<復活節第二主日>

2019年4月28日()   礼拝説教


「わたしたちの命の主であるキリスト」  (石田 学牧師)
 説教は音声付きです。

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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) イザヤ書40:27−30


27 ヤコブよ、なぜ言うのか
イスラエルよ、なぜ断言するのか
わたしの道は主に隠されている、と
わたしの裁きは神に忘れられた、と。
28 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神
地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく
その英知は究めがたい。
29 疲れた者に力を与え
勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
30 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが


2) 新約聖書
コリントの信徒への手紙一、15:20−28


◆死者の復活

20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。
22 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
23 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、
24 次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。
25 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。
26 最後の敵として、死が滅ぼされます。
27 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。
28 すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。


(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年4月28日

「わたしたちの命の主であるキリスト」

わたしは「自己責任」という言葉が嫌いです。
人は確かに、自分の言動に責任があります。
だから、何を話すか、何をおこなうかは、
わたしたちは注意深くあらねばなりません。
軽率な言葉や無責任行動が、
だれかを傷つけたり苦しめたりしないよう、
責任を自覚することは必要です。
でも、今しばしば言われる「自己責任」は、
そういう責任感とは違うように思います。
他の人を切り捨てる使い方や、
他の人を見捨て、無関心になる意味合いが、
とても強く感じられるのです。
「自己責任でやってください」とか、
「自己責任だからわたしは関係ない」、
「自己責任だから助ける必要はない」。
そのような意味での自己責任が広まると、
人間同士の連帯性を支える、
同情、共感、憐れみが弱まり、
軽んじられるようになってしまいます。
とても冷淡な、あるいは無関心な人の群れ。
それが現代社会の特徴の一つ、
しかも、わたしからすれば、
悪い特徴の一つに思われます。
そんな、とても自己中心的な個人主義は、
現代の風潮でしょうか。
そんな自己責任論を口にする人にとって、
きょうのパウロの言葉は理解できず、
受け入れられないにちがいありません。
パウロはこう言うのですから。

 アダムによってすべての人が
死ぬことになった。

 究極の連帯性の主張です。
なんというたわごとかと、
現代の多くの人は言うことでしょう。
アダムはアダム、わたしはわたし、
いったい何の関係があるのか。
それが現代の感覚ですから。
わたしたち現代人は、
人間の連帯性を軽く考えすぎています。
だが、ほんとうはそうではありません。
人類は民族や人種の違いをはるかに超え、
個々人の差異など問題にならない、
強い連帯性を生きているからです。
生物学的にはもちろんのこと、
人間性においても感性においても、
人類は同じ特質を共有しています。
人は民族や文化や時代を超えて、
同じことを悲しみ、喜び、
希望や願いを共有し、
同じように欲深い存在です。
そして聖書によれば、
人間を一つに結び付けている、
もっとも強い連帯性は罪です。
人はみな、罪において一体であり、
誰も例外なく罪に囚われている。
それが聖書全体の証言している、
人間の連帯性です。
パウロが言うのは、そのことです。
「アダムによって、
すべての人が死ぬことになった」。
アダムの罪が全人類に及んでいます。
全人類はアダム以来、神から離反し、
命の神から離れてしまっています。
だからパウロは、
死がひとりの人、
つまりアダムによって来たと言うのです。
アダム以来、つまりすべての人は最初から、
例外なく死ぬべき存在です。
わたしたちにはどうしようもありません。
昨日の新聞に興味深い記事がありました。
人間の寿命は、
何歳ぐらいが限界かの議論の記事です。
医学や生命工学の技術次第ですが、
百二十五歳くらいが限界のようです。
聖書が同じようなことを、
今から何千年も前に告げているのは、
別の意味で興味深いです。
創世記6章には、
人の一生が百二十年になったとあります。
それが偶然の一致かどうかはともかく、
その程度が限界なのでしょう。
もっとも、それは生物的な寿命であり、
そこまで健康と脳の機能が続くかは、
別の話のようです。
人は遅かれ早かれ死の時を迎えます。
人は例外なく死ぬべき存在。
人はその事実を受け入れるしかありません。
神は?
神はどうなのでしょうか。
神もまた、
神が創造した人間が死ぬべき存在である事実を、
仕方のないこととしてあきらめ、
神もその事実を受け入れたのでしょうか。
神も、死が最後の勝利者であることを認め、
死に対して白旗を掲げたのでしょうか。
神ご自身は死ぬことはないとしても、
神が造り命を与えた人間が、
死に対して敗北するのを、
仕方のないこととあきらめたのでしょうか。
もしそうであったとしたら、
神は御子を人として世に遣わすことなど、
けっしてなさらなかったはずです。
しかし、事実、神の御子が人となり、
世に遣わされました。
それは、神が人と一つに結ばれるためです。
神が人となられた方、
それがイエス・キリストです。
神ではなくなったのではなく、
神でありながら人となられた唯一の方。
それがイエス・キリストです。
このキリストと結ばれることによって、
わたしたちは神と一つに結ばれます。
いったいどうやって、わたしたちは、
キリストと結ばれることができるのでしょう。
どんな修行を積めば可能なのでしょうか。
どれほどの苦行が必要なのでしょう。
どんな能力が要求されるのでしょうか。
特殊な力や才能の持ち主だけが、
キリストと結ばれることができるのなら、
大多数の人にとっては絶望的です。
ところが、神はまったく異なる驚くべき道、
すべての人に開かれた道を備えられました。
すべての人がキリストと結ばれることのできる、
もっとも単純な道を神は備えられました。
キリストを信じる信仰のみによって、
人は神の御子と結ばれるという道を。
キリストがわたしたちの命の主と信じ、
キリストを我が主と信じる信仰のみによって。
それが、それだけが、
わたしたちがキリストと結ばれ、
それゆえに神と結ばれる唯一の道です。
キリストと結ばれているなら、
わたしたちは神と結ばれています。
キリストが死んでよみがえられたのなら、
キリストと結ばれているわたしたちも、
キリストと共に死に、
キリストと共に復活の命にあずかります。
パウロはそのことをこう表現しました。

 キリストによって
すべての人が生かされることになる。

 では、キリストを信じるわたしたちは、
もはや死ぬことがなくなったのでしょうか。
いいえ。
キリストによって生かされるということは、
今のこの命がそのままずっと続くことではなく、
復活の命にあずかるということです。
人となられたキリストは、
わたしたちのために死に、
わたしたちのためによみがえられました。
キリストの命にあずかるということは、
復活の命にあずかることです。
復活の命にあずかるのは、
今のこの命が死ぬことによってです。
キリストを信じるわたしたちにも、
いつか死の時は来ます。
しかし、そこには絶大な違いがあります。
わたしたちはひとり孤独に、
最後の勝利者である死に敗北するのではなく、
キリストと共に死ぬからです。
だから、キリストと同じように、
死はわたしたちにとっても、
最後の勝利者ではありません。
わたしたちの死は、
死に対する敗北ではなく、
究極の終わりでもありません。
キリストは死んで、
死からよみがえられたからです。
わたしたちは死ぬ時が来ますが、
それはキリストの死と結ばれた死です。
わたしたちが命の主であるキリストと、
信仰によって結ばれているなら、
キリストと共に死ぬわたしたちは、
キリストと共によみがえらされるでしょう。
わたしたちはこの確信を抱いて、
限りある地上の命を生きてゆきましょう。
そして死の時が来たなら、
天の本国に凱旋する希望を抱いて、
感謝と共に、神を賛美しながら、

復活の命にあずかろうではありませんか。

(以上)


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