<三位一体第11主日>

2019年9月1日()   礼拝説教


「どう生きるか、それが福音」  (石田 学牧師)
 説教は音声付きです。

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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) イザヤ書42:5−7

5 主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ
地とそこに生ずるものを繰り広げ
その上に住む人々に息を与え
そこを歩く者に霊を与えられる。
6 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び
あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として
あなたを形づくり、あなたを立てた。
7 見ることのできない目を開き
捕らわれ人をその枷から
闇に住む人をその牢獄から救い出すために。


2) 新約聖書
マルコによる福音書1:14−15


◆ガリラヤで伝道を始める

14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年9月1日

「どう生きるか、それが福音」

きょうの福音書は、
イエス様が語られた、
最初の福音宣教の言葉です。
「ヨハネが捕らえられた後」。
マルコ福音書は、
イエス様の活動の時期をそう告げます。
来たるべき救い主を人々に待ち望ませ、
救い主を迎えるための、
罪の悔い改めの洗礼を授けていたのが、
バプテスマのヨハネでした。
ところが、ヨハネは、
ガリラヤ地方の領主であり、
父ヘロデ大王と同じヘロデの名を持つ、
ヘロデ・アンティパスという地方領主に逮捕され、
投獄されてしまいました。
ヨハネがヘロデの不倫をとがめたからです。
やがてヨハネはこのヘロデによって、
獄中で処刑されることになります。
ヘロデの傲慢とヨハネの受難は、
この世界がどのような現実にあるかを、
わたしたちに教えてくれます。
悪が栄え、正しい者が苦難を受ける。
そのようなことが現実に起きる世界です。
こうして、救い主イエス様を指し示した、
バプテスマのヨハネは、
不当な逮捕によって表舞台から退き、
その後にイエス様が活動を始めたのでした。
イエス様はガリラヤに行った。
マルコ福音書はそう告げます。
どうしてガリラヤに行って、
そこで宣教の働きを始めたのでしょうか。
なぜ都のエルサレムではなく、
都会のエリコやエマオやベタニアではなく、
北の田舎、辺境の地ガリラヤだったのか。
その理由をマルコは告げていません。
ただ、「イエスはガリラヤに行き」という言葉は、
はっきりとしたイエス様の意志を示します。
イエス様は自覚して、意識的に、
ガリラヤを福音宣教の最初の地に選び、
そこで語り始めたのです。
なぜガリラヤか。
マルコは理由を告げませんが、
わたしたちは充分に推測できます。
ガリラヤは都の人から見れば、
田舎の鈍臭い地方、
そこから何も良いものの出て来ない、
つまらない場所、
低く見下され、差別されていた地域。
イエス様はその地に住む、
低くされている人々、弱い人々、
苦しみの中にある人々のところに、
まず始めに行かれ、
彼らに最初の福音の言葉を語ることで、
救いがどのような人々のためのものかを、
この振る舞いによって表されたのでした。
イエス様による、最初の福音宣教の言葉。
それはこのような宣言でした。

 時は満ちた。
神の国は近づいた。
悔い改めよ。
福音を信ぜよ。

 この、短い、四つの動詞から成る宣言。
しかし、皆さんはこの言葉の意味が、
すぐにわかりましたか?
イエス様が何を告げようとしているのか、
皆さまはすぐ理解できたでしょうか。
難しくてよくわからない。
それが実感であったかと思います。
これまで、実に多くの聖書学者、
また神学者たちが、
この言葉を説明しようとし、
いろいろな解釈、解説をしてきました。
たしかにすぐわかるとは言えません。
だが、たしかなことが一つあります。
この言葉が告げられたなら、
わたしたちはじっとしては居られなくなり、
そわそわして立ち上がりたくなるでしょう。
このイエス様の言葉はわたしたちに、
「さあ、今こそその時が来た」、
そのように呼びかけるからです。
そしてこの呼びかけの後には、
たいていの場合、
「さあ、立ち上がれ!」と続くものです。
今、いったいどういう時が近づいているのか、
何が迫っているのか。
その答えを、イエス様は明らかにしました。
「神の国は近づいた」からだと。
なんという驚きの宣言でしょうか。
アイドルがやってきたとか、
消費税10%が近づいたとか、
そんなちょっとした変化の告知ではありません。
世の中が少し変わるという程度のこととも違います。
神の国は、この世の国とは異質です。
神の国は今の現実の世界とはまったく異なります。
神の国は近づいたという宣言は、
神の支配が始まろうとしているという宣言です。
神の国が現実となる時が近づいている。
イエス様はそのことを宣言したのでした。
神の国の支配が始まるという宣言は、
この世界が神の国になるという意味ではありません。
そうではなく、
神の支配を人々が本気で望むようになり、
心から神の支配の実現を求めるようになる、
そういう意味です。
今のこの世界の在り方で、
良い目を見ている人や、
成功者となり繁栄している人は、
今の世界のままが良いに決まっています。
この世界で力と富を得て満足している人は、
この世界の今の在り方をもっと押し進めて、
もっと多くを手に入れようとするでしょう。
そういう人にとっては、
「神の国が近づいた」という宣言は、
ぜったいに聞きたくない、
そんなことになってほしくない、
嫌な言葉に違いありません。
だが、今のこの世界が不正義に満ち、
不公平で不平等な世界だと実感する人や、
この世界は無慈悲で冷酷な世界だと感じる人、
この世界は悪が力を振るい、不正が勝利し、
弱い者、小さな者が苦しみ、
正しい者が苦難にあうことを知る人、
この世界でつらい目に遭っている人には、
神の国は近づいたという宣言は、
励ましと勇気を与えられる言葉、
喜びと希望の言葉となり、
神の国の現実がこの世界に現れることを、
心から願い、祈り、求めることでしょう。
そういう人たちは、
預言者の時代から聖書が告げ知らせてきた、
神の国の夢、神の国の幻、
神の国では現実であるはずの在り方を、
心から願い、祈り、求めることでしょう。
神の国での現実とはどんなことでしょうか。
それは神の愛と憐れみが満ちていること、
義と公平が行き渡っていること、
平和が川となってすべてをうるおし、
弱い者、小さな者が
強い者、大きな者と共に生きる世界です。
「今ついにその時が来ている、
神の国が近づいている」。
イエス様はそう宣言なさいました。
この宣言を聞いて、
わたしもそのような神の国に入りたい、
神の国の民としてもらいたいと願い、
ここに望みがあることを信じる人にとって、
尋ねたい疑問はただ一つ。
いったいどうしたら、
神の国に入ることができるのか。
それだけが知りたいことです。
莫大な入国費を払えば入れるでしょうか。
善行をたくさん積み重ねてでしょうか。
厳しい修行を経てでしょうか。
神や神の国について学ぶことによってでしょうか。
イエス様が命じたことは、たった二つ。
悔い改めよ。
福音を信ぜよ。
この二つだけでした。
悔い改めよ。
それは神の方に向き直れという方向転換です。
人は自分の欲しいもの、必要と思うものに向き、
それらを見つめ、恋い焦がれ、欲を抱き、
それらを手に入れようとひたすら願います。
どんなものに向いて生きているのか。
生きる向きが問題です。
安定した収入の方を向いているのか?
社会的な立場や地位を見据えているのか?
快適な生活?
自分の生きがい?
それらのものは、たぶん良いものです。
しかし、それらだけに目を向けているとき、
わたしたちは神を忘れ去り、
神の約束、神の祝福、神の栄光が、
目に入らなくなってしまいます。
悔い改めとは、
神へと向き直り、
神にしっかりと目を向け、
神に望みを置く生き方に変わることです。
福音を信ぜよ。
それはわたしが救われるとは、
いったいどういうことかを知ることです。
金がわたしたちを救うのか。
世の成功が救いとなるのか。
健康、長生き、豊かさが救いなのか。
そうではなく、
わたしの救いはキリストを通して与えられる、
神の国と永遠の命だと信じて、
信仰によってイエス様と共に、
この世を生きることです。
ようするに、どう生きるのか、それが福音です。
イエス様が歩んだように歩み、
イエス様が願いとしたことを願い、
イエス様が憐れんだように憐れみ、
イエス様が神と人を愛されたように愛し、
イエス様と共に生涯の旅を歩み、
イエス様と共に死に、
だからこそ、
イエス様と共によみがえらされる。
そのように生きること。
それが福音、
すなわちわたしたちにとっての、

良い知らせです。



(以上)


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