<三位一体第20主日>

2019年11月3日()   礼拝説教


「主イエスが共におられるということ」  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) ゼファニヤ書3:16−20

16 その日、人々はエルサレムに向かって言う。「シオンよ、恐れるな 力なく手を垂れるな。
17 お前の主なる神はお前のただ中におられ 勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにし お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。」
18 わたしは 祭りを祝えず苦しめられていた者を集める。彼らはお前から遠く離れ お前の重い恥となっていた。
19 見よ、そのときわたしは お前を苦しめていたすべての者を滅ぼす。わたしは足の萎えていた者を救い 追いやられていた者を集め 彼らが恥を受けていたすべての国で 彼らに誉れを与え、その名をあげさせる。
20 そのとき、わたしはお前たちを連れ戻す。そのとき、わたしはお前たちを集める。わたしが、お前たちの目の前で お前たちの繁栄を回復するとき わたしは、地上のすべての民の中で お前たちに誉れを与え、名をあげさせると 主は言われる。


2) 新約聖書
マルコによる福音書2:18−20


◆断食についての問答

18 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
19 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。
20 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。

(聖書 終り)


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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2019年11月3日

「主イエスが共におられるということ」

断食。
それはいつの時代もどの世界でも、
信心深さと敬虔さのしるしでした。
断食をすることは修行であり、
信仰の表れであり、
自分を否定する行為であり、
罪の悔い改めの証でした。
信仰熱心な人は断食して祈るものだ。
そういう考えが、
断食をする人はもちろん、
しない人にも抱かれていました。
聖書にも断食する人たちが多く出て来ます。
たいていの場合、
罪を悔い改めるためであり、
あるいは自分を戒めるためでした。
だが、時には人に見せるためでもありました。
自分がいかに敬虔深いかということを、
人々にわかってもらうために、
ある人たち、
イエス様はその人たちを偽善者と呼びますが、
ある人たちは人々に知られる仕方で、
断食をしていたのでした。
イエス様の時代、
ファリサイ派と呼ばれる人たち、
彼らは信仰熱心な人たちでしたが、
習慣的に断食を繰り返して、
信心深さの証としていました。
バプテスマのヨハネという預言者の弟子も、
同じように断食をしていました。
罪の悔い改めが心からものであることを、
神と自分と、そして人々に示すために。
彼らにとっての断食は、
罪の悔い改めが心からのものである証でした。
イエス様の弟子たちはどうだったのでしょう。
イエス様ご自身は、
公に教えを宣べ伝える働きを始める前に、
四十日間荒れ野で断食をしました。
でも、弟子たちに断食を命じてはいません。
イエス様が弟子たちと食事をする話はあります。
でも、断食をしたという話はありません。
それどころか、
レビという徴税人が弟子になると、
レビはイエス様と弟子たちを自宅に招いて、
宴会の席を設けたのでした。
断食をしていることが信仰深さの証、
そのように信じる人たちから見れば、
イエス様と弟子たちはまったく常識外れです。
だから当然の疑問が投げかけられます。
「なぜ、あなたの弟子たちは断食をしないのか」。
この問いには、こんな批判が込められています。
「あなたたちは本当に宗教者なのか?」
「きみたちは本当に信仰熱心なのか?」
「本当は悔い改めていないのではないか?」
イエス様に対する質問には、
イエス様への非難が込められています。
昔から、ユダヤに限らずどの世界でも、
修行や敬虔さのための善いおこないが、
信仰深さの証とされてきました。
禁欲主義や厳しい修行が要求され、
そうしたことをおこなう人が、
尊敬に値する宗教者だと思われてきました。
断食はその最たるものでした。
何を食べるか、何を食べないか、
何を飲むか、飲まないか、
何をするか、しないか・・
そういったことが信仰深さの測りとなり、
それによって信仰的かどうかが判断され、
互いに評価しあってきました。
ファリサイ派やヨハネの弟子たちは、
こうした基準によって、
信仰深い人たちと見なされていました。
イエス様の弟子たちは?
だめ、基準に適合しません。
だって、断食をしないのですから。
イエス様と弟子たちは、
なにかにつけて非難されました。
「信仰的ではない」と評価され、
悪い評判が立てられたりしました。
「なぜ、断食しないのか」。
だが、この問いかけに対するイエス様の答えは、
まったく意表を突くものでした。

 

婚礼の客は、花婿が一緒にいるかぎり、
 断食することはできない。

たしかにそうでしょう。
晴れがましい婚礼の席に招かれているのに、
「いま断食中です」などと言って、
何も食べずに顔をしかめていたりしたら、
もう帰ってくれと言われることでしょう。
いっしょに喜び祝うための場であり、
祝福と感謝に満ちた時間なのですから。
イエス様はこの言葉で、
ご自分を婚礼の花婿にたとえたのでした。
花婿であるイエス様が共におられる。
それがいったい何を意味するのか。
そのことが重要です。
イエス様が世に来られ、
わたしたちと共におられるのは、
なぜなのでしょうか。
イエス様ご自身も、聖書も、
そのことをわたしたちに告げています。
神がこの世にある人々を憐れみ、
愛のゆえに救いの手を差し伸べ、
その独り子イエス・キリストが、
人となって世に来られた。
それが聖書の告げていることです。
神の御子キリストは、
わたしたちに神の愛と憐れみを示し、
わたしたちが神に立ち帰るため、
わたしたちの罪を代わりに負って、
わたしたちの罪を赦し、
わたしたちが信仰によって、
キリストと一つに結ばれることで、
わたしたちを神の子として受け入れ、
天の国籍を与えてくださり、
キリストを通して、
霊的な恵みと祝福で満たしてくださいます。
キリストはわたしたちと共にいて、
この世の旅を共に歩み、
天の御国に行き着くその時まで、
わたしたちの旅を導いてくださいます。
主イエス・キリストが共にいてくださる。
その喜ばしく晴れがましい事実そのものが、
あたかも花婿が共にいて喜び祝うように、
わたしたちにとって大きな喜びであり、
感謝して祝うべきことです。
そもそも、わたしたちが守る日曜日毎の礼拝は、
イエス様が共におられることゆえの、
喜びと感謝の祝いの時です。
わたしたちキリストを信じる者にとって、
この世で信仰を抱いて生きることそのものが、
婚礼の祝いの席のように喜びに満ち、
感謝に溢れて祝うべきものです。
わたしたちはともすれば、
自分の置かれている状況や、
この世がどんな現実にあるかによって、
一喜一憂させられます。
時には有頂天になって傲慢になり、
時には失意のどん底に沈みこんでしまいます。
ある時は自分自身をほめたたえ、
ある時は生きる望みさえ失いそうになります。
わたしたちには、良い時も悪い時もあります。
幸いの時も、不幸の時もあります。
健康な時も、病の時もあります。
いつか、世を去る死の時も来ます。
しかし、イエス様を信じているということが、
わたしたちにいったい何を意味するのか。
そのことを忘れてはいけません。
イエス様を信じているということは、
良い時も悪い時も、
イエス様が共におられるということであり、
順調な時も苦難の時も常に変わらず、
共にいてくださるイエス様と一緒に、
それらの時を体験するということです。
わたしたちは、いつでもどんな時でも、
花婿が共におられるという、
その喜びと祝いの時を生きています。
今も苦難の時も、
わたしたちが元気な時も死を迎える時も、
イエス様がわたしと共にいてくださり、
わたしたちを支え、慰め、励まし、
終わりまで旅を守り導いてくださいます。
その事実のゆえに、
パウロは1テサロニケ6:15で、
このように勧めたのでした。

いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 すべてのことに感謝しなさい。

なぜか。
婚礼の席に花婿がいる、そのように、
イエス様が共におられるからです。
その後に続けて、
イエス様はちょっと不思議なことを言われます。

 

花婿が奪い取られる時が来る。
 その日には、彼らは断食することになる。

イエス様が共におられない時が来るのでしょうか。
たしかに、やがてその時が来ました。
イエス様は捕らえられて弟子たちから離され、
十字架につけられて殺されてしまいました。
花婿が奪い取られる時は、たしかに来たのです。
イエス様が死んで葬られた金曜日から、
復活の日曜日の朝までの三日間、
弟子たちはみな嘆き、悲しみ、
物を食べることもできず、
部屋に閉じこもって恐れていました。
しかし、その時は長くは続きませんでした。
三日間だけ。
よみがえられた主イエスが現れたからです。
その主イエスは弟子たちに約束しました。
「聖霊があなたがたに降る時、
あなたがたは力を受ける。
世の終わりまで、わたしは共にいる」。
わたしたちはこの主イエスの約束の内にいます。
聖霊により、
主イエスがわたしたちと共におられる。
だからわたしたちは、
良い時も悪い時も、
健康な時も病の時も、
主が共にいてくださることを喜び祝い、
感謝を捧げて生きるのです。



(以上)


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