<三位一体第19主日>

2019年10月27日()   礼拝説教


「イエス様は罪びとだけしか招かない?」  (石田 学牧師)
 説教は音声付きです。

説教ヘ   先頭へ   Back to 説教 目次 ページ  サイトマップ 
Top page (index) へ


◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) イザヤ書58:6-14

6 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて 虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
7 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え さまよう貧しい人を家に招き入れ 裸の人に会えば衣を着せかけ 同胞に助けを惜しまないこと。
8 そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し 主の栄光があなたのしんがりを守る。
9 あなたが呼べば主は答え あなたが叫べば 「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと 呪いの言葉をはくことを あなたの中から取り去るなら
10 飢えている人に心を配り 苦しめられている人の願いを満たすなら あなたの光は、闇の中に輝き出で あなたを包む闇は、真昼のようになる。
11 主は常にあなたを導き 焼けつく地であなたの渇きをいやし 骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。
12 人々はあなたの古い廃虚を築き直し あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び 「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。
13 安息日に歩き回ることをやめ わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ 安息日を喜びの日と呼び 主の聖日を尊ぶべき日と呼び これを尊び、旅をするのをやめ したいことをし続けず、取り引きを慎むなら
14 そのとき、あなたは主を喜びとする。わたしはあなたに地の聖なる高台を支配させ 父祖ヤコブの嗣業を享受させる。主の口がこう宣言される。

2) 新約聖書
マルコによる福音書2:13-17


◆中風の人をいやす

13 イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。
14 そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
15 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。
16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
(聖書 終り)


   聖書へ   先頭へ   説教 目次 ページ   サイトマップ   Back to top

  下記説教部分は文字サイズの変更が可能です。(但しブラウザ環境により異なる)
     (初期値は4。 数字が大きいほど文字サイズは大きくなります。 )

  
        〈例〉  サイズ3 ←→  サイズ←→  サイズ5 
        サイズ指定後は、もう一度左クリックして 反転表示の数字を通常表示に戻し確定させて下さい。

  この礼拝での説教を音声により聞くことができます。     時間 :約15分
      
パソコンの環境に合わて再生方法を選択して下さい。
      ダウンロード/直接再生 --->データ  ① WMA形式、1.8MB    ② MP3形式、3.6MB
     【参考】 Windowsでは:主にWMAおよびMP3    MACでは:主にMP3    (例外もあります。)

◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年10月27日

「イエス様は罪びとだけしか招かない?」
イエス様が通りかかった道に、
レビという名の徴税人がおりました。
人々から税金を取り立てる仕事です。
イエス様の時代、ユダヤの徴税人は、
「罪びと」とみなされていました。
なぜかと言うと、
税金を取り立てる人といっても、
現代の税務署職員とは全く違うからです。
ユダヤを占領し支配している、
ローマ帝国に収める税金を集める下請け人。
それがレビの仕事でした。
同じユダヤ人から、
征服者のために税を集めるので、
ユダヤ人仲間から軽蔑され、
罪びととして嫌われていました。
そのレビにイエス様が声をかけます。
「わたしに従いなさい」。
すると、レビはただちに従い、
イエス様の弟子に加わりました。
さっそくイエス様一行を、
自分の家に招待して食事会が始まります。
レビはこの食事会を、
「どなたでもどうぞいらしてください」の、
オープンハウスのように開いたのでしょう。
ですから、レビの仲間や知り合いがいます。
イエス様と弟子たちはもちろん、
イエス様に従って来た人たちがいます。
マルコはその時の様子を、
「実に大勢の人がいて」と伝えています。
罪びとがいて、徴税人仲間もいて、
ファリサイ派の律法学者たちもいました。
罪びととそうでない人の区別も隔てもなく、
みんなが同じように食卓にいます。
ところが、その様子を見た律法学者たちは、
イエス様の弟子たちに文句を言い始めます。
「どうして彼は、
徴税人や罪びとといっしょに
食事をしたりするのか」。
徴税人や罪びとは汚れた人たちです。
きよく正しい人とは、
いっしょに食卓につくことは許されません。
同じテーブルに着く資格はないのです。
正しい人に汚れが移りますから。
律法学者の文句を聞いたイエス様は、
彼らに答えます。
それは、なんと最高に痛快な答えでしょうか。
 

医者を必要とするのは、
 丈夫な人ではなく病人である。
 わたしが来たのは、
 正しい人を招くためではなく、
 罪びとを招くためである。

自分が正しいと信じている律法学者は、
この言葉をどう受け止めたでしょうか。
最初の半分は、たぶんその通りです。
たしかに、病人であるよりは、
丈夫な人でいられる方が良いでしょう。
だから、医者を必要としないのは、
とても嬉しいことです。
でも、この言葉の後半は?
イエス様の場合はどうでしょう。
罪びとであるよりは、
正しい人である方が良いでしょう?
イエス様が罪びとを招く方であるなら、
イエス様に招かれない方が嬉しい。
罪びとではない証だから。
律法学者の考えそうなことです。
自分が「正しい人」であることを、
自他共に認めていたファリサイ派、
特に律法学者たちは、
心の中でこう思ったでしょうか。
「じゃあ、わたしは招かれてはいない、
罪びとではないから」。
さて、ファリサイ派の律法学者は、
イエス様に招かれてはいなかったのでしょうか。
ファリサイ派の人々には、
とても大きな、深刻な問題がありました。
自分が正しいから、
正しさのゆえに神に受け入れられている。
そのように考え、信じていたことです。
現代もまた、
多くの人々は同じように考えています。
多くの人が思っています。
自分は正しい、
自分はまともに生きている。
わたしは罪びと呼ばわりされるいわれはない。
現代人とファリサイ派の人々が違う点は、
ファリサイ派が自分は正しい、
だから神に受け入れられている、
そう考えていたのに対して、
現代の人々は、
自分は正しいから、
特に神は必要ない。
そのように考えていることです。
いまどき神に頼るなんて、
いまどきイエス・キリストを信じるなんて、
よほど困っているに違いない。
そのように思われます。
きっと人には言えない罪があるか、
大きな悩みを抱えているか、
世の中に失望したか、
そのどれかに違いない。
そのように思われかねません。
そんな時代の風潮の中では
イエス様に招かれない方が良いのでしょうか。
イエス様自身がこう言っているでしょう。
「わたしは罪びとを招くために来た」と。
だから、罪びとではない「わたし」は、
イエス様に招かれることはないし、
招かれる必要も無い。
そう考える人の、なんと多いことか。
でも、こうした態度には、
重大な考え違いがあります。
わたしには罪がないなどとは誰も言えず、
誰ひとりとして、
わたしは罪びとではないとは言えない。
その事実を理解していないことです。
人類の歴史と、
わたしたちの良心と、
わたしたち自身の体験と、
聖書が、
はっきりと証しているのは、
罪びとではない人など、
神の御子以外、
誰ひとりとしていないという事実です。
たしかに、盗みや犯罪とは無縁で、
法を犯すこともない人は多くいます。
立派な人や善良な人がほとんどです。
だが、いったい誰が、
妬まず、敵意を抱かず、恨まず、
自己中心にならず、
怒りを抱かず、
欲深くならず、
常に憐れみ深く、
すべての人に情け深く、
神の御心に反することが一切無く、
生涯を生きることができるでしょうか。
誰が民族や国家、企業や文明の罪と、
自分は無関係だと言えるでしょうか。
だから、わたしたちは全員が例外なく、
「わたしが来たのは罪びとを招くためだ」
と言われるイエス様によって招かれています。
この主イエス・キリストの招きは、
全人類に及ぶ招きです。
イエス様がわたしたちに求めるのは、
わたしたちの人間的な常識の大転換です。
わたしたちはこう考えています。
「わたしは正しい人間だから、
神に受け入れられているのだ」と。
あるいは、
「わたしは神に裁かれるほど罪深くはない」と。
あるいは、
「わたしのような汚れた者は、
神にふさわしくない」と。
正しいから神に受け入れられる人は、
ひとりもいません。
正しいから神は不要だと言える人は、
ひとりもいません。
正しくないから神にふさわしくない、
そう言うべき人はひとりもいません。
罪びとが罪を赦されるから、
神に受け入れられるのであり、
罪びとが招かれて、
神の国を受け継ぐ者とされるのです。
きょうの説教題は、
「イエス様は罪びとだけしか招かない?」。
この問いに対する答えは、
「はい」です。
そう、イエス様が招くのは罪びとだけ。
なぜなら、すべての人は例外なく、
みな、罪びとだからです。
たしかに、ファリサイ派の律法学者も、
罪びとを招くイエス様に招かれていたはずです。
彼らも罪びとなのですから。
しかし、自らを正しいと信じる彼らは、
イエス様の招きを喜ぶことはありませんでした。
招かれる必要などないと思っていたからです。
主イエスの招きに応える罪びとが、
罪を赦されて神の子とされます。
わたしたちがそのひとりであることを、
神に感謝します。



(以上)


▲ 聖書へ   先頭へ   Back to 説教 目次 ページ  サイトマップ  
   Back to top