<四旬節第6主日>

2019年4月14日()   礼拝説教


「もっとも大切なこと、それが福音」  (石田 学牧師)
 説教は音声付きです。

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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) ホセア書6:1−3

◆偽りの悔い改め
1 「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし
我々を打たれたが、傷を包んでくださる。
2 二日の後、主は我々を生かし
三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。
3 我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ
降り注ぐ雨のように
大地を潤す春雨のように
我々を訪れてくださる。」


2) 新約聖書
コリントの信徒への手紙一、15:1−11


◆キリストの復活

1 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。
2 どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。
3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
6 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。
7 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、
8 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。
9 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。
10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。
11 とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。



(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年4月14日

「もっとも大切なこと、それが福音」

「最初にちゃんと話したよね!」
そんなパウロの心の声が聞こえてきます。
一度きちんと明確に、
しかも、とても大切なこととして伝えたのに、
相手がすっかり忘れてしまっていて、
聞いていないかのように振る舞っていたら、
怒りたくもなるでしょう。
でもパウロは怒らず落ち着いて告げます。

 わたしはあなたがたに告げた福音を
もう一度知らせる。

 パウロがこんなことを言い出したのには、
それなりの理由があります。
もう一度、改めて知らせなければならない。
そう実感したからです。
パウロはコリント教会の根本にある問題を、
はっきりと悟ったのでした。
根本の問題を解決することなしには、
何をどんなに教え諭したとしても、
また同じことが繰り返されることでしょう。
コリント教会の根本的な問題とは、
彼らが「もっとも大切なこと」を、
つまり福音をもっとも大切にしなくなり、
福音を二の次三の次にして、
その他のあれやこれやに熱中し、
福音をそっちのけにして、
彼らがこれこそ重大なことだと考える、
福音以外の何かに力を注ぎ、
議論し、争い、対立し、
誇り、高ぶり、派閥を組んでいたことです。
コリント教会の人たちは、
伝えられた福音を信じなくなったり、
福音を捨ててしまったわけではありません。
福音を信じているのです。
信じてはいるけれども、
福音をなによりも大切にする代わりに、
他の何かをもっと大切にして、
そちらの方に目と心と力を注いでいました。
コリント教会の人々の関心は、
どのリーダーに従うかの派閥争いであり、
霊的な知恵や力があるかどうかであり、
身分や階級による教会員同士の区別であり、
賜物の優劣を比較することや、
自分の賜物を自慢し誇ることでした。
その結果コリント教会の人々は、
互いに争い、対立し、
高ぶり、あるいは見下し、
互いに批判し、責め合うことになりました。
キリストにあって一つに結ばれるはずなのに、
分断と不一致、混乱と無秩序が、
コリント教会の実態になっていました。
パウロはコリント教会の多くの問題に対して、
丁寧に、しかし断固として対応してきました。
だが、どんなに理屈で説明し、説得し、
相手の心に訴え、誠実に対処しても、
根本にある病の原因が解決されない限り、
人は変わることがなく、
結局また同じことが繰り返されるでしょう。
パウロはきょうの聖書箇所で、
問題の根本をはっきりと告げるのです。

 もっとも大切なこととして
わたしがあなたがたに伝えたのは、

 ああ、そうなのか。
コリント教会の人々は、
もっとも大切なことを見失っていたのか。
その事実をわたしたちは告げられるのです。
人はみんな、
コリント教会の人々も、
そしてわたしたちも、
互いにあらゆる点で異なっています。
民族、人種、家柄、生まれ育ち、
能力、才能、知恵、知識、
健康状態、年齢、性別、
そして霊的な賜物。
自分は他の人より優れている。
そう思いますか?
あるいは逆に、
自分は他の人より劣っている。
そう思いますか?
すばらしい賜物とろくでもない賜物。
そういう区別があると思いますか?
人は他の人との違いを意識します。
そしてしばしば比較します。
互いの間にある違いと多様性が、
キリストにあって喜ばれ、
自分自身と他の人たちを受け入れ、
互いに受け入れ合い補い合い、
キリストの体のかけがえのない部分として、
生かし・生かされることが重要です。
どうすればそれが可能になるのでしょう。
みんなが「もっとも大切なこと」を、
ほんとうに大切なことと信じ、
そのことによって一つになるときです。
ところが人は罪深いものですから、
それとは反対のことをしがちです。
互いの違いや多様性や特質によって、
教会が組織化され、
グループ分けされると、
その組織に入る人と、入らない人が分けられ、
グループの仲間とそうでない人が区別され、
そこに分断と断絶が起き、
グループによる派閥や内輪の主導権争い、
はては支配と被支配が生み出され、
批判と対立が作り出されます。
たとえば家柄や経済力による仕分け。
コリント教会はそれが一つの問題でした。
裕福な人が先に来て共同の食事を食べ、
貧しい人が遅れて来ると食べ物がない。
そんな分断と断絶はなんと悲しいことか。
性別によって教会が組織されたら、
本質において排他的な教会になるでしょう。
そもそも性同一障害の人や、
性別の境目があいまいな人は、
その教会に居場所がないことになります。
霊の賜物に優劣を付けて比較するとき、
教会は優れている人だけの場所になります。
こうした問題は、
コリント教会だけの問題ではなく、
いつの時代でもどの場所でも、
教会に起こりうる問題です。
なぜそうした問題が起きるのか。
その理由をパウロは良く知っています。
「もっとも大切なこと」を、
もっとも大切にしないからです。
だからパウロは、
「もっとも大切なこと、
すなわち福音を、
ここでもう一度知らせます」
と呼びかけたのでした。
福音が、福音だけが、
あらゆる違いと多様性の分断や断絶を超えて、
どんな人でも区別なく、
人々を一つに結び合わせ、
一つのキリストの体とするからです。
その他の何かをもっとも大切だと思い込む時、
教会は問題を抱えることになります。
もっとも大切なこと
すなわち福音を、
パウロは実に簡潔に要約しています。

 キリストが
わたしたちの罪のために死んだこと、
葬られたこと、
三日目に復活したこと、
ケファに現れ、
その後十二人に現れたこと。

この簡潔な言葉の中には、
三つの主題が込められています。
キリストの死と葬り、
キリストの復活、
そしてひとり一人に現れたことです。
キリストは、
わたしたちの罪のために死に、葬られた。
ここにわたしたちの救いの根拠があります。
キリストが十字架で死なれたことこそ、
わたしたちに対する神の愛が、
どれほど真剣で深いものかを、
わたしたちに証しています。
神の独り子の命に換えて、
わたしたちの罪をあがない、
わたしたちを受け入れてくださるほどに、
わたしたちを大切にしてくださるなら、
たとえわたしたちが弱く不充分で、
神にふさわしくないと感じるとしても、
神がわたしたちを見捨てることなど、
あり得るでしょうか。
教会は復活祭前の四十日間を、
四旬節として守ります。
この四旬節の季節は、
キリストがわたしたちの罪のために、
十字架で死なれ、葬られた出来事である、
キリストの御受難を思い起こす季節です。
そのことがもっとも強く示されるのは、
主キリストがエルサレムに入られた記念の、
「しゅろの主日」から始まる受難週であり、
きょうがその「しゅろの主日」です。
二つ目の主題は、
主キリストのご復活です。
わたしたちは来週、
復活の意味を覚え、祝いましょう。
三つ目の主題は、
ひとり一人に復活の主が現れたこと。
ケファと十二人だけの体験ではありません。
キリストを信じる者はみな、
よみがえられた主キリストと共に生き、
共に歩み、
主と共に地上の命を終え、
主と共に天の御国に行きます。
キリストの死と復活、
そして復活の主が共におられること、
このキリストの出来事と結ばれている事実が、
わたしたちみんなの共通の体験であり、
わたしたちを一つに結ぶ唯一のきずなです。
キリストの死と復活に結ばれ、
いま霊においてキリストと共に生きている、
その事実によって、
教会はたとえどれほどひとり一人が異なっても、
一つのキリストの体として結ばれています。
この福音を、
「もっとも大切なこと」として、
わたしたちがもっとも大切にしている限り、
わたしたちはキリストにあって一つとされて、
共に天の御国を目指す旅を、
今もこれからも続けることができる。
そう信じます。



(以上)


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