<三位一体第三主日>

2019年6月30日()   礼拝説教


「キリストにある友愛の群れとしての教会」  (石田 学牧師)
 説教は音声付きです。

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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 創世記33:1−4

1 ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。ヤコブは子供たちをそれぞれ、レアとラケルと二人の側女とに分け、
2 側女とその子供たちを前に、レアとその子供たちをその後に、ラケルとヨセフを最後に置いた。
3 ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。
4 エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。

2) 新約聖書
コリントの信徒への手紙一 16:5−12


◆エルサレム教会の信徒のための募金

5 わたしは、マケドニア経由でそちらへ行きます。マケドニア州を通りますから、
6 たぶんあなたがたのところに滞在し、場合によっては、冬を越すことになるかもしれません。そうなれば、次にどこに出かけるにしろ、あなたがたから送り出してもらえるでしょう。
7 わたしは、今、旅のついでにあなたがたに会うようなことはしたくない。主が許してくだされば、しばらくあなたがたのところに滞在したいと思っています。
8 しかし、五旬祭まではエフェソに滞在します。
9 わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです。
10 テモテがそちらに着いたら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようお世話ください。わたしと同様、彼は主の仕事をしているのです。
11 だれも彼をないがしろにしてはならない。わたしのところに来るときには、安心して来られるように送り出してください。わたしは、彼が兄弟たちと一緒に来るのを、待っているのです。
12 兄弟アポロについては、兄弟たちと一緒にあなたがたのところに行くようにと、しきりに勧めたのですが、彼は今行く意志は全くありません。良い機会が来れば、行くことでしょう。

(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年6月30日

「キリストにある友愛の群れとしての教会」

昔から、こう主張する人がいました。
「初代教会に帰れ」
「聖書時代の教会に戻ろう」
「新約聖書の教会の信仰を取り戻そう」。
現代でもそう主張する人がいます。
最初の教会が理想的に思え、
それに対して今の時代の教会に、
不満や疑問を抱いているのでしょう。
「初代教会に帰れ」というスローガンには、
わたしは反対と賛成の両方の思いを抱きます。
なぜ反対なのか、その理由は、
新約聖書時代の教会は、決して、
理想的な教会などではなかったからです。
昨年四月以来わたしたちは毎週の礼拝で、
コリントの信徒への手紙を順に学びました。
いっしょにずっと学んで来た方たちは、
おわかりだと思います。
はたしてコリント教会は理想的だったか?
いいえ!
コリント教会は深刻で重大な問題を抱え、
理想的とは程遠い現実がありました。
勢力争い、対立、裁判沙汰、
不道徳、兄弟姉妹に対する侮辱、高ぶり、
間違った信仰理解、おかしな教え、・・。
そんな教会に「帰ろう」というのは変です。
「初代教会に帰ろう」というスローガンには、
賛成すべき点もあります。
教会が常にさまざまな問題を抱えていても、
教会は常に友愛の群れであることを、
いつかかならず取り戻したことです。
教会ほど多様で異質な人の集まりはありません。
同じ考えを持つ人だけが集っているのではなく、
同じ社会階層の人ばかりでもありません。
職業も経験して来たことも異なり、
好みもみんなばらばらです。
クラシックが好きな人もいれば、
ロック大好きの人もいます。
どちらも好きという人もいます。
教会には最初から、
奴隷と奴隷の主人がいました。
金持ちと貧しい人がいました。
老人と青年がともに座り、
健常者と障碍者が同じ群れの仲間でした。
男と女がいて、性的少数者もいて、
身分の高い人と低い人、
幸福な人と不幸を負っている人がいました。
奴隷と奴隷の主人を除いて、
現代でも教会の多様さは変わりません。
多様で異質な人たちが、
なぜ一つの群れであり続けられるのか。
考えてみれば不思議なことです。
なぜなら、こうした違いと多様性のある、
異質な人々の集まりは、
すぐに衝突し、対立し、
批判し、分断し合うからです。
同類の人たちが群れ集まり、
自分たちとは違う人を、
疎外し排除しいじめ、差別するからです。
教会も例外ではありません。
こうした対立や派閥争い、
分断と差別、
いじめと排斥が教会でもあり得るのは、
コリント教会を見れば明らかです。
もし、教会がそれだけのものだとしたら、
教会は遅かれ早かれ分裂し崩壊します。
とっくに教会はこの世から消え去っても、
何の不思議もなかったはずです。
教会が今日まで存在しているのは、
教会がそれだけのものではなかったからです。
コリント教会には激しい対立がありました。
パウロとの関係もぎくしゃくしていました。
教会の指導者たちをめぐって、
派閥争いが起きていました。
パウロ派だ、アポロ派だ、ケファ派だと。
なぜパウロがコリント教会に手紙を書いたのか、
その最大の理由は、
教会で起きている対立や分断の危険を、
パウロが心配し、解決を願ったからです。
間違った考えや誤った主張をする人たちを、
なあなあで放っておくことはできません。
間違いや誤りを指摘して、
問題を解決する責任がパウロにはあります。
愛と親しみを最大限に込めたとしても、
厳しいことを書き送らなければなりません。
だから対立は一時的にせよ深まることでしょう。
かなり率直に教えを語ってきたパウロは、
きょうの1コリントの箇所で、
パウロとコリント教会のこれからの関係を、
三つのことがらに関して書き送りました。
一つはパウロ自身のコリント訪問についてです。
パウロはコリント教会の諸問題について、
この手紙でかなり率直に、
時に厳しく対処してきました。
コリント教会で反パウロを主張する人たちがいて、
その人たちの方が有力で、
おそらく多数派だと思うのですが、
彼らはこの手紙を読んで、
心を入れ替えてパウロに従ったでしょうか。
パウロ自身は手紙の成功を願いますが、
決して予断を許しません。
反対者の怒りを焚きつけたかもしれません。
それにも関わらず、
パウロは自身のコリント訪問を計画しました。
手紙の効果を見極めてから行くことにする方が、
ずっと賢いやり方だったのではないでしょうか。
しかも、行くことを決めていながら、
今すぐに行くわけではなさそうです。
五旬祭(ペンテコステ)までは、
エフェソに滞在することを明らかにしています。
エフェソの教会に対しても、
パウロは責任を負っているからです。
だが、コリント教会の人たちにしてみれば、
どうしてパウロはすぐに来ないのかと、
不満を抱き、反感を持たれるかもしれません。
こんなに馬鹿正直に、あからさまに、
自分の計画を相手に伝えるのは、
はたして賢い選択でしょうか。
パウロには戦略的な思惑を超えて、
教会に対する確信と信頼があった、
そのようにしか思えません。
二つ目のことは、
同労者テモテをコリントに派遣することです。
若く経験の浅いテモテを自分の代理として。
そんなテモテをコリント教会に派遣することは、
はたして賢い選択だったのでしょうか。
コリント教会には反パウロの勢力がいます。
パウロに対する攻撃批判がテモテに向けられ、
テモテが攻撃されるかもしれない。
パウロはそのことを知っています。
テモテには荷の重すぎる役割です。
だからこそ、
「心配なく過ごせるようお世話ください」
などという言葉を書き記したのでした。
そこまで案じるなら、
テモテを遣わすこと自体、賢い選択でしょうか。
パウロにはそんな戦略的な思惑を超えて、
教会に対する確信と信頼があった、
そのようにしか思えません。
三つ目のことがらは、
アポロとの関係です。
アポロはコリント教会で人気の高い説教者で、
パウロに反対する人たちがアポロを支持して、
教会に対立と分裂を生み出していました。
そうであれば、
パウロが戦略的にものを考えるのであれば、
アポロをコリントに行くよう勧めるどころか、
行かせまいと妨害するはずです。
アポロが行ったら反パウロ派が勢いづいて、
パウロにとって不利な状況になりかねません。
それなのになぜ、
パウロは戦略的に賢いとは思えない、
アポロのコリント行きを勧めたのでしょうか。
パウロには戦略的な思惑を超えて、
教会に対する確信と信頼があった、
そのようにしか思えません。
そして事実、
パウロはある一つのことを堅く信じ、
確信していたのでした。
パウロの確信とは、
教会は互いの違いやあらゆる異質性を越えて、
皆が同じひとりの主と結ばれている、
神の国の民、同じ天に国籍を持つ者だ、
という確信です。
一時の対立や意見の違いはあることでしょう。
しかし、根本においては主にある群れの仲間、
キリストにある友愛の群れに属する者同士。
それだからこそ、
パウロはアポロにコリント行きを勧めました。
アポロもまた、
コリントに行かない方が益であると確信して、
パウロの勧めを断ったとしか考えられません。
たとえ衝突や対立があるとしても、
究極において互いの益を願い、
なによりもキリストの教会にとっての益こそ、
最大の望みだということではないでしょうか。
多様で異なる人たちの群れですから、
教会には常に意見や考えの相違があります。
でも、そうした違いや対立を、
圧倒的に凌駕する、
強いキリストとのきずなと、
なにものも破ることのできない、
深い神の愛により、
教会はキリストにある友愛の群れとして、
今もわたしたちの群れとして、
ここに存在しています。
この友愛の群れにおいては、
誰も拒まれず、
誰も疎外されず、
すべての人が喜ばれ、
受け入れられ、
共に座り、
共に神を賛美して、
天の御国を目指して旅するのです。



(以上)


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