ、
女性が教えを聴くことを当然のこととみなし、
女性が弟子となることを受け入れました。
当時のユダヤ社会では考えられないことでした。
教会は、少なくとも最初の数十年は、
女性使徒や女性牧者、女性の預言者が、
大いに活躍し教会の指導者でした。
だから教会はその時代の社会と人々の常識からみて、
異質で異常な、危険な集団でした。
教会は時とともに、
次第に時代の常識と仕組みの方に合わせ、
教会の本来の姿を変えていったのでした。
やがて女性が教会で語ることは、
当時の世の中の在り方に沿って、
あってはならないこととされてゆきました。
そんな時代に、この箇所は挿入されました。
もう一つの考えるべきことは、
それでも女性は黙ってはいなかったことです。
教会が完全に男性聖職者の支配する組織になり、
女性の司祭や牧師が認められなくても、
教会には時として偉大な女性指導者が現れました。
四世紀のカッパドキアのマクリーナ、
十四世紀のシエナの聖カタリナは、
すぐれた女性指導者の代表です。
それでも教会は女性の説教者や牧師を認めず、
女性だという理由で説教壇から排除してきました。
だが、そのようなことを神が放置するでしょうか。
聖霊が女性に働くことはないのでしょうか。
いいえ。
十九世紀にはひとりの女性に神が呼びかけ、
彼女を教会で語るように、説教者となるようにと、
駆り立てたのでした。
ジャレーナ・リーという黒人女性です。
また、フィービー・ファーマーという、
メソジスト教会の女性は、
ペンテコステの日に炎の舌は、
神の息子たちと同じように、
神の娘たちにも降ったことを根拠に、
女性も説教者へと召されていると信じました。
教会の決まりや規則、伝統を楯に、
多くの反対や攻撃にさらされながら、
彼女たちや後に続く多くの女性説教者たちが、
女性が説教することへの道を拓いてきました。
今日、一部に例外はあるものの、
女性の牧師、司祭、説教者が、
普通に説教を語ることができるのは、
多くの女性や男性の先駆者たちが、
教会が本来あるべき姿を取り戻そうと努め、
神の国の姿をこの世の教会にもたらそうとし、
それが教会の歩むべき道と信じてきたからです。
教会は神の霊に導かれる神の民、神の群れ。
しかし同時に、人間の集まりでもあります。
人間の常識、人間の文化、人間の社会制度が、
教会にもちこまれ、教会に影響してきました。
教会をこの世の常識からみて妥当な、
普通の人間の組織に変えようとする力が、
最初から、歴史をとおして、そして今も働きます。
きょうの聖書の箇所は、
そのような人間の文化と社会が教会に働き、
影響を与えてきたことの証言です。
しかし、その一方で、
教会は神の霊に導かれ、
神の国を目指して歩む民でもありました。
教会は人間の集団です。
でも、ただの人間の集団ではありません。
教会は神の霊に導かれてあるべき姿を求め、
キリストを信じる信仰に基づいて、
変革してきました。
教会で女性が語るべきでないという言葉は、
たしかに聖書のこの箇所にあります。
しかし、教会はこの言葉に留まったまま、
そこに停滞することはありませんでした。
聖書そのものによって、
また常に生きて働く神の霊の力によって、
前進し、変革し、神の国を望み見てきました。
教会は世にあります。
しかし、世の現実に留まり続けはしません。
教会は今も神の国に向かって世の旅を続ける、
希望の群れ、未来のよりよい姿を望み見る、
旅の仲間です。
だから、もしわたしや皆さんが、
今の教会の現実に問題を感じ不満を抱くなら、
教会が嫌になったり、
キリスト教への皮肉屋や批判者になるのではなく、
教会は本来どうあるべきなのか、
本来はどうあることができるのかについて、
神の国の在り方を望み見ることで見出しましょう。
今の問題や課題を共に変えることを願い、
そのように努力してゆきたいものです。
わたしたちは、神の国に向かって旅を続ける、
世を旅する共同体、
すなわち教会なのですから。
きのうよりきょう、
きょうより明日、
もっと神の国に近づいているべきなのですから。



(以上)


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