<三位一体第14主日>

2019年9月29日()   礼拝説教


「なぜ主イエスは祈ったか」  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) イザヤ書42:5−7

5 主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ
地とそこに生ずるものを繰り広げ
その上に住む人々に息を与え
そこを歩く者に霊を与えられる。
6 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び
あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として
あなたを形づくり、あなたを立てた。
7 見ることのできない目を開き
捕らわれ人をその枷から
闇に住む人をその牢獄から救い出すために。



2) 新約聖書
マルコによる福音書1:35−39


◆巡回して宣教する

35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
36 シモンとその仲間はイエスの後を追い、
37 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。
38 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
39 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。


(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年9月29日

「なぜ主イエスは祈ったか」

朝早く、まだ暗いうちにイエス様は起きて、
人里離れた場所で祈っていた。
マルコ福音書は、そのように、
イエス様の一日の始まりを伝えています。
日本で今頃の季節であれば、
朝の五時頃といったところでしょうか。
でも、このマルコの記述、
皆さんは、何か変だと思いませんか?
わたしはとても不思議に思います。
なぜ主イエスは祈ったのか。
そのことが心にひっかかります。
ご飯の前の感謝なら、
食卓に座って短く祈ればよいでしょう。
試験会場で問題用紙を前にした受験生が、
心を落ち着かせてくださりと祈るのも、
その場でしばし祈れば済むことです。
なぜイエス様は、夜明け前にわざわざ、
人里離れた場所に行って祈ったのでしょう。
考えられる理由は、
誰にも妨げられることなく、
集中して、長い時間祈りたかったからです。
なぜなのでしょう。
なぜ、主イエスは、
夜明け前に起き出して、
わざわざ人里離れた所に行ってまで、
祈る必要があったのか。
それが、わたしには疑問でした。
祈りとは、神に向かって祈るものです。
祈りとは、神に捧げるものです。
そうであるなら、
なぜイエス様は祈る必要があるのでしょう。
イエス様ご自身が神の御子、
つまり神だというのに。
神が神に祈るというのは奇妙に想われます。
父なる神に祈ろうが子なる神に祈ろうが、
神に祈ることに変わりはないでしょう。
神である主イエスが、
どうして神に祈る必要があるのか。
わたしにはそれが疑問でした。
なぜなのかを考えて、
ああ、こういうことなのかと、
一つの答えにたどりつきました。
なぜイエス様が祈ったのか。
それは、イエス様が天を離れて、
地に降って来られたからです。
わたしたちがよく歌う讃美歌291番に、
こんな歌詞があります。

 み神の座を捨て、
人となられた主。

栄光と尊厳に満ちた神の領域である天を離れ、
人となって地にお生まれになった方。
それがイエス・キリストです。
天と地。
どれほど遠く、隔たっていることか!
天が平安と恵みに満ち、
神の栄光が行き渡っているとすれば、
地は不安と悩みに満ち、
罪のもたらす悪の闇が拡がっています。
わたしたちの住む地は、
エデンを追放されたアダムとエヴァ以来、
苦労と悩みの多い、
茨とアザミの生える所です。
地は痛みと悲しみに満ち、
人の欲と思惑が支配する世界です。
天と地の間には深い淵があり、
地にいるわたしたちは、
自分たちの力で天に至ることはできません。
神から遠く隔てられたこの世界だからこそ、
地に住む人は神に祈ります。
地に平和がなく、争いや敵意が満ちるほど、
わたしたちは心から神に祈ります。
天においては現実であるはずの、
平和と正義を与えてくださいと。
憐れみに満ち、わたしたちを愛する神が、
地にある人々を放置するでしょうか。
だからこそ、
天から神が降って来られました。
神の御子が来られた地、この世界は、
天の現実とは程遠い現実が支配する世界です。
だからこそ、主イエスは祈りました。
天とかけ離れた地の現実を神に訴え、
地の悩みと苦しみ、
痛みと苦難を天の神に嘆き、
神の憐れみを地に求め、
人々を救う働きを成し遂げるために。
天と地は断絶したままで、
そこにはなんの繋がりもないのでしょうか。
そうだとすれば、地は地獄です。
だが、そうではありません。
天と地が切り離されていないのは、
たとえ地が人間の罪によって堕落しても、
神の愛と慈しみは地に向けられ、
天から神の御子が地に来られたからです。
天と地が無関係ではないのなら、
いったい何が、天と地をつなぐのでしょうか。
祈りによってです。
だから、地に来られたイエス様は祈りました。
地に住むわたしたちも、
祈りによって天の父と繫がれます。
祈りによって、イエス様は天の父と結ばれ、
父なる神との交わりを生きました。
わたしたちも天から隔てられた地にいます。
だから、わたしたちも天の神に祈ります。
もしわたしたちが祈ることをしないなら、
わたしたちは心を天に向かって上げず、
天の神を思うことも考えることもしなくなり、
天にある平和と恵みを求めないで、
地にあるものだけに心を向けることでしょう。
わたしたちは地に生きている。
その事実こそ、祈りが必要な理由です。
祈りの意味を四つ、考えてみましょう。
第一に、祈りは天の父なる神に心を向けて、
天の神を想うことです。
現代の科学知識は、
世界について多くを解明してきました。
素粒子の極小世界から、
彼方のブラックホールまで、
科学は知識を与えてくれます。
しかし、聖書は科学知識とは別に、
世界についての真理を語っています。
天と地、
神の領域と、この世の領域。
その二つがあるのだと。
どのような科学的探究であれ、
到達できる知識はこの世の領域だけです。
もしわたしたちが天と天の神を想わないなら、
わたしたちは地のことだけに心を向け、
この世の定住者となることでしょう。
地にあることだけを求め、
地にあるものだけを願いとして、
この世のものだけが心を占領することでしょう。
第二に、祈りは地の問題を自覚させます。
わたしたちは地にあるかぎり、
悩み、苦しみ、痛みを受け、
悲しみを体験します。
人の罪が互いを疎外させ、
この世界に敵意と不信、対立と争いを生みます。
それらは地においての現実ですが、
天においてはまったく別の現実があります。
そのことを知り、
かつ、神が憐れみ深いことを信じて、
神に嘆きを告げ、助けを願います。
神は苦難の時の助け、
そこにいまして助けてくださる。
その信仰がわたしたちの祈りを、
単なる嘆きではなく、
神への信頼に高めます。
地の困難、苦難は、現実ですが、
決して永遠に続くものではなく、
神と神の慈しみこそが永遠だからです。
今苦しみの中にあるとすれば、
その苦しみから神が解き放ってくださり、
今嘆いているとすれば、
神が嘆きを喜びに変えてくださる。
祈りはそのことを確信させてくれます。
第三に、祈りは神が救いの主であることを、
わたしたちに思い起こさせてくれます。
たとえ地には、苦難と失意が満ちていても、
神が天の御国を約束してくださっています。
祈りはそのことを魂に確証してくれます。
この世の旅の行き着く所は、
天の御国だということを、
わたしたちは祈りによって日々思い起こします。
第四に、祈りはわたしたちの賛美と感謝です。
そして、おそらく、
神に賛美と感謝を捧げることが、
わたしたちが神に対してなにかできるとすれば、
唯一の価値あるおこないです。
神の恵みを思い起こして神を賛美し、
神に与えられた命を最期まで喜び、
罪が赦されて神の子とされ、
天に国籍を持つ者とされたことを感謝するとき、
わたしたちは自分の欲や願望から自由になり、
神と人を愛することができることでしょう。
地に降って来られた主イエスは、
この地にあって、天を見上げて神に祈り、
天の父なる神と結ばれていることを、
祈りによって思い起こしました。
そうしてこそ、主イエスは、
地で為すべき働きをすることができました。
祈りをとおして、主イエスは使命を自覚し、
励ましを受けて世に出ていかれたのです。

 近くのほかの町や村に行こう。
そこでも、わたしは宣教する。
そのためにわたしは出て来たのである。

 わたしたちも同じです。
わたしたちは地において生きています。
地にあるわたしたちが、
祈りによって神を覚え、
神とのきずなをはっきりと知り、
祈りをとおして神の励ましを受けて、
神の子としてこの地で生きることができます。
神と人を愛し、
憐れみ深くあり、
平和を作ろうと願い、
天の御国を目指して世を旅し、
その途上、神を賛美し感謝を捧げながら、
地上の命を意味ある仕方で、
なすべき務めを果たしながら生きるのです。
ちょうど、主イエスがそうなさったように。



(以上)


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