<復活節第五主日>

2019年5月19日()   礼拝説教


「死は命の始め」  (石田 学牧師)
 説教は音声付きです。

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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) ヨブ記38:1−18


1 主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。
2 これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて
神の経綸を暗くするとは。
3 男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。
4 わたしが大地を据えたとき
お前はどこにいたのか。知っていたというなら
理解していることを言ってみよ。
5 誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。
6 基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。
7 そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い
神の子らは皆、喜びの声をあげた。
8 海は二つの扉を押し開いてほとばしり
母の胎から溢れ出た。
9 わたしは密雲をその着物とし
濃霧をその産着としてまとわせた。
10 しかし、わたしはそれに限界を定め
二つの扉にかんぬきを付け
11 「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じた。
12 お前は一生に一度でも朝に命令し
曙に役割を指示したことがあるか
13 大地の縁をつかんで
神に逆らう者どもを地上から払い落とせと。
14 大地は粘土に型を押していくように姿を変え
すべては装われて現れる。
15 しかし、悪者どもにはその光も拒まれ
振り上げた腕は折られる。
16 お前は海の湧き出るところまで行き着き
深淵の底を行き巡ったことがあるか。
17 死の門がお前に姿を見せ
死の闇の門を見たことがあるか。
18 お前はまた、大地の広がりを
隅々まで調べたことがあるか。そのすべてを知っているなら言ってみよ。



2) 新約聖書
コリントの信徒への手紙一、15:35−41


◆復活の体

35 しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。
36 愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。
37 あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。
38 神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。
39 どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。
40 また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。
41 太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。




(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年5月19日

「死は命の始め」

わたしにとって今年のビッグニュースは、
ブラックホールの画像が公開されたことです。
宇宙の彼方にあって、
これまで理論と科学的推論で、
存在していることは確実だと言われながら、
間接的な証拠だけしか存在しませんでした。
ところが、
今年、目に見える形で明らかにされました。
ドーナツ状のオレンジ色に輝く光の輪の中央に、
巨大な暗黒が広がっていました。
あらゆるものを飲み込み、
光さえもそこから出ることはできず、
だから暗黒でしかない究極の虚無。
そうであれば、
ブラックホールと、
すべての命が行き着く究極の勝利者である、
死が重なっているように感じられるのは、
わたしだけでしょうか。
ブラックホールに吸い込まれたらどうなるのか。
わたしたちにはわかりません。
科学者たちが解明しようとしていますが、
結局のところ、
推測はできるとしても、
たしかなことは永久にわからないでしょう。
死も同じようです。
死はあらゆる命にとって現実であり、
いつか必ず死は訪れます。
わたしたちにとっても死は現実です。
しかし、死はすべての人にとって、
その先をのぞき見ることのできない、
暗黒の扉であるかのようです。
その扉があることは確かですが、
その扉の向こうを、
わたしたちは垣間見ることすらできません。
しかし、死の先に何があるのか、
死んだらどうなるのか。
そもそも何かあるのか。
わたしたちには確かめてみることはできず、
死の先に何があるかを証明もできません。
だから、わたしたちは「信じる」のです。
でも、もしわたしたちが信じることが、
単に信じたいと願っていることにすぎず、
願望や期待を信じ込んでいるだけだとしたら、
わたしたちは根拠のない幻を信じ、
空想の上に立っているにすぎません。
パウロはそうではないことを宣言します。
「キリストは死者の中から復活した」と。
わたしたちが信じているのは、
死が最後の勝利者ではなく、
死んだらそれで終わりなのでもなく、
死後に復活の命にあずかることです。
使徒信条でわたしたちは信仰を表明します。
「(我は)体のよみがえり、
とこしえの命を信ず」と。
そう信じることが、
なぜ単なる願望や、
自分の期待の投影ではないと言えるのか。
その理由はパウロにとって明らかです。
神がキリストを復活させた、
その事実があるからだと。
「キリストは死者の中から復活した」。
ここにわたしたちの望み、
わたしたちの信仰が依って立つ土台があります。
でも、人は知り得ないことを詮索し、
勝手な推測や想像を思い巡らして、
議論したり皮肉を述べたり疑いを投げかけます。
「復活するって?
どんな風に?
どんな体で?」と。
信じるよりもまず疑い、
受け入れるよりもまずあざ笑い、
復活ということの矛盾や疑問をなげかけ、
滑稽さを誇張してからかいの材料にします。
自分が信じないだけでなく、
人が信じることまで妨げようとします。
年を取って死んだ人が復活したら、
よぼよぼの老人として復活するのか?
幼くして死んだ幼児は、
赤ん坊のままで復活するのか?
だとしたら復活の命にも、
老衰や成長があるのか?
事故で死んだ人は傷ついた体で復活するのか?
昔、キリスト教が迫害されていた時代、
信仰のゆえに殉教した人の遺体は、
焼いて灰にされ、川に捨てられました。
復活の希望を抱く信仰者が、
復活できないようにして絶望させるためです。
パウロはそんなふうに考える人たちのことを、
「愚かな人だ」と断言したのでした。
なぜ愚かなのか。
その理由は、神の御心と神の力を、
自分たち人間の理解と能力によって測り、
神をちっぽけな方のように思い込むからです。
旧約聖書で読んだヨブ記の主人公ヨブは、
納得できない苦難を体験した時、
神の御心を理解できないことに怒り、
神に答えを求めたのでした。
人には神の御心と神の計らいを、
とうてい理解し尽くすことなどできない。
だから人にできることは、
神を信頼して神に望みをおくことだ。
そのような信仰が、
ヨブには必要なことでした。
人間はしばしば、
自分の理解を超えることに対して、
神に説明を求め、
納得できる答えを要求します。
知り得ないことを知ろうとして、
神への不信や怒りを心に育ててしまいます。
詩編131の詩人は、
信仰を抱いて生きる者の心得を、
美しく表現しています。

 主よ、わたしの心は驕っていません。
わたしの目は高くを見ていません。
大きすぎることを
わたしの及ばぬ驚くべきことを、
追い求めません。
わたしは魂を沈黙させます。
わたしの魂を、幼子のように
母の胸にいる幼子のようにします。

 時として、わたしたちは、
神に深い信頼を抱いて沈黙し、
神の懐に憩うことが必要です。
わたしたちがどのように復活するのか。
どのような体に復活するのか。
それは復活の命にあずかる時に、
その時にはじめて知らされることでしょう。
パウロは二つの「たとえ」、
あるいは比喩を用いて語ります。
今のこの命は、蒔かれた種のようであり、
今はわたしたちは地上の体で生きているのだと。
種と、種から芽生える命は、
似ても似つかない姿です。
チューリップの花を見たことのない人が、
チューリップの球根を見せられて、
育った時の花を想像できるでしょうか。
からし種一粒の中に、
鳥が来て止まるほどの木を見る人が、
はたしているでしょうか。
種と、その種から芽生える命が、
形も輝きもまったく異なるように、
今のこの地上の体と、
復活後の天上の体の輝きは、
まったく異なるものです。
その違いをパウロは42節で、
とても劇的なたとえを用いて表現します。

 死者の復活もこれと同じです。
蒔かれるときは朽ちるものでも、
朽ちないものに復活し

 今は、わたしたちは、
朽ちるものとして生きています。
復活の時には、
朽ちないものに復活する。
それがわたしたちの信じていることです。
わたしたちは地上の体しか知りません。
だから、復活の後の天上の体については、
パウロが象徴的に語る以上のことを、
わたしたちは知ることができません。
復活の後の、天上の体の有様と輝きは、
復活の命を得てはじめて知ることができます。
いや、その時には、
「知る」のではなく、
復活の体を「体験する」ことになります。
ばかげた幻想でしょうか?
昔の人が夢見た神話のような話でしょうか?
現代の科学時代には時代錯誤でしょうか?
「キリストは死者の中から復活した」。
この事実、この証言、この体験の前で、
すべての疑問もあざけりも皮肉も、
わたしたちには役に立たない無駄口です。
この地上の体が終わる時、
つまり地上のこの命が終わる時、
そのとき、天上の体が、
つまり天上の命が始まる。
わたしたちはそのように信じます。
この信仰は根拠のない戯言ではありません。
キリストの復活が証しているからです。
復活の命があることを。
死は暗黒の扉のようです。
漆黒の扉は恐ろしく、不気味で、
不安を抱かせます。
その扉があらゆる命の終わりで、
その先に何もないのか、
何かあるのか、
わたしたちには知りようがありませんから。
わたしたちの地上の命は、
死という暗黒の扉へと向かって歩む旅です。
だが、わたしたちは知っています。
その暗黒の扉はキリストによって開かれたと。
その先には、キリストによって導かれる、
天の国があり、
死の扉を通る先に天上の命があると。
わたしたちはキリストを信じる信仰を、
洗礼によってわたしたちの魂に刻みます。
洗礼を受けることを、
パウロはキリストと共に死に、
キリストの復活にあずかることと教えました。
わたしたちの洗礼は、
地上の命に死んで、
天上の命に生きることの先駆けです。
死は命の始め。
そのことが洗礼によって保証されています。
死は終わりではなく、
天の国での命の初めと信じて、
わたしたちはこの世の旅を歩んでゆきましょう。

(以上)


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