<三位一体第15主日>

2019年10月6日()   礼拝説教


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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 申命記 7:6-11

6 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。
7 主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。
8 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。
9 あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、
10 御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。主は、御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる。
11 あなたは、今日わたしが、「行え」と命じた戒めと掟と法を守らねばならない。


2) 新約聖書
マルコによる福音書19:28-36


◆エルサレムに迎えられる

28 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。
29 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、
30 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。
31 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」
32 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。
33 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。
34 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。
35 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。
36 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。


(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 摂子師)         2019年10月6日

「主がお入り用なのです」

私はクリスチャンの両親のもとに、
三女として生まれました。
私が生まれた頃、父は結核のため、
自宅と療養所を行ったり来たりしていました。
長女は幼稚園年長さんの時、
突然の病で、アッという間に天に召されました。
そのようなバタバタの中、
今度は私が急性小児腎臓炎を患い、
大学病院に入退院をくり返すことになりました。
運動制限、食事制限があったりの中、
何とか2学期頃から
学校に行く事が出来るようになりました。
それでも、食事は減塩食でしたし、
運動制限もありましたので、
午前中だけ学校に行き、
給食を食べないで、帰宅していました。
学校ではみんなと一緒に遊ぶことができず、
そのために友だちも少なく、
学校ってつまらないなと、
ちょっと淋しかったことを覚えています。
そのような幼少期でしたので、
中学校に行くとき、両親が心配して、
地元のミッションスクールへ進みました。
中学高校の一貫教育でした。
そこで先生や友だちに恵まれ、
とても楽しい学園生活を送ることができました。
高校卒業を控え、進路を決める時期に、
随分悩みました。
その頃、不思議なことがありました。
進路に関して色々悩んでいた頃です。
「神学校に行くように」という、
何かよく分からない、
不思議な感覚に押される気がしました。
自分の思いとは違う、
別の道が示されているような感じでした。
両親も不安だったのか、
親戚の牧師に相談していたようです。
女性の牧師が、いかに大変かと説教されました。
説教と言うより、
私の心が曖昧なのかどうか、
確かめられているようでした。
若かったので心配だったのでしょう。
それでも、教会の礼拝に行ったり、
特別集会に行くたびに、
「主がお入りようなのです」
と言う御言葉が、
わたしの頭からはなれないのです。
私のような者が神様に呼ばれるのでしょうか?
私のような者が牧師になれるのでしょうか?
神様に聞きました。
因に、私は、小学生の頃は、
声も身体も、クラスで一番小さかったのです。
昔の写真を見ると、
必ず石のようなものの上に立っています。
人と話す事が苦手で、
「うん」と「はい」しか言わない子でした。
言わないどころか、声を出さずに、
首を縦に振るか、横に振るかでした。
それでも、周りの人達は、
とても優しく接してくれました。
そのような幼少期だった者が、
献身して牧師になりたいと言い出したので、
周りは大変驚きました。
一番驚いたのは本人の私です。
何を考え、何を思ったのか、未だに不思議です。
ただ、頭の中に響く、
「主がお入りようなのです」という、
声のようなものが消えないのです。
それが何なのかどうしても分からないので、
教会の牧師に、聞きにいきました。
すると、その牧師は、
それは神様に呼ばれているのです
と、言います。
それにしても、あまりにも大きな事なので、
両親や、学校のチャプレンに相談しました。
その当時、まだ18歳になったばかりでした。
神学校へはまだ入学許可の出ない年齢です。
地元熊本の短大で幼児教育を学び、
色々な先生のお世話で、
千葉の四街道にあったキリスト教短大を経て、
神学校へと進むことになりました。
20歳の時です。
夫との出会いもその頃です。
不思議な出会いや道が示され、
大きな出来事の連続になりました。
今日の聖書の言葉が始まりです。
この言葉がわたしの心に迫り、
わたしを前に歩ませたのでした。
今日の聖書に出て来るロバは、
大人のロバではなく、子ロバです。
しかも、まだ誰も乗った事のない子ロバです。
ロバはいつの時代にも、
荷物や人を乗せて運ぶ動物として使われました。
人間の生活にかかせない生き物でした。
しかし、このロバは子どものロバでした。
まだだれも乗ったことのない子ロバ。
はたして、経験もない子どものロバが、
荷物や大人を乗せて運ぶ事ができるでしょうか。
だれが考えても難しそうです。
しかし、イエス様を乗せて運んだのは、
この子ロバでした。
なぜこのような子ロバが選ばれたのか、
わたしたちにはわかりません。
しかし、聖書はこう語ります。
「主がお入り用なのです」。
イエス様は不思議をなさる方。
効率や強さを基準になさいません。
ときとして、小さく弱い者をあえて選び、
用いられる方です。
このとき主イエスが必要としたのは、
子ロバでした。
エルサレムに入られるイエス様を乗せる、
いちばん大切な役割が、
この小さなロバに与えられました。
このとき主の栄光を表すために用いられたのは、
子ロバでした。
大きな働きを担う立派なロバではありません。
見るからに人の役に立ちそうな、
力と強さにあふれたロバではありません。
それどころか、
何の役にも立ちそうにない子ロバでした。
私の好きな絵本に、
「ブレーメンの音楽隊」があります。
老いぼれて役に立たなくなったロバが、
家をおいだされるのです。
何匹かの動物が、
年をとって飼い主の役に立たなくなり、
家を追い出されたり、
殺されそうになります。
追い出された動物たちは、
いっしょに旅立ちます。
山奥で一件の家を見つけ、
そこを住処にしていた泥棒を追い出し、
みんなで平和に暮らした。
という童話です。
実に、素晴らしい物語です。
必要とされない者たちが、
協力しあって生きて行く物語ですから。
しかし、この物語とわたしたちとは、
一つだけ決定的な違いがあります。
役に立ちそうもない弱い者。
それは同じですが、
違うのは、そんなわたしたちを、
神様が必要とされるということです。
神さまは、元気で、何でも出来て、
強くて、パーフェクト人間だけを求めません。
小さな者、弱い者を招き、
主のご用のために用いられます。
私たちを通して、
神様の業がなされるのです。
主よ、何故ですか。
主よ、何時までですか。
主よ教えてください。
そう、私たちは、いつも主に問いかけます。
時に、弱い私たちは「主よどうしてですか?」
『主よ何時までですか?』と、
直ぐに回答を求めますが、
神さまの御計画は、私たちには分かりません。
しかし、それでも、私たちは応えましょう。
「主よ、主の御こころがなりますように」と。
私の思いや願いを優先するのではなく、
主の想いがなりますように。
かつてわたしは、
その為にもし私が必要でしたら、
このわたしを用いてください。
そう神様に祈りました。
しかし私は子ロバなので、
大きな荷物は運べないかもしれません。
子ロバなので、弱いかもしれません。
神様に満足していただけるような、
立派な仕事が出来ないかもしれません。
ひ弱で足手まといになるかもしれません。
それでも、
そんなわたしに神さまは声を掛けられました。
「主がお入り用なのです」。
主が用いてくださるのであれば、
全てを主にお捧げします。
私は、そのように神様にお話しました。
確かに、主の御計画は私たちにはわかりません。
でも、私たちは、
神さまに命の息を吹き入れられ、
「生きよ」と呼びかけられて、
この世に生を受けました。
神さまに「生きよ」と言われ、
世に送り出されたのですから、
わたしの命には神さまの目的がある、
そう信じています。
日々新たな思いで、
主の示される道を歩んでゆきたい、
そう願っています。
一人で、闇の中を歩むのは大変なことです。
悪い誘惑が立ちはだかります。
闇の中は真っ暗で危険です。
猛獣が襲いかかるかもしれません。
しかし、闇の世を歩むわたしたちを、
神さまは放置いたしません。
闇を照らす光であるキリストがおられ、
神の守りと導きが共にあります。
ですから、私たちは勇気をもって、
主の道を歩んでいきましょう。
神様は、私たちを
「宝の民と」して選んでくださいました。
辛い時、悲しい時、嬉しい時、
主は、共に居てくださいます。
こんなに心強いことはありません。
神様に、全てをお委ねして、
祈りつつこれからも生きていきたい。

そう願っています。



(以上)


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