<三位一体第八主日>

2019年8月4日()   礼拝説教


「荒れ野に道を拓く神」  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) マラキ書3:23−24

23 見よ、わたしは
大いなる恐るべき主の日が来る前に
預言者エリヤをあなたたちに遣わす。
24 彼は父の心を子に
子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって
この地を撃つことがないように。



2) 新約聖書
マルコによる福音書1:1−4


◆洗礼者ヨハネ、教えを宣べる

1 神の子イエス・キリストの福音の初め。
2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの道を準備させよう。
3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、
4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。


(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年8月4日

「荒れ野に道を拓く神」

「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」。
これがマルコによる福音書の書き出しです。
だったら最初から、
イエス・キリストについて語ればよいのに。
皆さんはそう思いませんか。
だのにどうして、
マルコは説明もなしに、いきなり、
旧約聖書の預言者の言葉を引用し、
イエス様のことではなく、
バプテスマのヨハネのことから始めたのか。
よほど事情を知っている読者ならともかく、
よくわかっていない読者には、
ずいぶんと不親切なように思います。
マルコは「預言者イザヤの書」として、
二箇所から引用しています。
一箇所はたしかにイザヤ書ですが、
最初の引用はマラキ書からです。
二人の預言者をイザヤの預言として、
一つにまとめているのです。
一つにまとめているといえば、
実はマラキ書とイザヤ書という、
二つの預言書から引用することで、
マルコは旧約聖書の預言書全部を、
この二つの預言書によって包み込む仕方で、
一つにまとめているのです。
マラキ書は旧約聖書の最後の預言書です。
イザヤ書は最初の預言書。
最後と最初の二つの預言書からの引用で、
17ある預言書(含、哀歌)を、
ひとつにくくっているのです。
その上でバプテスマのヨハネが登場します。
バプテスマのヨハネは、
旧約聖書の全体が予告し待ち望んで来た、
来たるべき救い主こそ、
イエス・キリストであることを証言する、
すべての預言者の代表として、
最後に登場したのでした。
マルコ福音書が告げようとしていることは、
とても明白です。
来たるべき救い主、イエス・キリストは、
旧約聖書の預言者全体が待ち望み、
告げ知らせてきた方だという事実です。
イエス・キリストは何の予告も備えもなく、
ある日突然現れたわけではありません。
イエス様がお生まれになるはるか以前、
何百年もの昔から、
待ち望まれ、道が備えられてきたのであり、
充分な備えができたとき、
聖書の言葉を使うなら、
「時が満ちて」、
救い主キリストが世に来られたのでした。
すべての預言者たち、
旧約聖書の全体が、
人々に告げ知らせ、待ち望ませ、
準備を整え、道を備えてきたのであり、
バプテスマのヨハネは、
最後にそれらの預言と期待を一身に背負って、
イエス様を救い主と証言する役割を担いました。
救い主イエス・キリストの前に現れたのは、
バプテスマのヨハネでしたが、
ヨハネひとりが道を備えたのではなく、
全預言者、旧約の全歴史が、
救い主のための道を備えてきたのです。
荒れ野で呼ぶ者の声は、
ヨハネの声ですが、
その声の背後には、
すべての預言者の声が共にあります。
道を備えたのはヨハネ個人ではなく、
ヨハネに代表される全預言者の働きです。

 主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。

 主なる神が備えられる道とは、
もちろん救い主が来られるための道ですが、
それだけの意味ではありません
同時に、人々が救い主へと導かれ、
救い主を信じて歩むようになるための、
備えの道でもあります。
預言者たちはどんな道を、
どのように備えたというのでしょうか。
聖書の預言者は、
どのような時代、
どのような世界に現れたか、
わたしたちは考えてみましょう。
平和ですべてがうまくいっている世界に、
預言者は現れたでしょうか。
神の御心がおこなわれ、
みんなが神の民として生きている世界に、
預言者は現れたでしょうか。
いいえ、そういう時代には、
預言者は起こされませんでした。
預言者が現れたのは、
決まって、世界が悪くなり、
人々が神を畏れなくなり、
王や支配者や金持ちが、
憐れみと公平をおこなわなくなり、
不正義と不信仰が満ちた時代でした。
そのために多くの人々、
特に貧しい者ややもめや孤児が、
苦しめられ虐げられる時代。
人々が神ではなく、
軍事力や同盟に頼ろうとして、
世界が争いと混乱にまきこまれ、
人々が苦難と災いに苦しめられている。
人々が神に敵対し偶像崇拝に浸る、
罪の支配する世界になってしまっている。
そういう危機の時代に預言者が現れました。
預言者たちが人々に向かって叫んだのは、
悔い改めて神に立ち帰れ、
神に依り頼み、神に望みを置いて生きよ、
という言葉でした。
それでも人々は預言者の言葉に耳を貸さず、
それどころか預言者たちを罵り、迫害し、
悔い改めることがありませんでした。
だから危機はいっそう深刻になりました。
いくら神の言葉を伝えても、
どれほど警告を発しても、
耳を傾けようとしない王や民に対して、
ついに預言者は滅びを宣告します。
だが、同時に希望も語り伝えました。
不正、暴力、無慈悲、冷酷、欲望・・
それらのために裁かれ、滅ぼされる。
だが、神は見捨てることをせず、
救い主をいつか遣わしてくださる。
だから悔い改めて待て。
それが預言者の言葉でした。
預言者はみな、
危機の時に人々の心を神に向かわせ、
神に望みを置くようにと呼びかけました。
そのようにして、
救い主のために道を備えました。
それが預言者の役割でした。
もし預言者たちが、
来たるべき救い主について語らず、
予告することをしていなかったなら、
人々は何を待ち望むべきか、
どのような救い主に望みを置くべきかを、
知ることはなかったでしょう。
人々は預言者たちの言葉をとおして、
救い主を待ち望んできました。
だからイエス・キリストが来られた時、
この方こそ預言で告げ知らされてきた、
待ち望むべき救い主であることを信じ、
受け入れることができたのでした。
重要なことは、
救い主の約束と人々の希望は、
苦難と災いの中で告げ知らされ、
待ち望まれたということです。
イスラエルの人々がその歴史の中で、
苦難も災いも体験せず、
ただハッピーで満ち足りていただけなら、
救い主を待ち望むなどということは、
ついぞ起きなかったことでしょう。
もし幸福な楽園を彼らが生きていたなら、
預言者は出現せず、
救い主のための道も、
備えられることはなかったでしょう。
現代のわたしたちも同じです。
苦難や災いは来ないでほしいと願います。
危機の時を体験したい人はいません。
だが、そんなことは現実的ではありません。
この世界はエデンの園ではなく、
わたしたちは苛酷な現実の拡がる、
荒れ野のような世界を生きているからです。
神が最初から世界を荒れ野にしたのではなく、
わたしたち人間の罪が、
この世界を荒れ野にしてきたのでした。
人は誰もみな自己中心で、
自分のほしいものを過剰に手に入れて、
そのことで他の人々のものを奪っています。
人は互いに無慈悲、冷淡で、
自分がよければ他の人は苦しみにあっても、
仕方の無いことだと考えています。
互いに疑い、ねたみ、怒り、
自分を守るという口実で攻撃し、
平和のためといって戦い、
世界は自分たちのものだと信じ込んで、
この世界を貪り、荒れ果てさせています。
昔のイスラエルの民も、
イエス様の時代の人々も、
歴史のいつの時代も、
そして現代のわたしたちも、
荒れ野を旅しているのであり、
旅の途上で荒れ野をもっと荒れ果てさせ、
そのことによって自分自身が苦しんでいます。
もしわたしたちが荒れ野で危機にさらされ、
苦難や災いに苦しめられ、
歩むべき道も方向もわからず、
四方荒れ果てた世界のただ中で、
ただ途方に暮れるだけだとしたら、
わたしたちはどうすればよいのでしょうか。
ただ一つできることと言えば、
今いる場所にうずくまってしまうことだけ。
どれほど多くの人々が今の時代、
将来の変化を恐れ、
もっと悪いことになるかもしれないと心配し、
今のままでいようと考えて、
その場に座り込んでいることでしょうか。
この世で信じるものを持たず、
望みも期待も持ち合わせず、
荒れ野の中で立ちすくむばかり。
そんな状態で、
わたしたちは神に見捨てられたままでしょうか。
神はわたしたちになど、
目もくれず、何も起きないのでしょうか。
いいえ。
神は荒れ野に道を拓く神です。
荒れ野をさまようイスラエルの人々に、
預言者たちを遣わして道を示し続け、
救い主を見出すための備えをなさいました。
イスラエルの人々に道を備えられた神は、
今も同じく道を備えてくださる神です。
わたしたちも荒れ野を旅しています。
その事実は変わりません。
困難、災い、試練、苦しみ、
わたしたち自身の罪ゆえの苦難。
それらがわたしたちに何の道も示さないなら、
苦難や試練はそのまま残り、
わたしたちをどこへも導くことはありません。
だが、苦難や試練の時、
神はわたしたちを荒れ野で路頭に迷わせず、
救い主を見出す道を備えてくださり、
わたしたちのために道を拓いてくださいます。
神は苦難の時の助け。
荒れ野に道を拓く神が、
わたしたちを救い主へと導き、
荒れ野の旅を救い主と共に歩ませてくださり、
天の故郷まで至らせてくださる。
それがわたしたちの信じている神です。



(以上)


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