<三位一体第13主日>

2019年9月15日()   礼拝説教


「悪霊の働く世界で信仰をもって生きる」  (石田 学牧師)
 説教は音声付きです。

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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) エレミヤ書6:13−16

13 「身分の低い者から高い者に至るまで
皆、利をむさぼり
預言者から祭司に至るまで皆、欺く。
14 彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して
平和がないのに、『平和、平和』と言う。
15 彼らは忌むべきことをして恥をさらした。しかも、恥ずかしいとは思わず
嘲られていることに気づかない。それゆえ、人々が倒れるとき、彼らも倒れ
わたしが彼らを罰するとき
彼らはつまずく」と主は言われる。
16 主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ
どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ。」しかし、彼らは言った。「そこを歩むことをしない」と。



2) 新約聖書
マルコによる福音書1:21−28


◆汚れた霊に取りつかれた男をいやす

21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。
22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年9月15日

「悪霊の働く世界で信仰をもって生きる」

わたしはイスラエル旅行に行ったことがありません。
それほど強く行きたいと思ってはいないのですが、
マルコ福音書の1章を読んでいると、
ガリラヤ湖のほとりを歩いてみたいと思わされます。
この湖の魚はローマでも有名でしたから、
ペトロたちの取った魚も、
塩漬けにされてローマまで運ばれたでしょうか。
わたしは塩漬けよりもフライの方が嬉しいですが。
そんなガリラヤ湖の漁師四人を、
イエス様は最初の弟子にしたのでした。
彼らを後ろに従わせて、
イエス様はカファルナウムという町に来ました。
ガリラヤ湖畔の町です。
たぶんその時代、
ガリラヤ湖の一帯では、
カファルナウムが一番大きな町でした。
「日曜日は教会へ」という宣伝がありますが、
イエス様の時代は、
「安息日は会堂へ」だったでしょう。
ユダヤ教の安息日、つまり土曜日には、
イエス様も礼拝を捧げるために、
カファルナウムの会堂にやって来ました。
ユダヤでは、ある決まりがあります。
子どもたちの信仰教育をしっかりとおこない、
おとなになる儀式を迎える時には、
ヘブライ語の聖書を読み、
教えを語ることができるようになります。
ですから、誰でも教えを語ることができます。
きっと、会堂長が言うのでしょう。
「どなたか教えを語りますか」。
すると誰かが立ち上がって、
聖書を読み、その言葉に基づいて教えます。
よそから来たお客さまは大歓迎。
はじめての人の教えを聴くのは楽しみです。
イエス様も会堂長に促されたのでしょう。
「何か教えを語ってください」。
そこでイエス様は、会堂で教え始められました。
マルコはイエス様の教えを聴いた人々の反応を、
こんな風に描写しています。

 人々はその教えに驚いた。
律法学者のようにではなく、
権威ある者としてお教えになったからである。

 なんだか律法学者が見下されているようです。
でも、実際にはそんなことはありませんでした。
律法学者は、先生のもとで何年も学び、
充分な知識と能力が身に付いたと判断されると、
先生がその人の上に手を置く按手の儀式を受けて、
一人前の律法学者として巣立ちました。
長い年月の学びと訓練が必要でした。
そんな律法学者はどのように教えたのでしょうか。
権威ある者として教えなかったのでしょうか。
はい。
律法学者は自分自身の権威を掲げることをせず、
自分の確信に立って教えるのではなく、
代々の先生から鎖のように受け継いできた、
知識と伝承の権威に依存して教えたのでした。
「◎○先生はこう言う」
「△▽先生はこう教える」
何百年にもおよぶ律法学者たちの解釈を、
ぜんぶ覚え込んでいるのはすごいことです。
「わたしではなく高名な先生は、
そう言っていることですが」。
これが律法学者の教え方であり、
こういう言い方が当然のこととされていました。
その結果、どうなったでしょうか。
律法学者は自らの言葉に、
自分で責任を負うことをしませんでした。
律法学者は、解説はするが救いは与えず、
裁くけれども癒しと希望は与えませんでした。
イエス様は正反対。
イエス様が人々を教えたのは、
解説を聞かせるのが目的ではなく、
罪を指摘して裁きを下すことでもありません。
イエス様の教えは、
人々に救いをもたらし、
癒しと希望を人々に与えるためでした。
律法学者の教えを聞く人々は、
きのうまでと同じ生活をするために、
律法学者に教わりました。
しかし、イエス様の教えを聞く人々は、
きのうまでと同じではいられません。
神の救いが告げ知らされ、
病が癒され、
天の国と永遠の命の希望が語られるからです。
カファルナウムの会堂で、
イエス様はそういう教えを語りました。
だから人々は驚かされたのでした。
その会堂に、悪霊に取り憑かれた男がいました。
ところが、誰もなにもせず、
誰ひとりとして驚きも騒ぎもしません。
そこに悪霊がいるのに、不思議です。
この男が悪霊に取り憑かれていることに、
誰ひとり気付かないのでしょうか。
悪霊といっしょにいることに、
すっかり慣れっこになっていたのでしょうか。
この会堂では毎週安息日毎に、
律法学者が教えていたはずです。
でも、その教えを聞いた悪霊憑きの男は、
叫びも騒ぎもしませんでした。
人々は悪霊の存在に無関心で、
そこにいた律法学者も何もしませんでした。
悪霊が働く世界であることに、
人々は何も違和感を覚えず、
問題も感じなかったかのようです。
悪霊がいることが普通になっていました。
だから、その日もいつも通りでした。
悪霊がいても、誰も不思議に思わず、
問題も違和感も感じてはいませんでした。
イエス様が教えを語りはじめるまでは。
イエス様が教えを語りはじめた時、
ふだんとは違うことが起きました。
悪霊がじっとしていられなくなったのです。
イエス様の言葉は、
悪霊がここに存在することをあぶり出す、
悪霊を追い出す権威を持つ言葉でしたから。
この世界では悪霊が働いている。
そんなことを言うと、
皆さんはわたしの正気を疑うことでしょう。
本当だとしたら異常事態に違いありません。
恐ろしい出来事が起こり、
人々は恐怖に駆られて叫び、
逃げ惑うに違いない。
そう思うことでしょう。
でも、それはわたしたちの勝手な思い込みです。
おそらく、わたしたちは悪霊のイメージを、
怪奇小説やホラー映画を通して植え付けられ、
とても非現実的なもののように考えます。
悪霊は実在するのか?
この問いへの答えは、おそらく、
「はい」であり、
「いいえ」でもあります。
映画などが恐ろしげに描く、
目に見える実体としての悪霊は、
たぶん実在してはいないと思います。
しかし、悪霊が働いていることの結果は、
この世界のいたるところで、
常に現実として起きています。
怒りにかられたドライバーによるあおり運転、
世の中の犠牲にされたと思う人による無差別殺戮、
いじめをしつけやわるふざけと言い訳する人たち、
あふれるヘイトスピーチ、差別、敵意、
異民族への迫害や弾圧、
地球温暖化などないと言い張る政治家や資本家。
悪霊の働きとしか言い様のないことを、
いったいどれだけ数え上げたら終わるでしょうか。
でも、大抵の場合、
そういったことを少しは気に留めるとしても、
多くの人は慣れてしまって、
さほど驚きもせず、
普通の世界だと感じてしまっています。
悪霊とは何かという問いには答えられなくても、
悪霊の働きは何かという問いには答えられます。
愛と慈しみの神、正義と公平の神、平和の神の、
意志と求めに反するあらゆることは、
悪霊の働きではないのでしょうか。
そうであれば、悪霊の働きは世界に満ちています。
愛は歪められて自己愛に変えられています。
憐れみは自己責任によって置きかえられ、
正義は権力者の道具に使われています。
公平は競争社会の中で葬り去られ、
希望は現実主義に飲み込まれてかき消されています。
平和は暴力を使う口実となってしまっています。
これらが悪霊の働きでなくて、
いったい何だというのでしょうか。
恐ろしいことに、
悪霊はわたしたちの精神が生み出し、
この世界にはびこらせているのです。
だが、それ以上に、
真に恐ろしい悪霊の仕業は、
それらが普通のことのように思わされることです。
悪霊の働く世界が、普通の当たり前の世界。
そう人々が思い込んでいるからこそ、
この世界の中に悪霊がいても気付きもしません。
世の中の競争に勝ち抜くことが一番の価値、
親がそう信じて子どもを競争に駆り立て、
それが当然のように思い込まされます。
敵が攻撃してきたら反撃することが必要だから、
憲法を改定し軍事力を高めるべきだ。
そういう主張が普通の世の中になりつつあります。
一番大切なものはお金。
大人も子どももそれが本音での普通の答えです。
今の、この世界のこうした現実は、
はたして本当に「普通」なのでしょうか。
こういう世界で生きることは当然なのでしょうか。
悪霊の働く世界は当たり前なのでしょうか。
イエス様が教えを語り始めると、
悪霊は騒ぎ出します。
「うるさい、だまれ、かまうな、
このままの世界にしておけ」。
イエス様の教えを聞く時、
わたしたちには悪霊の働きが見えてきます。
金が世界と人々の心を牛耳り、
世界の1パーセントの人が富の半分以上を所有し、
莫大なお金を子どもや老人の福祉に使わず、
航空母艦やミサイルや戦闘機につぎ込み、
神の愛と憐れみが軽んじられている、
そうしたことが悪霊の働きであり、
神の前では異常なことなのだとわかります。
その結果、イエス様の教えを聞いて、
その教えを受け入れようと願う人は、
この世の何かを神と崇めることの誤りを知り、
自分自身の罪が赦されることを願い、
神の国と神の義を第一に求め、
天の故郷を目指す旅人の群れに加わりたい、
そう願うようになります。
イエス・キリストを信じるとは、
悪霊ではなく神の意志と御心を信じることです。
信仰をもって生きるということは、
悪霊の民であることから解き放たれ、
悪霊の働く世界が普通だと思い込むことを止めて、
神の民としてこの世界を生きることです。
わたしたちの生きる世界は、
悪霊の働く世界です。
その世界を、わたしたちは、
信仰を抱いて生きています。
だから、わたしたちは悪霊の働きに飲み込まれず、
この世の旅を続けてゆきます。
やがて天の神の国、
悪霊の働きのない、

わたしたちの天の故郷に行き着くまで。



(以上)


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