<三位一体第八主日>

2019年8月11日()   礼拝説教


「荒れ野で神の声を聞く」  (石田 学牧師)
 説教は音声付きです。

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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) イザヤ書40:3−5

3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え
わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
4 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
5 主の栄光がこうして現れるのを
肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。



2) 新約聖書
マルコによる福音書1:2−8


◆洗礼者ヨハネ、教えを宣べる

2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの道を準備させよう。
3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、
4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
7 彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」



(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年8月11日

「荒れ野で神の声を聞く」

イエス様は何の予告もなしに、
誰にも知られずに、
突然世に来られたわけではありません。
イエス様がお生まれになる、はるか以前、
何百年もの昔から、
神が救い主を遣わすとの約束が、
預言者たちをとおして告げられ、
人々に待ち望まれてきました。
どのような人が救い主を待ち望むのか、
その答えは明らかです。
苦難の中にある人、
自分の力を越える悪に苦しんでいる人、
理不尽で不当な現実にさらされている人、
神からしか救いが来ないと信じる人が、
救い主を待ち望みます。
今に満ち足りている人、
自分は成功者だと思っているわずかな人、
世界の不公平さ冷酷さに無関心な人は、
救い主を待ち望むことはありませんでした。
人類の歴史のほとんどすべての時を通して、
この世界が苦難に満ちていることを実感し、
体験してきた人たちは、
心から救い主を待ち望みました。
平和への願いを簡単に打ち砕く戦いが起き、
理不尽な扱いをされて悲嘆にくれ、
不当な苦役を強いられ、
餌食を求める欲望の犠牲にされ、
不正義の暴力が振るわれることが、
時代と民族を越えて、
この世界の現実だと知らされてきました。
救いを人に期待できないことは明らかです。
そういう世界の現実を、
聖書は「荒れ野」という言葉で言い表します。
この世界は荒れ野。
良いことが何一つないという意味ではなく、
試練、誘惑、苦難、災い、悪が満ちている、
そういう意味で荒れ野です。
いったい誰がこの世界で、
試練や誘惑に遭わないと言えるでしょうか。
いったい誰が、わたしは病に倒れない、
苦難に襲われない、
災いに遭わないと信じられるでしょうか。
荒れ野で生きているという現実が、
常にわたしたちを心配させ、
不安を抱かせ、
いつか現実の体験となります。
荒れ野で生きることが、
どれほど困難で危険に満ちていることか、
わたしたちは実感させられています。
たとえ今は大丈夫でも、
たとえ今は自分の生活や自分の国は無事で、
自分の生きている社会は一時的に平穏でも、
それが永続するものではないことを、
わたしたちは知っています。
そんな心配ばかりでは生きていけませんが、
わたしたちは心のどこかに、
そのことを案じながら生き、
それゆえに無事を祈りながら生きています。
民族や国家の不和や対立が、
いとも簡単に作り出されてしまいます。
何十年もかけてやっと築き上げてきた信頼が、
ほんの数週間で壊される現実を、
わたしたちは今まさに体験しています。
日本と韓国の友愛と交わりが、
一握りの政治家の愚かさと頑迷さによって、
こんなに簡単に破壊されるのかと、
驚きと共に恐ろしさを実感しています。
軍事力は今、世界中で増大され、
軍縮の機運などほぼなくなりました。
地球温暖化や異常気象が続いているのに、
一部の政治家や大企業のオーナーは、
温暖化などないと声高に主張して、
環境破壊を押し進めています。
巨大地震や災害への恐れが不安を抱かせ、
放射能汚染が制御不能なことが、
日毎に明らかになってゆきます。
そんな世界の現実を表現するのに、
「荒れ野」という言葉ほどふさわしい語は、
他に考えられません。
荒れ野で生きることは不安と恐れを伴います。
きょうは危険や罠を逃れることができても、
明日も大丈夫と言う保証はないからです。
そもそも、依って立つ大地が揺り動かされ、
崩れ去る時には、
わたしたちは為す術もありません。
そんな世界の中で生きている現実を、
詩編46篇の詩人はこう表現しました。

 地が姿を変え、
山々が揺らいで海の中に移る、
海の水が騒ぎ、沸き返り、
その高ぶるさまに山々が震える。

 だが、詩編の詩人がほんとうに歌うのは、
世界のこうした恐ろしい不安定さではなく、
地が揺れ動く現実にあっても、
わたしたちは恐れないという信頼の表明です。
なぜ、荒れ野の世界で生きていて、
なお「恐れない」と言えるのでしょうか。
もし、世界の秩序と安全が崩れ去る中で、
わたしたちには何の助けもなく、
何の導きもないままだとしたら、
わたしたちは荒れ野のただ中で途方に暮れ、
ただ不安と恐れを抱いてさまようだけです。
しかし、荒れ野で揺れ動く地に翻弄されても、
詩編の詩人が「わたしは恐れない」歌うのは、
荒れ野で神の声を聞くからです。
神は荒れ野に住む人々を、
見捨てず、放置せず、
語りかけ、呼びかけ、道を備えてきました。
恐れおののき、破滅の淵に立たされる民に、
神の預言者が遣わされ、
荒れ野に住む人々に神の言葉を告げました。
預言者が人々に告げ知らせてきた神の言葉は、
「悔い改めよ」という言葉であり、
救い主を遣わすという希望の言葉でした。
預言者イザヤは神が救い主を遣わすにあたり、
人々を救い主へと導く、
備えの道を神が用意することを告げました。

 呼びかける声がある。
主のために、荒れ野に道を備え、
わたしたちの神のために、
荒れ地に広い道を通せ。(40:3)

 マルコ福音書はイザヤの預言を、
少し表現を変えて、
いっそう力強い言葉として引用しました。

 荒れ野で叫ぶ者の声がする。
主の道を整え、
その道筋をまっすぐにせよ。

 預言が言おうとしていることは明らかです。
神が人々を荒れ野から救い出すため、
救い主を遣わしてくださるのであり、
主なる救い主へとわたしたちが導かれるように、
道が備えられるということです。
この預言のとおり、
バプテスマのヨハネが主に先立って来て、
荒れ野で苦しむ人々に呼びかけました。
罪を悔い改めて、
来たるべき救い主を待ち望めと。
罪を悔い改めるということの意味は、
この世界が荒れ野であることを悟り、
荒れ野が自分の永住の地ではないことを信じて、
荒れ野を導いてくださる救い主に従って、
この世を旅する者となることです。
人はだれも、
この世界の現実が当たり前だと思っていて、
この世界の姿を普通のことと思い込み、
荒れ野だとは考えません。
だが、わたしたちはこの世界が荒れ野だと、
いろいろな方法で知らされ、実感させられます。
苦難や試練、不義や不正などに遭うとき、
この世界が荒れ野であることを実感します。
平穏だと思っていた日々が壊される時、
理不尽な苦しみや不正義にさらされる時、
病に倒れ、苦難を負わされる時、
その時、わたしたちは、
この世界が荒れ野であり、
わたしたちにとって、
永住の地ではないことを実感させられます。
この世界はわたしたちにとって、
旅をしてゆくところです。
だが、荒れ野を旅するのに、
もし導き手がいないとしたら、
わたしたちはどこに向かうべきか、
どのようにこの世を旅するべきか知らず、
途方に暮れることでしょう。
わたしたちの旅を導く方と出会うのは、
まさに、そのような時です。
この世の苛酷で不当な現実が、
わたしたちにとっては、しばしば、
救い主へと導かれる備えとなります。
その時、救い主が必要であることを知り、
わたしたちが神の声に心を向け、
耳を傾けるならば、
わたしたちは救い主を見出して、
救い主に導かれて世を旅する者とされ、
救い主キリストに従って歩むものとなります。
この世が永住の地ではないことを確信して、
天の故郷を目指して旅する神の民。
それが、荒れ野で神の声を聞く、
わたしたちの正体に他なりません。



(以上)


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