<三位一体第12主日>

2019年9月8日()   礼拝説教


「不思議なことをなさるキリスト」  (石田 学牧師)
 説教は音声付きです。

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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 列王記上19:19−21

19 エリヤはそこをたち、十二軛の牛を前に行かせて畑を耕しているシャファトの子エリシャに出会った。エリシャは、その十二番目の牛と共にいた。エリヤはそのそばを通り過ぎるとき、自分の外套を彼に投げかけた。
20 エリシャは牛を捨てて、エリヤの後を追い、「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」と言った。エリヤは答えた。「行って来なさい。わたしがあなたに何をしたというのか」と。
21 エリシャはエリヤを残して帰ると、一軛の牛を取って屠り、牛の装具を燃やしてその肉を煮、人々に振る舞って食べさせた。それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕えた。


2) 新約聖書
マルコによる福音書1:16−20


◆四人の漁師を弟子にする

16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
18 二人はすぐに網を捨てて従った。
19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。

(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年9月8日

「不思議なことをなさるキリスト」

イエス様はガリラヤに行き、
その地で福音を宣べ伝えました。
本格的な活動は、
ガリラヤ湖のほとりで始まりました。
湖のほとりを歩いていたイエス様は、
二組の兄弟を目にします。
二組とも、漁師の兄弟でした。
一組はシモンとアンデレ。
シモンは後にイエス様によって、
ペトロと名付けられることになります。
イエス様が声をかけたとき、
シモンとアンデレは漁の最中でした。
もう一組はヤコブとヨハネ。
イエス様が声をかけたとき、
彼らは漁を終えて、
岸辺で網の手入れをしているところでした。
最初に出会ったのはシモンとアンデレ。
岸からそれほど離れてはいなかったのでしょう。
イエス様が岸辺から声をかけます。

 わたしについて来なさい。
人間をとる漁師にしよう。

 すると二人は漁の道具を片づける間もなく、
イエス様に従うことにしました。
「人間をとる漁師にしよう」とは、
なんとも面白い物言いです。
イエス様はきっと、
預言者エレミヤの言葉をもじって、
このように言われたのでしょう。
エレミヤ書にはこうありますから。

 見よ、わたしは多くの漁師を遣わして、
彼らを釣り上げさせる、と主は言われる。
(16:16)

 次に出会ったのはヤコブとヨハネ。
彼らにもイエス様は声をかけます。
どんな言葉で呼びかけたのか、
マルコは教えてくれません。
違う言葉だったら書いたでしょうから、
たぶん同じ言葉だったのでしょう。
「わたしについて来なさい」と。
イエス様が直接面と向き合って、
誰かに呼びかけた第一声が、
この呼びかけでした。
「わたしについて来なさい」。
わたしたちは時々、疑問に思います。
イエス・キリストって誰?
この問いに対するイエス様ご自身による、
もっとも明確な答えが、
この言葉の中にあると思います。
イエス・キリストは、
わたしたちを選び、
わたしたちに呼びかけて召し出す方です。
「わたしについて来なさい」と。
この言葉を最初に告げられる栄誉を受けたのは、
ガリラヤ湖の漁師たちでした。
最初の弟子たちの誕生です。
でも、なぜガリラヤ湖の漁師だったのでしょう。
どうしてイエス様は彼らを選んだのでしょう。
朝、湖のほとりをぶらぶらしていたら、
たまたま出会ったのがこの四人なので、
偶然の出会いで彼らに声をかけたのでしょうか。
たぶんそうではないでしょう。
なぜなら、イエス様は明確な意志をもって、
ガリラヤへと行かれたからです。
ガリラヤ湖を歩いていたのも、
ただのぶらぶら歩きではなかったと思います。
ガリラヤ湖の漁師四人・・
それがイエス様の賢い選択なのでしょうか。
最初に弟子にするのなら、
もっと優れた人材の方がよかったのでは?
あるいは政府の高官を弟子にすれば、
いろいろ有利で便宜も図ってもらえたでしょう。
でも、そういう人を選びたかったのなら、
イエス様は田舎のガリラヤになど行かず、
都のエルサレムに行くべきでした。
イエス様がなぜガリラヤに行き、
どうして湖のほとりを歩いて、
なんで漁師たちを選んだのでしょう。
不思議なことをなさる方です。
ただ、はっきりとわかる、
注目すべきことが一つあります。
それは、シモンやアンデレ、
ヤコブやヨハネがイエス様を選んだのではなく、
イエス様が、彼らを選んだということです。
四人の漁師たちはイエス様に選ばれたのでした。
なぜイエス様は彼らをお選びになったのか、
その理由はイエス様の不思議であって、
わたしたちにはわからないことです。
四人の弟子たちと同じように、
わたしたちもイエス様と出会い、
イエス様に呼びかけられます。
もちろん、わたしたちは直接イエス様に会わず、
直接声を掛けられることもありません。
だが、イエス様を信じるということは、
霊において、魂の内面において、
イエス・キリストによって、
「わたしについて来なさい」と呼びかけられ、
その呼びかけに応えて、
わたしたちがイエス様について行くことです。
なぜわたしがイエス様と出会い、
イエス様に選ばれて呼びかけられるのか。
その理由はわかりません。
ところが、わたしたちはこの不思議を、
自分たちの理屈であれこれ考えてしまいます。
「なんでわたしに?」と疑問を抱き、
「わたしなんて」と自分を否定し、
呼びかけるイエス様を否定してしまいます。
あるいは、
「ついて来なさい」と呼ばれている、
そう感じているにもかかわらず、
ついて行くのをためらうことがあります。
イエス様について行ったなら、
どんな不都合が生じるだろうか、
どんな面倒が起きるだろうか、
どんな心配があり得るだろうか、
そのようなことをあれこれ考えて、
考えて、考えすぎて、
結局、イエス様について行く一歩を踏み出さず、
それきりで終わってしまうことが起きます。
イエス様の召し、イエス様の選びは、
理由も根拠も資格も何もわからない、
不思議なことをなさるイエス様の選び、
そのように受け止めるしかないことです。
どういう人が選ばれるのかという法則はなく、
なにか共通の資格のようなものもありません。
文字通り、
「神さまの不思議な導きにより」としか、
他に言いようのないことです。
皆さんもご自分がどのようにイエス様と出会い、
イエス様に選ばれたのか、
不思議に思われることでしょう。
わたしは教会の牧師ですから、
皆さまそれぞれのイエス様との出会いが、
どんなに不思議で驚くべきことか、
実感させられています。
皆さんの誰ひとりとして、
皆さんの立派な成績や能力や才能や、
皆さんの社会的地位や名声や評判によって、
イエス様に選ばれた方はおられません。
なんでわたしが?
その疑問は無くしてはいけない疑問です。
キリストは人知を超えた、
不思議なことをなさる方だということの、
わたしたち自身の内にある証言ですから。
イエス様と出会うまでの道のりは、
人それぞれに異なります。
しかし、例外なく疑いようもなく、
そこには不思議な導きがあります。
神さまを信じる人のもとに生まれた人、
神さまを信じる人とすてきな出会いをした人、
友だちによって導かれた人、
苦難や重荷のためにイエス様と出会った人、
死の恐れがイエス様を見出す機会となった人、
ほんとうにそれぞれ、
イエス様との出会いは人によって異なります。
だが、確かなことが一つ。
出会うイエス様はわたしたちを見て、
こう呼びかける方だということです。
「わたしについて来なさい」。
もちろん、現代のわたしたちは、
直接イエス様と顔を合わせるわけではなく、
その声を直接耳にすることはありません。
だが、イエス様は出会うわたしたちに、
霊的な意味において、
わたしたちの魂の内に呼びかける仕方で、
今もわたしたちに呼びかけられます。
「わたしについて来なさい」と。
その時、わたしたちはあれこれ、
ごちゃごちゃ考えて、
時間ばかり稼いでいても、
何も起きず、何も始まりません。
ペトロやアンデレ、
ヤコブやヨハネがしたように、
明日のことは思い煩わず、
すぐに従うことが求められていることです。
実際、選択肢は二つだけなのです。
ついて行くのか、ついて行かないのか。
「わたしについて来なさい」。
この呼びかけはとても意味深い言葉です。
わたしたちは自分で救いの道を拓くのではなく、
イエス様が歩まれ、イエス様が拓かれた、
その道を後についてゆくということですから。
信仰とは、
イエス様のあとについて行くことです。
クリスチャンになるということは、
イエス様のあとについて歩む者とされることです。
イエス様の歩まれた道はわかっています。
それは、神と人を愛する道。
憐れみ深く、正義と公平を願い求める道。
神に感謝と賛美を捧げて歩む道です。
イエス様はわたしたちに先立ち、
十字架を担って歩まれ、
死なれました。
イエス様は死んで終わらず、
三日目に死からよみがえられました。
そして天に昇り、永遠の命の主として、
今も天の御国におられます。
これがイエス・キリストの歩まれた道です。
その主の歩まれた道を、
わたしたちは主イエスについて行きます。
だからわたしたちは主が先立って歩まれた、
天の御国と永遠の命への道を、
わたしたち自身の道として、
主に従って歩んでゆきます。
イエス様について行きさえすればよい。
そう信じてこの世の旅を、
主についてゆく旅として歩みましょう。

イエス様のおられる天の故郷に着く時まで。



(以上)


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