<三位一体第16主日>

2019年10月20日()   礼拝説教


「はたして神は人を拒むか」  (石田 学牧師)
 説教は音声付きです。

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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) イザヤ書59:1−4

1 主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。
2 むしろお前たちの悪が
神とお前たちとの間を隔て
お前たちの罪が神の御顔を隠させ
お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。
3 お前たちの手は血で、指は悪によって汚れ
唇は偽りを語り、舌は悪事をつぶやく。
4 正しい訴えをする者はなく
真実をもって弁護する者もない。むなしいことを頼みとし、偽って語り
労苦をはらみ、災いを産む。


2) 新約聖書
マルコによる福音書2:1−12


◆中風の人をいやす

1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、
3 四人の男が中風の人を運んで来た。
4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。


(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年10月20日

「はたして神は人を拒むか」

現代人にとって、
きょうの聖書の出来事は不思議です。
中風(全身マヒ)の男が、
四人の男によって運ばれてきました。
この四人が何者なのか、
病人とどんな関係にあるのか、
福音書は何も語ってくれません。
友人なのか、家族なのか、親戚なのか、
何もわかりません。
だが、この四人が病人の仲間なのは確かです。
しかし、四人で床を運んで来てみれば、
イエス様がおられる家は戸口まで人で一杯。
近づくことができないので、
四人は屋根に床を運び上げ、
屋根を破って中風の男を床ごと、
下におられるイエス様の前に下ろしました。
それを見たイエス様は、
目の前の中風の男に向かって、
罪の赦しを宣言します。
「子よ、あなたの罪は赦される」。
マルコはイエス様の様子をこう告げます。
「その人たちの信仰を見て」と。
「その人の」ではなく、
「その人たち」?
ここで「なんと不思議な」と思った人は、
まさしく現代人です。
なぜかというと、
近代以降の人間観で考えているからです。
近代の歴史は、個人の人格性、個人の尊厳、
そして個人の人権が意識され確立されてゆく、
個人主義が発展してゆく歴史でした。
個人としての人間。
それが近代以降の人間理解の特徴です。
ひとり一人が人間としての権利を持ち、
個人が自分の尊厳と自由を持っている。
こうした考えはとても重要ですし、
すばらしいことに違いありません。
しかし、個人主義が強まるにつれて、
失ってしまったものもあります。
それは、人間の連帯性です。
人は独りで生きるのではなく、
共同体の交わりの中で、
人々とのきずなによって生きている。
その理解と体験が弱くなり、
大切にされなくなってきました。
現代は、たとえ家族であっても、
わたしはわたし、
あなたはあなた。
自分という土手を築いて、
自己の中に閉じ込められています。
そうしたくない思いがあればこそ、
多くの人が「きずな」という言葉に惹かれ、
ボランティア活動が盛んになり、
なにがしかの仲間意識を持つ場を、
人々は求めるのかもしれません。
しかし、それでも現代の風潮は、
自己責任という言葉や、
見て見ぬ振りという態度の方に、
いっそう明確に象徴されているようです。
たしかに人はそれぞれ別人格です。
自分の生きる道は自分のものであり、
誰にも手出し口出しはされたくない。
そのように考えることでしょう。
でも、それが結果として、
人と人のつながりを失わせ、
人々が同じ所に大勢いるとしても、
一つの共同体のきずなが弱められ、
孤独な人間の集団にしてしまいます。
わたしたちは神が万物の創造主であり、
人間をお造りになったと信じます。
神は人を独りで生きるようにとは、
創造なさいませんでした。
創世記2:18に記されている神の言葉、
「人が独りでいるのはよくない」
という神の思いは、
人間のあるべき姿を明確に示しています。
人は独りで生きるべきではないし、
独りで生きることはできない存在です。
人は助け合い、補い合い、
支え合う共同体の中で生きることが必要です。
まして、信仰の共同体である教会は、
人間が共に生きるべき存在であることの、
もっとも確かな証であるはずです。
教会はなによりも、
神とのきずなによって互いに結ばれている、
神の民とされた人々の共同体ですから。
聖書は教会を「神の家族」と呼びます。
「聖なる神の民の共同体」と考えます。
「神によって導かれる羊の群れ」、
「キリストの体」、
「神の聖なる神殿」と表現します。
そしてこう言うのです。
あなたがたはその体の部分、
共に神の建物を建て上げているのだと。
機械のような部品とは違います。
個人が全体に飲み込まれるのとも違います。
教会は全体主義とは正反対です。
そこには、あらゆる人が、
その人らしくいることができ、
だれも「おまえはいらない」とは言われず、
だれも神によって拒まれません。
心身が健康な人だけの共同体ではなく、
意志を表明できる人だけの群れではなく、
能力のある人だけの交わりではありません。
教会はいっしょに世を旅する神の民です。
自分で信仰を言い表すことのない、
幼児が共に旅をしています。
自らの意志を示すことのできない障がい者、
意識のない病人、
寝たきりの人、
認知症の高齢者もそこにはいます。
自分でイエス様のところには来られない人、
自分で「信じます」とは言えない人が、
信仰の仲間によって支えられ、
共同体の信仰の中に受け入れられて、
神の民として生きることができる。
それが教会という共同体のきずなです。
中風の男は、自分で信仰を表明しません。
四人の仲間の信仰が、
この人をイエス様のもとに連れてきました。
自分で信仰を言い表さなくても、
イエス様は四人の仲間の信仰ゆえに、
この人を受け入れたのでした。
教会は最初の時から今に至るまで、
このイエス様の姿に倣い、
イエス様のおこないを受け継いできました。
信仰を自分では表明できない幼児、
知的障がいがあって信仰を言い表せない人、
認知症で自分の意志が示せない人に、
教会は洗礼を授けてきました。
その人個人のではなく、
教会という信仰共同体の信仰が、
それらの人々を受け入れ、支えて、
共にこの世の旅を続けるからです。
イエス様は「その人たちの信仰を見て」、
中風の男に向かって宣言しました。
「子よ、あなたの罪は赦される」。
罪が赦されることは、
神がご自分の民として受け入れることです。
イエス様による、
神の民への受け入れ表明に他なりません。
自分ではできないことが、
仲間の信仰によって実現しました。
中風の男が神の群れに加えられた瞬間です。
ところが、
イエス様の言葉を聞いた律法学者が、
心の中で文句を言い、イエス様を非難します。
「これは冒瀆だ、
神だけしか罪を赦すことができないはずだ」。
なんという皮肉でしょうか。
自分では意志表示もできない中風の男が、
イエス様によって受け入れられ、
自他共に聖書の専門家と認める律法学者が、
イエス様によって受け入れられないとは。
いや、イエス様が律法学者を拒んだのではなく、
この学者の方がイエス様を拒んだのでした。
中風の男と、律法学者たち。
とても不思議な対比です。
なぜそんな違いが起きたのでしょうか。
その理由ははっきりしています。
律法の専門家は、
自分が考え出した神を信じていたからです。
神とはこういう方であるはずだ。
わたしはわたしの思い描く神を信じる。
それが律法学者の神でした。
自分で造り上げた神のイメージを、
自分の神として信じる。
たぶん、それは偶像崇拝なのでしょう。
自分の作り出した神のイメージで、
イエス様を計り、裁き、
神の御子を拒んだのでした。
中風の男と、律法学者たち。
彼らを比べてみると、
二つの大切なことがわかります。
一つは、
神はどんな人をも拒むことはないという事実。
もう一つは、
神が人を拒むのではなく、
人の方が神を拒むのだという事実。
ある日本人の神学者は、
自分が将来認知症になって、
信仰のことがわからなくなり、
神さまを理解できなくなることを恐れました。
救いも失われるかと心配したからです。
また、ある人は不安を抱きました。
事故にあって脳にダメージを受け、
自分がクリスチャンだとわからなくなったら、
救われなくなってしまうのかと。
そんなことはありません。
わたしたちの信仰は、
わたしたち個人の意志や理解ではなく、
信仰共同体の中で共有され、
その中に包みこまれて、
わたしたちは生きているからです。
教会という神の民の群れに、
わたしたちは受け入れられています。
そのことを感謝します。
わたしたちが自分で拒まないかぎり、
誰も神から拒まれることのない神の民の群れ。
その群れの中に、
わたしたちは受け入れられています。

それが教会というものです。



(以上)


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