<三位一体第14主日>

2019年9月22日()   礼拝説教


「荒れ野の中にある神の砦」  (石田 学牧師)
 説教は音声付きです。

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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 列王記下1:29−34

2 アハズヤはサマリアで屋上の部屋の欄干から落ちて病気になり、使者を送り出して、「エクロンの神バアル・ゼブブのところに行き、この病気が治るかどうか尋ねよ」と命じた。
3 一方、主の御使いはティシュベ人エリヤにこう告げた。「立て、上って行ってサマリアの王の使者に会って言え。『あなたたちはエクロンの神バアル・ゼブブに尋ねようとして出かけているが、イスラエルには神がいないとでも言うのか。
4 それゆえ主はこう言われる。あなたは上った寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」エリヤは出て行った。
5 使者たちが帰って来たので、アハズヤは、「お前たちはなぜ帰って来たのか」と尋ねた。
6 彼らは答えた。「一人の人がわたしたちに会いに上って来て、こう言いました。『あなたたちを遣わした王のもとに帰って告げよ。主はこう言われる。あなたはエクロンの神バアル・ゼブブに尋ねようとして人を遣わすが、イスラエルには神がいないとでも言うのか。それゆえ、あなたは上った寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ』と。」
7 アハズヤは、「お前たちに会いに上って来て、そのようなことを告げたのはどんな男か」と彼らに尋ねた。
8 「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」と彼らが答えると、アハズヤは、「それはティシュベ人エリヤだ」と言った。




2) 新約聖書
マルコによる福音書1:29−34


◆多くの病人をいやす

29 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
30 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。
31 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。
32 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。
33 町中の人が、戸口に集まった。
34 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。


(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年9月22日

「荒れ野の中にある神の砦」

きょうは詩編の46篇を交読しました。
このたいへん有名な詩編は、
「神がわたしたちの砦」と歌います。
砦は人々を守るためのものです。
敵が押し寄せてくると、
人々は砦に逃げ込みます。
敵の侵入を防ぎ、
中にいる人々を守るために、
砦は城壁で囲まれています。
イスラエルの都エルサレムは、
堅固な城壁に囲まれた城塞都市でした。
エルサレムは丘の上にある都なので、
下から見上げると、
城壁の高さ・頑強さは、
いっそう際だっていたことと思います。
だが、詩編の詩人がわたしたちの砦と呼び、
感謝と賛美を捧げる理由は、
都が難攻不落で安心だからではありません。
この詩編を注意深く見ると、
不思議なことに気付きます。
詩人は「都はわたしたちの砦」と言わず、
「神はわたしたちの砦」と歌うのです。
神が砦とは、どういうことでしょうか。
試練の時、
敵に攻められる時、
危機の時、
神のもとに逃げ込むという意味です。
たしかに詩人は、
「都は揺らぐことがない」と誇ります。
でもそれは「神がそこにいます」からです。
都エルサレムの堅固さを讃えた歌ではなく、
神が主語なのです。
「神がわたしたちの砦だ」と。
人の造り上げるものは、
それがどれほど壮大で頑丈であっても、
いつか破壊され失われるものです。
都エルサレムは巨大な城壁に囲まれた、
最強の要塞都市でした。
たしかに、詩人は歌います。
「都が揺らぐことはない」と。
それは都が絶対無敵だからではなく、
「神がそこにいます」からです。
イスラエルの人々が神から離れ、
神の御心をおこなわなくなり、
愛も憐れみも慈しみも抱かなくなった時、
神もまた都エルサレムから離れました。
その結果、世界でもっとも強力な砦であった、
要塞都市エルサレムは、
バビロニア帝国によって滅ぼされ、
完全に破壊し尽くされたのでした。
人は自分の手で築き上げたものに頼りますが、
ほんとうにわたしたちを守る砦は、
建物ではなく、頑丈な石垣でもなく、
富でも財産でも業績でもなく、
人の造るどのようなものでもなく、
神です。
神こそがわたしたちの砦です。
詩人は真の支えがどこにあるかを、
このように表現したのでした。

 万軍の主はわたしたちと共にいます。

 主が共におられる。
このことをもっともはっきりと、
誰よりも強く実感したのは、
主の母となられたマリアでありヨセフであり、
バプテスマのヨハネであり、
イエス様の弟子たちであり、
そしてイエス様と出会った人々でした。
神の御子が人となって世に来られ、
イエスと名付けられ、
いまここに共におられるのですから。
イエス様は頑強な要塞都市ではなく、
高い塀に囲まれた豪華な邸宅でもなく、
ガリラヤ湖の漁師であった、
ペトロとアンデレの家に宿りました。
彼らがどんな家に住んでいたのか、
わたしたちは想像するしかありません。
たしかなことは、
彼らの家が豪邸ではなく、
難攻不落の砦でもなかったことです。
ガリラヤ湖の漁師で生計を立てて、
けっして豊かだったとは思えない彼らは、
兄弟で漁をして生活し、
母親といっしょに暮らしていました。
家は質素で貧しい建物だったはずです。
その家にイエス様が来られ、
その家に宿りました。
だから、そこは神の砦となりました。
神がわたしたちの砦であるとすれば、
ペトロたちの質素な家には、
砦である神が宿っているからです。
神の御子キリストのゆえに、
そこは揺らぐことのない砦。
だから人々はそこに集まってきました。
漁師の家が見たいからではなく、
そこに神の御子がおられるからです。
イエス様のもとに集まってきたのは、
どのような人たちだったでしょうか。
マルコ福音書はこう伝えています。
いろいろな病気に苦しむ人や、
悪霊に取り憑かれている人たちだったと。
数日、あるいは一週間で治るような、
簡単な病や悪霊の支配ではなかったでしょう。
人の力がとうてい及ばない悪や、
人間の手を越える災いに苦しむ人々が、
この方こそ神の砦と信じ、
神の癒しと助けを願い求めて、
イエス様のおられる所に来たのでした。
来たのは病人や悪霊に憑かれた人、
その付き添いの人々だけだったでしょうか。
いいえ。
マルコ福音書は、
それだけではなかった事実を伝えています。
「町中の人たちが、戸口に集まった」と。
この、短いけれど示唆に富んだ一文は、
病人や悪霊に憑かれた人たちが大勢来たが、
それ以上に、そうではない人々も、
大勢集まってきたことを伝えています。
町中の人たちというのが、
どのような人たちであったのか、
福音書はそれ以上何も語りません。
だから、集まってきた町中の人々には、
同じ特徴や共通点がなかったと考えるべきです。
文字どおりあらゆる人々が来ました。
その事実が、この表現に込められています。
貧しい人、豊かな人。
大家族の人、孤独な人。
身分の低い人、高い人。
男、女、子ども、老人。
イエス様のもとに来る人々は、
いちばん最初の、ガリラヤ湖畔の漁師の家から、
現代のわたしたちの教会に至るまで、
この同じ特徴を受け継いでいます。
誰も拒まれず、
来ることのできない人は誰もいない、
町中の誰もが来て集うことのできる所。
それがイエス・キリストという、
わたしたちの砦である方のおられる場所です。
キリストのもとに集うのは、
経済力や社会階層などでくくることのできない、
多様で、多彩な人々です。
あらゆる点で異なる人々ですが、
集う全ての人に共通することが一つあります。
それは、この世が楽園ではなく荒れ野であり、
この世にあるいかなるものも、
自分の救いにはならないことを悟り、
金も権力も知識も、富も力も身分も、
苦難の時の助けとはならず、
救いの砦とはならない、
そのことを知っているということです。
神こそが砦であり、荒れ野の中にある助け、
神のおられる所が苦難の時の逃れ場。
そう信じる人が、
わたしたちの砦である神のもとに集うのです。
昔、ガリラヤ湖畔の質素な家に、
主キリストは宿られました。
だから人々はこの粗末な家に集ってきました。
そこが荒れ野の中にある神の砦と信じ、
イエス・キリストの救いと癒し、
そして慰めを受けたかったからです。
その事実は現代も変わりません。
わたしたちは救いの砦である、
わたしたちの主キリストのもとに集っています。
この教会はペトロの家ほど質素でないにしても、
けっして宮殿でも豪華な会堂でもありません。
だが、ここに主キリストがおられるので、
わたしたちはここが神の砦だと信じます。
イエス・キリストの救いと癒しと慰めを、
わたしたちもここで受けるためです。
この世が荒れ野であることは、
時代を越えて不変です。
今、わたしたちが生きているこの世界も、
あいかわらず荒れ野です。
むしろ、時代と共に、
この世はいっそうの荒れ地となり、
苦難と恐れと不安は拡がっています。
わたしたちの主キリストは、
荒れ野の中にいるわたしたちを、
その場にじっとさせたまま、
荒れ野の中の定住者のままで、
癒しと慰めだけ与える方ではありません。
キリストはわたしたちを導く方ですから。
キリストはわたしたちを、
荒れ野での定住生活から呼び出して、
神の永遠の都である天の御国を目指す、
この世を旅する民として呼びだします。
その旅はキリストに導かれ、
キリストが共におられる旅です。
わたしたちはキリストという堅固な砦と共に、
神の都である天の御国を目指す神の民の群れ。
神の砦であるキリストのもとに集い、
共に荒れ野を旅するわたしたちの群れ、

それをわたしたちは教会と呼んでいます。



(以上)


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