<三位一体第10主日>

2019年8月25日()   礼拝説教


「神の愛する御子がなぜ荒れ野に投げ出されたか」  (石田 学牧師)
 説教は音声付きです。

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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) イザヤ書11:6−11

6 狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く。
7 牛も熊も共に草をはみ
その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。
9 わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように
大地は主を知る知識で満たされる。
10 その日が来れば
エッサイの根は
すべての民の旗印として立てられ
国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。
◆帰還と救い
11 その日が来れば、主は再び御手を下して
御自分の民の残りの者を買い戻される。彼らはアッシリア、エジプト、上エジプト、クシュ、エラム、シンアル、ハマト、海沿いの国々などに残されていた者である。


2) 新約聖書
マルコによる福音書1:12−13


◆誘惑を受ける

12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年8月25日

「神の愛する御子がなぜ荒れ野に投げ出されたか」

マルコによる福音書のきょうの箇所。
皆さん、この場面を想像してみてください。
どんな情景を思い描きますか。
場所は荒れ野。
イエス様はご自分の意志で来たのではなく、
いやも応もなく、荒れ野に放り出されたのです。
日本語はこんな風に訳しています。
「霊が荒れ野に送り出した」。
実際はそんな丁重なものではありません。
直訳すると、
「ただちに霊が彼を荒れ野に放り投げた」。
ヨハネからバプテスマを受け、
水からあがると天が裂けて聖霊が降り、
天から父なる神の声が聞こえます。
「あなたはわたしの愛する子」。
イエス様に降った聖霊、
その同じ霊が愛する子を荒れ野に放り出すのです。
なんで荒れ野?
愛する子なら、もっと良い場所を選べばよいのに。
荒れ野は恐ろしい場所です。
そこは野獣の住む領域。
毒蛇やサソリがうごめく世界。
盗賊や犯罪者の隠れ場所。
悪霊や物の怪の住処。
そこに放り出されたイエス様には、
サタンが近づいてきて脅し、誘惑します。
四十日間ずっと絶え間なく。
そこにいるのはイエス様とサタンだけ?
いいえ。
野獣と天使もいます。
登場するのは、イエス様とサタン、野獣と天使。
そこに見えるのはどんな情景でしょうか。
恐ろしくぶきみな風景を思い描きますか?
サタンが迫り、野獣がすきをうかがって、
うごめいている風景が見えるでしょうか。
それとも、サタンの誘惑はあっても、
野獣が寄り添い、
天使が守護している、
イザヤ書11章のような風景が見えるでしょうか。
どちらなのか、マルコは教えてくれません。
だから、古代から現代に至るまで、
この場面の解釈はさまざまでした。
イエス様が投げ出された荒れ野が、
恐ろしい危険に満ちた場所なのか、
それとも獣が共に伏して宿り、
天使が寄り添って仕える、
牧歌的で心温まる場所なのか。
わたしにはどちらなのかわかりません。
どちらであってほしいと願うか、
願望はあっても本当はわかりません。
たぶん、どちらが正しいということはなく、
この四十日間のイエス様の風景は、
わたしたちの心を映したものになるでしょう。
それにしても不思議なのは、
なぜイエス様が荒れ野に投げ出されたかです。
ヨハネからバプテスマを受けると、
天が裂けてイエス様に聖霊が降り、
天から神の声が呼びかけます。
「あなたはわたしの愛する子」。
いったいなぜ、
その直後に荒れ野に投げ出されたのでしょうか。
なぜ優雅なリゾートではなく、
快適な環境の整った屋敷の中庭ではなく、
なぜ荒れ野に、
しかも本人の意志と無関係に放り出されたのか。
そこに重大な意味があるように思います。
マルコ福音書は、その最初の章で、
わたしたちに重要なことを告げ知らせています。
イエス様の体験が、
実はわたしたちの体験でもあると。
イエス様の生涯は、
イエス様を信じる者の生涯でもあります。
このことをパウロはこう表現しました。
「わたしたちはキリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きることになると信じる」。
(ローマ6:8)
イエス様は人々に教えを聞かせるため、
世に来られたのではありません。
奇跡を見せて人々を驚かせるためではなく、
癒しをおこなって人々を魅了するためでもなく、
もちろん、そうしたこともなさいましたが、
イエス様が来られた真の目的は、
わたしたちをあがない、
罪を赦し、
信仰により聖霊のきずなによって、
わたしたちをご自分と一つに結び合わせて、
わたしたちをイエス様と共に歩ませ、
神の子とするために来られたのでした。
イエス様の体験はわたしたちの体験となります。
そのことをマルコ福音書は、
その最初の章でわたしたちに示しています。
イエス様と同じようにバプテスマを受け、
イエス様と同じようにわたしたちに聖霊が降り、
イエス様と共に、天の父なる神によって、
「あなたはわたしの愛する子」と呼ばれ、
神の子として受け入れられています。
だからわたしたちは神に向かって祈ります。
「わたしたちの天の父なる神さま」と。
聖霊がわたしたちとイエス・キリストを結び、
キリストと天の父なる神の関係の中に、
わたしたちもキリストと共に入れられています。
だが、イエス様はわたしたちのために来られました。
だから、神の愛する御子であるイエス様は、
安全で何一つ問題の生じない過保護世界に移されず、
快適な楽園に放り込まれはしませんでした。
イエス様に降った神の霊は、
ただちにイエス様を荒れ野に放り出しました。
「送り出した」ではなく、
原語では「放り出した」です。
神の愛する子の生きる世界は、
否応なしに投げ出された荒れ野。
そこが、イエス様と同じように、
わたしたちの放り出されている荒れ野です。
わたしたちも自分で選んだわけでなく、
それぞれの生きる場所に放り出されました。
そこは間違いなく楽園でも快適でもなく、
荒れ野です。
そこにある問題や困難や危険は異なっても、
わたしたちは否応なしに、
苦労し、重荷を負い、痛み、病を負い、
荒れ野で生きています。
過ごしやすい荒れ野かもしれませんが、
苛酷な旅になるかもしれません。
そこは間違いなく、
サタンの誘惑と試練が絶えず降りかかる、
問題と困難と危険の満ちた荒れ野です。
でも、もう一度マルコ福音書に戻りましょう。
マルコ福音書はイエス様の荒れ野での体験を、
とても不思議な仕方で描写しました。
「その間、イエス様は野獣といっしょにおられ、
天使たちがイエス様に仕えていた」。
このイエス様の体験と同じことを、
もしわたしたちも体験するのであるなら、
わたしたちもまた、この荒れ野で、
「野獣といっしょにいて、
天使たちがわたしを守り養ってくださっている」。
たしかにこれが、
荒れ野を旅しているわたしたちの現実のはずです。
このことをどう理解し、
どのように受け止めるのかは、
わたしにもはっきりとはわかりません。
ただ、確かなことがあります。
この世界ではサタンの誘惑が続くとしても、
敵ばかり、危険ばかりの悪い世界ではなく、
憩いと安らぎもある世界であり、
なによりも天使による神の慈しみと配慮が、
わたしたちを守り支え、養う仕方で、
わたしたちに注がれているということです。
時として苦難に遭い、
危険と恐れが夜の眠りを妨げるとしても、
本来ならわたしたちを襲い噛みつき害を加える、
荒れ野の野獣さえも、
わたしたちに寄り添い共にいる、
そんな体験をする世界です。
たとえ荒れ野で試練や苦難に遭うとしても、
神に見捨てられたなどという、
魂の絶望に落とし込まれることなく、
天から遣わされる天使らによって、
神の愛と慈しみが最期まであることを、
わたしたちが実感させられる、
そういう荒れ野でわたしたちは、
主イエス・キリストと共に生きています。



(以上)


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