<三位一体第一主日>

2019年6月16日()   礼拝説教


「その時、死は勝利にのみ込まれ」  (石田 学牧師)
 説教は音声付きです。

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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) イザヤ書25:6−10

6 万軍の主はこの山で祝宴を開き
すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
7 主はこの山で
すべての民の顔を包んでいた布と
すべての国を覆っていた布を滅ぼし
8 死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい
御自分の民の恥を
地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。
9 その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。
10 主の御手はこの山の上にとどまる。



2) 新約聖書
コリントの信徒への手紙一、15:50−58


◆復活の体

50 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。
51 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。
52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。
53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。
54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。
55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。
58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。


(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年6月16日

「その時、死は勝利にのみ込まれ」

聖書の中には、力強い言葉や、
支えとなる言葉が数多くあります。
しかし、きょうの1コリントの箇所で、
パウロが語る言葉ほど、
わたしたちを励まし、
魂を高揚させる言葉はないと思います。
パウロが「神秘」として語る言葉は、
わたしたちがやがて迎えるであろう、
自分自身の最後の時に、
わたしたちをもっとも力強く励まし、
心を上に、天に引き上げてくれる、
高らかな宣言となるべき言葉です。
パウロはきょうの箇所で、
死に対するもっとも力強い勝利宣言を、
すべての信仰者に告げ知らせるのです。
ただ知らせるだけでなく、
この勝利宣言をわたしたちの宣言として、
高らかに掲げることを願っているのです。
世の終りを告げ知らせるトランペットを、
神の使いが高らかに吹き鳴らす時、

 死者は復活して朽ちない者とされ、
 わたしたちは変えられます。

これがパウロの告げる神秘です。
世の終わりの時、
既に眠りについている者たち、
つまり死者はよみがえらされ、
その時を生きて迎える者たちは、
変えられることになる。
世の終わりの時は、
キリストが再び来られる時です。
それが何を意味するのか、
どのような形で起こるのか、
パウロは詳しくは述べません。
パウロがここで示すのは、
信仰を抱いて死んだ者たちと、
その時に生きている信仰者たちが、
一体どうなるのかということです。
既に死んだ者と生きている者の間に、
パウロは区別があると言います。
キリストを信じて死んだ者は
よみがえらされ、
キリストを信じて生きている者は
変えられる。
わたしたちはどちらなのか、
誰にもわかりません。
わたしたち自身は未来予測はできても、
知ることはできませんから。
誰が、主は明日来られる、
などと断言できるでしょうか。
誰が、主の来臨は千年後だなどと、
確信をもって言えるでしょうか。
実際、パウロを含め最初の信仰者たちは、
多くの人が自分の生きている間に、
主が再び来られることを期待していました。
パウロが福音を宣べ伝えていた頃、
キリストを信じた人々の間に、
二つの疑問が広がっていました。
一つは、キリストが来られる前に死んだ人は、
主と会うことが出来ないのかという疑問です。
教会が十年、二十年と続くうちに、
信仰者の中で眠りにつく人々が出て来ました。
信じていたのに死んだ人たちはどうなるのか。
その答えを誰もはっきり知らなかったのです。
そこでパウロは、そういう心配をする人々に、
その時、死者は復活することになると、
力強く宣言しました。
その時、死者はよみがえらされ、
朽ちるものから朽ちないものへ、
卑しいものから栄光あるものへ、
地上の体から霊の体へ、
よみがえらされることになります。
もう一つの疑問は、
生きている信仰者についてでした。
死者がよみがえらされるのだとしたら、
生きている人たちはどうなるのか。
地上の体、朽ちるべき・死ぬべき体は、
その時、いったいどうなるのか。
死んでいないなら復活はないはずです。
この疑問に対してもパウロは明快です。
その時、わたしたちは「変えられる」。
それがパウロの答えです。
どう変えられるのでしょうか?
朽ちるものから朽ちないものへ、
卑しいものから栄光あるものへ、
地上の体から霊の体へと変えられる。
そうであれば、
復活させられるか、
変えられるかという、
体験的な違いはあるとしても、
起きることは同じです。
朽ちるべき体から栄光ある体へ、
地上の体から霊の体へ。
この変化は死者も生者も同じです。
さて、これで充分なはずですが、
パウロは続けて不思議なことを語ります。

 朽ちるべきものが朽ちないものを着、
 死ぬべきものが死なないものを着る。

しかもパウロはこの同じ言い方を二回、
たて続けに繰り返すのです。
読んだ皆さんも不自然に感じたはずです。
実際、文章がとてもぎこちなく、
くどい物言いになっています。
なぜ文章のなめらかさを犠牲にしてまで、
パウロは同じ言葉を繰り返したのか。
そこにはとても重要な意味があるはずです。
パウロは「着る」という動詞を使っています。
この動詞に手がかりがあります。
「着る」ということは、
着る人そのものは同じであるはずです。
わたしという存在があって、
着る前と着た後で、
服は変わっても、
わたしという存在は変わりません。
パウロが「着る」という動詞を使い、
しかも二回同じことを繰り返すことで、
重要性を強調したのは、
変えられることと、
変わらずに引き継がれるものがある、
そのことを明確に告げるためであった。
そのように理解すべきです。
今のわたしたちの地上の体、
朽ちるべきものであり、
卑しいものであり、
弱いものである体は変えられ、
朽ちない、栄光ある、力強い、
霊の体へと新しくされます。
しかし、「わたし」という固有の人格性、
二人と存在しないわたしの意志と記憶、
そして、信仰と希望と愛。
こうした、存在の本体は引き継がれる。
そのことが示されている。
そのように理解すべきです。
そうであれば、
いや、そうだからこそ、
死は終わりではなく、
新しい始まりであり、
別人への生まれ変わりなどではなく、
わたしという存在が、
新しい創造にあずかることになります。
こうして、
死は敗北ではなく、
キリストと共にあって勝利の時となります。
だからパウロはその時に何が実現するかを、
高らかに宣言したのでした。
死の時、それは勝利を宣言する時です。

 死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。

この勝利の宣言は、
すべての信仰者、
すべてキリストを信じる者たちが、
等しく分かち持つ勝利宣言です。
やがて来るわたしたちの死の、その時、
わたしたちの誰もが皆、
心を天に高く上げ、
高らかに宣言する勝利の言葉です。
パウロはキリストが再び来られる時に、
死んでいるか生きているか、
その違いを論じました。
でもそれから二千年が経ったいま、
わたしたちは未来を断言できませんが、
おそらくわたしたちは皆、
主キリストが再び来られる前に、
この地上の命を終えることになるでしょう。
だが、わたしたちは知っています。
その時、死は勝利にのみ込まれ、
わたしたちは復活の命にあずかることを。
わたしたちの死は、
死に対する勝利宣言の時です。
この地上の命の終わりが、
死に対するわたしたちの勝利の時となる。
その約束がキリストによって、
わたしたちに保証されています。
人は誰も、先に喜びのない苦労は苦痛です。
わたしたちの生涯は、
良いこと、楽しいことも多々ありますが、
同時に多くの苦労、重荷、
悩み、痛み、苦難も多くあります。
ただ重荷を負い、
ただ苦難を受けるだけで、
その先に喜びがないままで、
この地上の命が終わるのだとしたら、
わたしたちはせいぜい、
あきらめてその日暮らしをするか、
きょうを快適に暮らすことだけに専念して、
浮世の日々をやり過ごすことにしましょう。
しかし、この地上の命が終わる時が、
もっとも輝かしい最高の約束が実現し、
高らかな勝利宣言の時となるのであれば、
苦労も苦難も無駄にはならず、
報われることを信じることができます。
そうであればこそ、わたしたちは、
この地上の命を生きている今は、
「主の業に励んで」生きてゆきましょう。
神に喜ばれるよう努力し、
神と人を愛し、
憐れみと慈しみを忘れず、
神に感謝と賛美を捧げつつ、
きょう自分にできる最善の生き方を、
終わりの時が来るまで、
日々続けてゆきましょう。
最後の勝利はあなたのものですから。



(以上)


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