<三位一体第15主日>

2019年10月13日()   礼拝説教


「イエス様に願うもっとも大切なことは」  (石田 学牧師)
 説教は音声付きです。

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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 列王記下5:9−14

9 神はソロモンに非常に豊かな知恵と洞察力と海辺の砂浜のような広い心をお授けになった。
10 ソロモンの知恵は東方のどの人の知恵にも、エジプトのいかなる知恵にもまさった。
11 彼はエズラ人エタン、マホルの子らであるヘマン、カルコル、ダルダをしのぐ、最も知恵ある者であり、その名は周りのすべての国々に知れ渡った。
12 彼の語った格言は三千、歌は千五首に達した。
13 彼が樹木について論じれば、レバノン杉から石垣に生えるヒソプにまで及んだ。彼はまた、獣類、鳥類、爬虫類、魚類についても論じた。
14 あらゆる国の民が、ソロモンの知恵をうわさに聞いた全世界の王侯のもとから送られて来て、その知恵に耳を傾けた。


2) 新約聖書
マルコによる福音書1:40−45


◆重い皮膚病を患っている人をいやす

40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、
42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、
44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年10月13日

「イエス様に願うもっとも大切なことは」

マルコによる福音書が伝えるきょうの箇所は、
ほんとうに不思議な出来事です。
重い皮膚病を患っている人が、
イエス様のところに来て、
ひざまずいて懇願するのです。
日本語訳の聖書では主語がないので、
原文にはある主語を入れて、
病を負っているこの人の言葉を、
そのまま訳し直してみましょう。

 あなたがそう望むのであれば、
あなたはわたしを清くすることができます。

 ずいぶんと遠回しな言い方ですが、
この病人の思いが伝わってきます。
「癒されることを切に望むけれども、
イエス様、あなたの御心にゆだねます」。
そう表明しているのです。
その時代、重い皮膚病は汚れと見なされ、
社会からも家族からも切り離されて、
人々との交わりを絶たれました。
病が癒されて清くなったと宣言されるまで、
文字通り見捨てられたのです。
誰からも憐れまれず、
手を差し伸べられず、
人として扱われることなく、
死の時まで孤独なままです。
「清くしてください」という願いが、
どれほど切実であったかがわかります。
その人を深く憐れんだイエス様は、
触れてはならないその人に手を伸ばし、
「清くなれ」と告げて病を癒します。
不思議なのはその後です。
なぜ、イエス様は「厳しく注意して」、
「誰にも言うな」と命じたのでしょうか。
きょうの福音書は1章の最期の箇所です。
これまでの箇所で、
イエス様は宣教の働きを始めた最初から、
宣教し、悪霊を追放し、病を癒しました。
この三つがあたかもセットのようです。
ところが、注意深く1章を読むと、
奇妙なことに気付きます。
1:39でマルコ福音書は、
イエス様の働きをこう伝えるのです。

 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、
宣教し、悪霊を追い出された。

 「おや?」と思いませんか。
マルコは病の癒しをここに含めていません。
どうして、宣教と悪霊追放だけなのか。
なぜ癒しに言及しないのか。
その理由について、わたしの結論はこうです。
イエス様にとって、
病の癒しは大切なおこないではあるものの、
イエス様がこの世に来られたことの、
もっとも重要で本質に関わる、
直接の目的ではなかったからです。
もしイエス様が宣教しないなら、
イエス様が世に来た目的は失われます。
もしイエス様が悪霊を追放しないなら、
この世は神の支配が現実とはならず、
悪霊の支配する世界のままであることになり、
イエス様が救い主であることは無意味です。
だが病の癒しはイエス様による救いにとって、
本質的なものではありません。
すべての人々が、いつかわたしたち自身も、
なんらかの病にかかり、
病が癒されることなくこの命を終えます。
でも、それは救いとは関係がありません。
わたしたちは病に倒れるとしても、
神の救いにあずかっている者として、
天の御国へと帰る時が来るからです。
そうであるなら、なぜ、
イエス様は人々の病を癒したのでしょうか。
癒さなくてもよいはずですから。
イエス様がなぜ癒したのか。
その理由をマルコ福音書はこう伝えています。
「イエスは深く憐れんで」と。
1:38によると、イエス様は自らの意志で、
「ほかの町や村へ行こう」と告げて、
ガリラヤ中で宣教の働きを始めました。
イエス様の目的は病を癒すことではなく、
教えを宣べ伝え、
悪霊を追放することでした。
でも、イエス様は憐れみ深さを抱き、
その憐れみのゆえにイエス様は、
ご自分のもとに来る病人を癒したのでした。
でも、そこには心配もあります。
癒しをおこなうイエス様を見た人々が、
イエス様を癒しの力を持つ霊能者と思い込み、
癒しだけを期待するようになるという心配です。
人々がイエス様に癒しだけしか求めなくなれば、
イエス様が世に来られたほんとうの目的は、
人々から顧みられなくなってしまうでしょう。
だから、イエス様は重い皮膚病を癒された人に、
「だれにも、なにも話すな」と厳しく命じました。
癒しはイエス様の憐れみ深さによる神の奇跡でした。
神の奇跡は、この世に常に開かれています。
神が苦しみの中にある人に目をとめ、
その憐れみ深さのゆえに奇跡をおこなうことは、
時としてあり得ることです。
イエス様による癒しもそうです。
憐れみ深さのゆえに、イエス様は病を癒します。
でも、病の癒しが、
イエス様が世に来られた目的ではありません。
イエス様が来られたのは、
人々に神の愛と憐れみ深さを告げ知らせ、
世の人々の罪を赦して神へと立ち帰らせ、
神の民としての生き方へと招き、
天の国と永遠の命を与えるためでした。
病を癒すことがイエス様の目的ではなく、
それは憐れみ深さゆえのおこないでした。
わたしは小山教会で牧師としての務めを続け、
今年で38年目になります。
この間に、幾人もの方たちが病を負いました。
どれくらい病院を訪れたことでしょうか。
誰についても例外なく、
わたしはその方たちのために神の癒しを祈り、
心から、切に祈り、
神は癒してくださると信じて祈り続けました。
回復して元気になられた方があります。
それがイエス様による癒しの奇跡によるのか、
わたしにはわかりません。
わたしが体験として語ることができるのは、
幾人もの方を天の御国へと送ったことです。
もし癒されることが信仰の目的であったなら、
それらの人々もわたしも自身も、
きっと、みんな信仰を失ったことでしょう。
しかし、わたしははっきりと証言できます。
誰もがみな、癒されることを願い祈るとしても、
癒しが信仰のもっとも大切な目的ではないことを、
誰もが皆、知っていたことを。
皆、この世の旅がいつか終わることをわきまえ、
心を天に向けて病の時を過ごし、
病のためにその身は衰えてゆくとしても、
それとは対照的に、
天の御国への望みを日々強めてゆきました。
そして、この世の旅を最後まで、
神への感謝を抱きながら過ごし、
神の救いにあずかっていることを喜びとして、
皆、天の御国、わたしたちの天の故郷へと、
帰って行かれました。
誰もが例外なく、
すばらしい信仰の証を家族や信仰の仲間に残し、
わたしたちの信仰を強める証人となって、
この世の旅を終えて天に迎え入れられました。
病床に伏せる方と聖書を読み、共に祈り、
帰り際にわたしが繰り返し語るのは、
わたし自身が病床に伏せるときに、
訪ねてくださるであろう牧師から、
わたしも耳にしたい言葉です。
「あと少しのこの世の旅を、
神への感謝を抱いて歩みましょう。
神の恵みがいつもあなたと共にありますように」。
癒しは神さまの奇跡の御わざですから、
起きるかもしれません。
しかし、癒しの奇跡が起きるかどうかは、
ほんとうに重要なことではありません。
わたしたちがイエス様に願うべき、
もっとも大切なことは、
主イエスの死と復活に結ばれて、
この世を神の民らしく歩み、
天の御国を目指すこの世の旅を最期まで歩んで、
わたしたちが天の故郷に帰ることです。



(以上)


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