<復活節第三主日>

2019年5月5日()   礼拝説教


「もし死者が復活しないとしたら」  (石田 学牧師)
 説教は音声付きです。

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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) イザヤ書22:6−14


6 エラムは矢筒を取り上げ
戦車には人が乗り、馬がつながれた。また、キルは盾の覆いをはずした。
7 お前の最も豊かな平野は
戦車と馬で満たされ
彼らは城門の前に陣取り
8 ユダの防備をはぎ取った。その日には、お前たちは
森の家の武器に目を向けた。
9 また、ダビデの町に破れの多いのを見て
下の池の水を集めた。
10 エルサレムの家を数え
家々を倒して、城壁の破れをふさごうとした。
11 二つの城壁の間に水溜めを造り
古い池の水を入れた。しかし、お前たちは、都を造られた方に目を向けず
遠い昔に都を形づくられた方を
見ようとしなかった。
12 その日には、万軍の主なる神が布告された。嘆くこと、泣くこと
髪をそり、粗布をまとうことを。
13 しかし、見よ、彼らは喜び祝い
牛を殺し、羊を屠り
肉を食らい、酒を飲んで言った。「食らえ、飲め、明日は死ぬのだから」と。
14 万軍の主はわたしの耳に告げられた。「お前たちが死ぬまで
この罪は決して赦されることがない」と
万軍の主なる神が言われた。


2) 新約聖書
コリントの信徒への手紙一、15:29−34


◆死者の復活

29 そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。
30 また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。
31 兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。
32 単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、
「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。
33 思い違いをしてはいけない。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです。
34 正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです。



(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年5月5日

「もし死者が復活しないとしたら」

「もし死者が復活しないとしたら」
パウロはこの問いを、
15章で五回も繰り返しています。

 死者の復活がなければ、
もし本当に死者が復活しないのなら、
死者が復活しないのなら、
死者が決して復活しないのなら、
もし死者が復活しないとしたら、

 くどいほどにパウロは繰り返すのです。
なぜでしょうか。
死者の復活はある。
この事実こそが、
パウロの伝える福音にとって、
最重要のことであり、
根源的なことだからです。
「死者の復活がないのだとしたら、
そう思い込んでいるだけのわたしたちは、
もっとも惨めな者だ」。
パウロはそこまで言い切るのです。
パウロの言い方に注意してください。
パウロは、
「キリストが復活したから、
死者の復活はある」
とは言っていません。
パウロはこう言います。
「死者の復活があるから、
キリストは復活した」。
この言い方、
この順序にこそ、
わたしたちに対する神の御心が、
はっきりと表されています。
神が人をお造りになったのは、
死なせるためではなく、
神と共に生きるためでした。
しかし、
自由な存在として創造された人間は、
神から離れる自由を生きるようになり、
命の神と断絶してしまいました。
聖書が「罪」と呼ぶ、
神から離れた状態になった人間は、
罪が支払う報酬である死を運命付けられ、
死ぬべき存在となったのでした。
しかし、それは神の御心ではありません。
神はご自分が創造した人間を、
罪に支配されるままに放置し、
死に引き渡されたままにしておくことを、
許しはしませんでした。
死ぬべき存在であるわたしたちが、
復活の命にあずかるために、
神は驚くべき手段、
それ以外にはあり得ない、
究極の手段を取られたのでした。
神の御子を世に遣わすという手段を。
人となった神の御子が、
わたしたちのために死にました。
そして、死んで葬られた神の御子を、
神がわたしたちのために復活させるという、
驚くべき手段を神は用いられたのでした。
神の御子が死んで葬られ、
死からよみがえられたことにより、
神の御子キリストと、
信仰によって一つに結ばれるわたしたちも、
キリストと共に死に、
キリストと共に復活させられる。
わたしたちはそう信じます。
それが単なる願望や思い込みでないのは、
キリストの死と復活が保証だからです。
わたしたちはキリストと共に死に、
キリストと共に復活の命にあずかる。
これがキリストを信じる信仰が与える、
わたしたちにとって究極の望みであり、
わたしたちの信仰の目的であり、
わたしたちの生涯を貫く確信です。
死者の復活にあずかるということは、
よく勘違いされます。
それは死んだ後の話だと。
生きている時とは関係がないと。
復活の望みは、
実は、死後の話ではありません。
復活の望みは、
今をどう生きるかを方向付け、
今の生き方を決定づける土台です。
復活の望みを抱く人は、
この世の損得だけで物事を考えません。
復活の命を信じる人は、
神の前に立つことを考えて生きます。
復活の命を願う人は、
神の御心を表そうと努めます。
復活の命を待ち望む人は、
この命の終わりを嘆くよりも、
もっと、はるかに強く、
永遠の命を受ける喜びを抱きます。
わたしたちの本国は天にあり、
今は、そこに至る旅の途上を、
わたしたちは生きているのです。
ところが、
人は自分の知恵や理解力の方を、
万物の裁判官にしてしまいます。
神をさえ、人は自分の考えで裁きます。
ある人は言うでしょう。
「わたしは神についてこう考える」。
別の人はこう主張するでしょう。
「神とはこうであるはずだ」。
わたしは恐る恐る反論してみます。
「ちょっと待ってください、
聖書は神についてこう教えていますよ」。
すると彼らは大声で反論するでしょう。
「それは聖書がおかしい」。
「わたしはそうは思わない」。
こうして神を被告席に、
自分を裁判官の席に座らせて、
神を評価し、神を裁き、
最後に神に向かって判決を言い渡すのです
「きみはわたしの考える神とは違う」。
あるいは、
人は自分の欲や願望から物事を考え、
その願いに合わない神の教えを、
否定し反対します。
コリント教会のある人々の問題は、
まさにそこにありました。
「キリストは復活した」。
それが、パウロがコリントで宣べ伝え、
他の使徒たちも教えたことでした。
ところがコリントのある人々は、
「復活などない」と言って、
信じようとしなかったのです。
彼らはこんな風に言ったに違いありません。
「わたしが考えるに、復活などないね」。
「復活などというのはナンセンスな話だね」。
「わたしにはとうてい信じられないね」。
人は昔も今もたいして変わりませんから、
現代でも同じような人はいます。
「キリストの教えはすばらしい、
キリストの憐れみや愛は立派だ。
だが、復活したなどというのは、
弟子たちの作り話に違いない」。
時代を超えて人々は言います。
「わたしの考えでは、
これは信じられるが、
あれは信じられない」。
「わたしの考えでは、
神はこういう存在に違いない」。
自分の考えと一致する神なら信じるが、
そうでない神は信じない。
それが多くの人に共通した態度です。
そんな人々に対してパウロは寛大すぎます。
パウロに向かって言いたくもなります。
「パウロさん、
そんな人たちはさっさと見捨てて、
相手をするのを止めた方がよいですよ、
時間の無駄ですから」。
だが、パウロはそうしないのです。
パウロはそのような人に対して、
くどいほどまでに丁寧に繰り返すのです。
「もし死者が復活しないとしたら」と。
五回も!
なぜパウロはそんな分からず屋たちを、
さっさと見限らないのでしょうか。
その理由は、
人間とはそういう愚かな存在だからです。
自分の考えを神よりも上に置き、
神の裁きの座に立つことを恐れないどころか、
むしろ自分が裁判官になって、
神を裁こうとする罪深い存在。
それが人間というものだからです。
もしパウロがそのような人を見限るなら、
パウロはすべての人を見限り、
見捨てるしかないことになります。
キリストは復活したと宣べ伝えられているのに、
復活などないと主張する人々に対して、
パウロは二つの反対弁論を繰り広げます。
最初の反対弁論でパウロは主張します。
「死者の復活がないのであれば、
なぜ死者のために洗礼を受けるのか」。
「死者のための洗礼」が出て来るのは、
聖書の中でここだけです。
永年、聖書学者は頭をひねり、
議論を重ねてきました。
パウロは死者のための洗礼を認めるのか?
パウロの時代に死者のための洗礼があったか?
だが、パウロは死者のための洗礼を、
ここで認めているわけではありません。
わたしたちにわかることは、
コリント教会でそういう実践があった事実です。
たぶんパウロは賛成ではないと思います。
でも、コリント教会には、
死者のための洗礼をおこなう人たちがいて、
同時にその人たちが、
復活などないと主張していました。
それは完全に矛盾しているではないか。
それがパウロの反対弁論です。
死者のための洗礼を実践するということは、
死者の復活があってはじめて、
意味のあることだからです。
二つ目の反対弁論は、
パウロたちの体験をとおしてのことです。
「死者の復活がないなら、
なぜわたしたちは危険を冒しているのか」と。
死んだら終わりだというのなら、
死の危険を避けるのが賢いことで、
たとえ良い目的のためであっても、
死んだら終わりだから、
そこまで危険を冒すはずがないではないか。
危険を冒しているのは、
たとえ死ぬことになるとしても、
その先に復活の望みがあるからだ。
それがパウロの主張です。
「もし死者が復活しないとしたら」。
この問いに対して、
パウロは旧約聖書を引用して応えます。
きょう旧約はイザヤ書22章から読みました。
パウロが引用しているのはこの箇所です。

 食らえ、飲め。
明日は死ぬのだから。

 イザヤの時代、
ユダヤはアッシリア帝国に攻撃され、
前八世紀に都エルサレムが略奪されました。
たくさんの宝物や人々が捕虜とされた時、
エルサレムの人々は悔い改めて、
神に依り頼む信仰を取り戻したでしょうか。
いいえ。
それどころか、人々は正反対をしました。
生きている今のうちに、
できるだけ快楽を貪ろうとしたのでした。
その愚かな有様をパウロは嘲り、
コリントの人々への反対弁論に用いたのです。
復活などない、
死んだら終わりだというのなら、
食べたり飲んだりしてだけ過ごそうではないか。
明日は死ぬ身なのだからと。
復活の望みを抱くことのない人の、
究極の姿をパウロは描写しています。
わたしたちはそのようには考えません。
神の御子を死に引き渡し、
復活させるほどに、
神はわたしたちを愛してくださっている。
その事実が信じられないのであれば、
わたしたちは望みのない哀れな存在です。
もし死者が復活しないとしたら、
キリストは復活しなかったはずです。
しかし、実際、キリストは復活し、
わたしたちの初穂となられました。
わたしたちが信じ、望みを託すのは、
この復活の主キリストであり、
キリストをよみがえらせた、
天におられるわたしたちの父なる神です。

(以上)


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