<復活主日>

2019年4月21日()   礼拝説教


「大いなる「しかし」から始まる」  (石田 学牧師)
 説教は音声付きです。

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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) イザヤ書40:6−11


6 呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。
7 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。
8 草は枯れ、花はしぼむが
わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
9 高い山に登れ
良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ
良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな
ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神
10 見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ
御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い
主の働きの実りは御前を進む。
11 主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め
小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。


2) 新約聖書
コリントの信徒への手紙一、15:12−20


◆死者の復活

12 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。
13 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。
14 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。
15 更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。
16 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。
17 そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。
18 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。
19 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。


(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年4月21日

「大いなる「しかし」から始まる」

この世界に生きるあらゆる生命、
生きとし生けるものすべてが、
例外なしに逃れることのできない現実。
それは、死が最後の勝利者だという事実です。
人類は古代から現代に至るまで、
死を克服しようとあらゆる努力をし、
あらゆる試みをしてきました。
医療や科学の進歩によって、
寿命を延ばすことはできるでしょう。
あるいは再生医療や遺伝子操作で、
身体の部分を更新することはできるでしょう。
しかし、死そのものを打ち破ることは、
人の力の及ばないことです。
自らが死ぬべき存在であることを意識し、
死を恐れ、死について思い巡らし、
死について思索するのは、
人間だけの特質です。
人は時としてロマンチックになります。
愛する者を失ったとき、
あるいは自らの死を悟ったとき、
死んだ人は空の星になると想像し、
死んだ人の霊が天から見守っていてくれる、
そのように願って空を見上げます。
人々はそのように心の中で想像し、願い、
実際そのように感じることもあるでしょう。
だが、同時にわたしたちの理性は、
わたしたちにこう告げるのです。
それは物語であり空想の世界であって、
現実では起こり得ないことだと。
死者の復活も同じです。
いったい、死からよみがえった人が、
この世にあり得たでしょうか。
キリストがよみがえられたときの様子を、
ルカ福音書はこう語ります。
週の初めの日に女性たちが墓を訪れると、
中に主イエスのなきがらが見あたらず、
彼女たちは「途方に暮れていた」と。
二人の天使が主イエスの復活を告げ知らせ、
彼女たちが使徒たちのもとへと走って戻り、
天使に告げられたこと、見たことを語ると、
使徒たちは「たわごと」だと思ったと。
「死者の復活などない」。
それが常識であり理性的な理解であり、
現実であるのを誰もが知っています。
非現実的な復活など、あるはずがない。
そう信じ主張するキリスト教徒がいます。
かつてコリント教会にいました。
キリストの復活は神話にすぎないと主張して、
復活については信じることをしない教会が、
いつの時代にも、現代にもあります。
しかし、そんな人たちに向かって、
パウロは問いかけるのです。
「もし、復活がただの物語にすぎず、
願望の産物にすぎないとしたら、
復活を信じている人は、
もっとも惨めな者ではないのか」と。
パウロがこの手紙を書いたのは、
キリストの出来事から二十年ほど後です。
二十年。
その時にはまだ、
よみがえられた主イエスを見て、
聞いて、手で触れた人たち、
すなわち生き証人が大勢存在していました。
キリストの復活がただの物語ではなく、
虚しい願望でもないことを、
パウロによればペトロが、使徒たちが、
五百人以上の人たちが、
そしてパウロ自身が、
復活の主を見て、聞いて、触れて、
証人として証していました。
パウロはこう宣言します。

 実際、キリストは死者の中から復活し、
眠りについた人たちの初穂となられた。
(20節)

 このことを宣言するのはパウロですが、
パウロの背後には何百人もの証人がいます。
キリストはたしかによみがえらされた。
だから、死者の復活はたしかにある。
この順序なら理屈にかなっていて、
とてもわかりやすいです。
パウロがそう言ってくれさえしたなら!
ところが、パウロは別の言い方をします。
もっとわかりにくい言い方を。
パウロの言葉は不思議で謎めいています。

 死者の復活がなければ、
キリストも復活しなかったはずです。

 ちょっと待ってください、パウロ先生。
先生の言葉は間違っていませんか?
言い方が反対ではないですか。
「キリストが復活しなければ、
死者の復活もないはずです」。
それが正しい言い方ではないですか。
パウロ先生は頭が混乱して間違えたか?
それとも、
わたしたちの常識を覆して、
パウロはキリストの復活と、
わたしたちの復活の望みについて、
驚くべき真実を告げているのでしょうか。
どうしてパウロは、
「キリストが復活したのだから、
死者の復活もあるはずだ」と言わず、
あたかも逆のように思われることを、
ここで宣言しているのでしょうか。
「死者の復活がなければ、
キリストも復活しなかったはずだ」などと。
なぜ、順序が逆転しているかのような、
こんな奇妙な物言いをしたのでしょうか。
その理由の手がかりは、少し遡って、
15章3節にあります。
パウロはこう書いています。

 キリストがわたしたちの罪のために死んだ

 この言葉には、
キリストがなぜ死んだのかについての、
真実が込められています。
わたしたちが罪のために死ぬべき存在だから、
キリストはわたしたちのために死なれた。
その事実、その順序をパウロは主張します。
わたしたちが罪のために、
死に引き渡されていて、
死ななければならない存在だから、
キリストはわたしたちの罪のために死なれた。
わたしたちの死という現実が先にあり、
だからキリストが死なれたということです。
わたしたちは神によって創造され、
命をさずけられました。
ですから、わたしたちのこの命は、
そもそもわたしたち自分のものではなく、
親のものでもなく、家のものでもなく、
企業や民族のものでもなく、
まして国家のものなどではなく、
神のものです。
神に祝福され、あのエデンにおいて、
神との交わりの中で生きるべき存在でした。
ところが、人は罪のために、
つまり、神から自分の意志で離れてしまい、
その結果、神の命とのつながりが失われ、
死が全人類にもたらされました。
人は死ぬべき存在となってしまいました。
罪の奴隷となり死が宿命づけられた人を、
神はご自分のものとして取り戻し、
ふたたび神と人がひとつに結ばれるため、
神の御子が人となって世に来られました。
だが、それはなんと厳しい選択でしょうか。
神の御子が人と一つに結ばれるということは、
神の御子が罪の結果である死を、
ご自分の身に引き受けるということですから。
人が罪のために死ぬべき存在だから、
人となられたキリストも死なれました。
もし、死んで終わったとしたら、
全人類は死を宿命づけられたままであり、
キリストも死んだままで終わったはずです。
そうであれば、
わたしたち人類には死の先に何の望みもなく、
人はこの世だけの限りある命にすぎず、
この世だけで楽しみ、悲しみ、途方に暮れ、
死に対しては無力なのですから、
せいぜいあきらめと悟りの境地で死んでゆく。
それしかできることはありません。
死の先に何かを期待したり、
復活を望んだところで、
それがただの願望にすぎないとしたら、
そのような人はすべての人の中で、
もっとも惨めな者です。
だが、神はご自分の御子を、
わたしたち人間と共に死の絶望に落とし、
死んで終わりにするために、
この世に遣わされたのでしょうか?
神は、死が最後の勝利者であることを、
神自らが認めて敗北を宣言するために、
御子キリストを死に引き渡したのでしょうか。
いいえ!
神は御子キリストを、
すべての人と一緒に死で終わらせるために、
この世に遣わされたのではありません。
神の御子キリストは、
死ぬべき存在であるわたしたちの罪のため、
わたしたちと共に死なれました。
それは、
わたしたちが死で終わるのではなく、
(それは神の御心ではありませんから)
わたしたちが復活の命を生きるためです。
わたしたちが死ぬべき存在だから、
キリストはわたしたちのために死に、
わたしたちが復活の命を受けるために、
キリストはよみがえられた。
それがパウロの不思議な言葉の意味です。
キリストが死なれたのは、わたしたちのため。
そうであれば、
キリストの復活も、わたしたちのため。
神が御子キリストを世に遣わされたのは、
わたしたちの罪のために死に、
わたしたちのために、
キリストをよみがえらせるためでした。
キリストの復活は、
キリストと結ばれているわたしたちの、
復活の保証です。
たしかに今も、死は無敵の勝利者。
そのように思われます。
だが、わたしたちにとってはそうではない。
キリストが死に対する勝利者であり、
わたしたちはそのキリストと、
一つに結ばれているのですから。
キリストの死への勝利は、
わたしたちの死への勝利でもあります。
死は今でもあらゆる命に対して、
そして全人類に対して、
無敵の支配者であり恐怖の暴君です。
ただ一人、キリストを除いて。
どれほど死が力を振るい、
脅し、恐れさせ、敗北を迫るとしても、
キリストはすでに死に勝利し、
死を滅ぼしました。
そのキリストと一つに結ばれ、
キリストの復活の命につながれているなら、
わたしたちもまた、
キリストと共に死に勝利しています。
キリストが死んでよみがえられたように、
わたしたちも死んでよみがえらされる。
そのことをわたしたちは、
信仰によって確信し、望んでいます。
死はわたしたちにとっても恐怖の顔を向け、
わたしたちに敗北と服従を迫ります。
だが、わたしたちは死の脅しに対して、
力強い反撃の言葉を持っています。
パウロが20節で宣言しているあの言葉、

 しかし、実際、
キリストは死者の中から復活し、
眠りについた人たちの初穂となった。

死は恐ろしい?
死の前では無力?
死はすべてを奪う?
たしかに、死はそのような力を、
すべての人に対して持っています。
ただ一人、キリストを除いて。
そして、そのキリストが、
わたしたちの味方であり、
わたしたちの真の支配者であり、
わたしたちと一つに繋がってくださる、
わたしたちの復活の主です。
わたしたちは今のこの命を、
この大いなる「しかし」から始め、
わたしたちがやがて死を迎える時は、
この大いなる「しかし」によって、
キリストと共に死に対して勝利して、
永遠の命を受け継ぐと信じます。
死は究極の終わりのように思われます。
しかし、
神がキリストをよみがえらされた、
そのように、
わたしたちもよみがえりの命にあずかります。
「しかし」という死への反撃の言葉から、
今やわたしたちは、
死で終わることのないこの命を、
生き始めているのです。

(以上)


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