<聖霊降臨祭主日>

2019年6月9日()   礼拝説教


「復活の望みがあればこそ」  (石田 学牧師)
 説教は音声付きです。

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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) ヨブ記19:23−27

23 どうか
わたしの言葉が書き留められるように
碑文として刻まれるように。
24 たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され
いつまでも残るように。
25 わたしは知っている
わたしを贖う方は生きておられ
ついには塵の上に立たれるであろう。
26 この皮膚が損なわれようとも
この身をもって
わたしは神を仰ぎ見るであろう。
27 このわたしが仰ぎ見る
ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。


2) 新約聖書
コリントの信徒への手紙一、15:42−49


◆復活の体

42 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、
43 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。
44 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。
45 「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。
46 最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。
47 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。
48 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。
49 わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。

(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年6月9日

「復活の望みがあればこそ」

自分が賢いと思っている人は、
世の中に大勢います。
教養があり、社会で成功をおさめ、
自分に自信のある人ほど、
自分は賢いと思っています。
でも、そのような人の賢さは、
人間の常識や知識の範囲内だけの、
狭い世界でのものにすぎません。
真に賢い人がどのような人か。
古代の哲学者は言ったものです。
「自分は無知だと知ることが、
賢さの証だ」と。
聖書の賢者もまたこう諭しています。
「神を恐れることが知恵のはじめ」。
哲学者や賢者ではない普通の人は、
神についての事柄さえも、
自分の常識や知識だけに基づいて、
神を人間の常識の檻に住む、
飼い慣らされた動物のように思い込みます。
パウロはコリントの信徒への手紙で、
復活に関して特に長く論じています。
復活の望みがキリスト教信仰の根幹であり、
しかし同時に、
復活などない、信じられない、
ばかげた迷信だと主張して、
否定したりあざ笑う人が多かったからです。
コリント教会のクリスチャンの中にさえ、
「復活などない」と言う人がいました。
いつの時代のクリスチャンの中にもいて、
現代でもそのように考えている人がいます。
キリスト教の教えは立派だが、
復活だけはばからしく到底信じられない。
そういうクリスチャンに、
わたし自身出会ったことがあります。
復活の望み。
それこそキリストの使徒の時代から、
現代に至るまでずっと、
キリスト教にとって躓きの石でした。
この世界の現実と体験の中だけで考え、
この世の常識と知識で理解できることだけを、
信じ受け入れようとしている限り、
「復活などない」
「復活などばかげた話だ」と思うのは、
むしろ当然のことではないでしょうか。
復活をこの世の常識と知識で考えるなら、
必ず疑いの問いを投げかけることでしょう。
「どんなふうに復活するのか」
「どんな体で復活するのか」と。
常識の範囲で考える復活など、
ほとんどホラー映画の一場面になるでしょう。
人間の理性や知識の枠の中だけで考えれば、
復活の体は矛盾だらけの冗談に思われます。
聖書は人間の理解や知識で神を考えることを、
繰り返し戒め、警告してきました。
神の約束を笑ったアブラハムの妻サラに、
主の使いは言いました。
「主に不可能なことがあるだろうか」。
エジプトの軍隊に追い詰められたヘブライ人に、
神は宣言しました。
「恐れるな。
きょうあなたたちのためにおこなわれる
主の救いを見よ」。
マリアを訪れた天使ガブリエルは告げました。
「神にはできないことはない」。
パウロはローマの信徒への手紙で、
神についてこのように書いています。
「死者に命を与え、
存在していないものを呼び出して
存在させる神」と。
神を人間の常識で理解しようとし、
神を人間の現実の範囲内で考える人たちを、
パウロは「愚かな人だ」と切り捨てます。
そのうえでパウロは、
今のこの体の在り方と、
復活の体の在り方を、
三通りに対比してみせます。

 朽ちるものでまかれ、朽ちないものに復活し、
卑しいものでまかれ、輝かしいものに復活し、
弱いものでまかれ、力強いものに復活し、

この三つの対比はわたしたちに、
今の現実と未来の希望を、
実に鮮やかに思い描かせてくれます。
今のわたしたち、今のこの体は、
朽ちるものであり、
卑しいものであり、
弱いものです。
わたしたちは生まれた時から、
否、母の胎内に形作られた時から、
生涯には終わりがあることが定められ、
死へと向かって命を削って生きてゆきます。
最初からわたしたちは例外なく、
病や老いを宿命付けられ、
人は誰も皆、欲や自分本位の考えを抱き、
肉体的・精神的な限界性を負っています。
そのためにわたしたちは誰も皆、
この地上の体を生きているかぎり、
痛みと悩みが伴い、
恐れと不安を避けることはできません。
詩編30篇の詩人が告げるように、
泣きながら夜を過ごし、
恐怖に陥り、
神に叫び求め、
神の憐れみを求める時があります。
それが地上の体を生きる者の現実です。
わたしたちにとって最大の救い、
そしてもっとも喜ばしい約束は、
この地上の体で生き、地上の体で死ぬことが、
すべての終わりではないという知らせです。
パウロは地上の体の現実に対し、
復活の体の現実を語ります。
朽ちないものに復活し、
輝かしいものに復活し、
力強いものに復活するのだと。
復活の体は、
地上の体の有限性と限界性、
そして地上の体ゆえの恐れからの、
完全な解放です。
わたしたちは神の約束を信じ、
復活の体を待ち望みます。
だが、地上の命を生きているかぎり、
わたしたちの誰ひとりとして、
まだ復活の体へとよみがえらされていません。
そもそも、
わたしたちは地上の体の理解力でしか、
ものごとを考えることができません。
復活の体を想像も理解もできない。
そのことをパウロは知っています。
だからパウロは復活の体を比喩として語ります。
復活の体は、
「朽ちず、輝かしく、力強い」ものへの復活だと。
そのうえでパウロは、
最後の、もっとも力強い対比を、
このように述べます。

 自然の体がまかれて、
霊の体が復活するのです。

「自然の体」という言い方の中には、
この今のわたしたちの存在が持つ、
有限性、限界性、脆弱性が込められています。
自然の体にすぎない今のわたしたちが、
復活の体を想像するのは無理です。
今のわたしたちには、
自然の体で想像できる程度の仕方でしか、
復活の体を思い描くことはできず、
その想像の産物は真の復活の体とはかけ離れた、
不充分で不完全なものでしかないからです。
だからこそ、
パウロは比喩で語ったのであり、
パウロが比喩で語る復活の体こそ、
わたしたちの望みであり待ち望む未来の姿です。
では、わたしたちは復活の体について、
何の手がかりも証拠も持てないのでしょうか。
想像さえできないことの比喩だとしたら、
それが真実だとどうして分かるのでしょうか。
ただひとり、
よみがえられた方がおられます。
ただひとり、
地上の体から復活の体へと変えられた、
復活の主イエスがおられます。
復活の主イエスこそ、
わたしたちの復活の望みを保証し証明する方。
主イエスがよみがえられ、
弟子たちに現れ、
五百人以上に現れ、
パウロに現れ、
天に昇り、
今も天におられる復活の主。
復活の主キリストを見れば、
わたしたちが望んでいる霊の体への復活が、
どのようなものかを知ることができます。
パウロはわたしたちの地上の体は、
自然の体として蒔かれたのであり、
そこから芽生える命は、
自然の体とはまったく異なる霊の体だと、
はっきり教えています。
しかしさらにもう一つ重要なことは、
復活の主イエスは地上の体を生きていた時の、
記憶と体験、愛と慈しみを受け継いでいて、
復活の主イエスと会った弟子たちも皆、
その方が主イエスだとわかったという事実です。
復活にあずかることは、
生き返ることではなく、
生まれ変わりでもありません。
霊の体への復活です。
そしてそれは、
わたしという人格的存在が、
自身のアイデンティティを失うことなく、
なおかつ罪と欲、有限性と弱さから解放され、
霊の体に復活することになります。
この復活の望みがあればこそ、
わたしたちはこの地上の体がやがて終わり、
自然の体が役割を終えるとしても、
死と恐れがわたしたちを絶望に追い込みません。
むしろ復活の命を待ち望みながら、
新しい命へと移されると信じるからです。
自然の体でまかれ、
霊の体がキリストと共に復活させられる。
それが地上の体で世を旅するわたしたちの、
生涯全体に渡る望みであり、
わたしたちが生涯かけて目指す目標です。
復活の体にあずかることがわかっているのですから、
わたしたちは今のこの地上の体を、
この地上での命の旅を、
喜んで、神に感謝をささげ、
憐れみ深く、互いに愛し合いながら、
続けてゆきたいと思います。

やがて復活の命にあずかるその時が来るまで。



(以上)


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