<公現後第8主日>

2020年3月1日()   礼拝説教
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「キリストはすべてのものの救いの主」  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1)ヨブ記42:1−6

1 ヨブは主に答えて言った。
2 あなたは全能であり
御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
3 「これは何者か。知識もないのに
神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた
驚くべき御業をあげつらっておりました。
4 「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」
5 あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
6 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し
自分を退け、悔い改めます。

2) 新約聖書
ペトロの手紙一、3:18−22



◆正しいことのために苦しむ

18 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。
19 そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。
20 この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。
21 この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。
22 キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年3月1日

「キリストはすべてのものの救いの主」

わたしたちはペトロの手紙一から、

礼拝で読み、説教してまいりました。

ペトロの手紙の宛先が誰かは、

手紙の始めを見るとわかります。

 

 ポントス、ガラテヤ、カパドキア、

 アジア、ビティニアの各地に離散して

 仮住まいをしている、

 選ばれた人たちへ。

 

聖書の後ろの地図を見ていただくと、

どのあたりかがこの地方か、

・・・わかりません。

聖書の地図には出ていないのです。

新しい聖書「聖書協会共同訳」の地図には、

五つの内三つが出ています。

でも新共同訳聖書の地図には、

残念ながら地名が表示されていません。

どうしてでしょうか。

それは、辺境の地だからです。

文化度の低い、

文明の遅れた世界。

都会などほとんどない田舎の地方。

地名を表記するに価しない地方。

そんなへんぴな所にも、

ペトロがこの手紙を書いた一世紀後半には、

すでにクリスチャンがいたのです。

これは驚きの事実です。

そんな僻地のクリスチャンと、

現代日本で生きるクリスチャン。

わたしたちのことです。

時代も場所も文化も異なりますが、

とても共通することがあります。

それは、存在自体がめずらしいことです。

クリスチャンは超レアものキャラで、

マイノリティの極みだということです。

一世紀後半にペトロは、

自分では訪れたことも会ったこともない、

彼方の僻地のクリスチャンたちに、

この手紙を送りました。

おそらくどうしても書かなければという、

強い思いに駆られたからでしょう。

おそらく、彼らの困難な境遇に心を寄せ、

苦労や痛みや困惑に共感し、

励ましと導きを与える責任を、

使徒として実感したからでしょう。

受取人が住んでいたのは、

ローマ帝国の中でも一番僻地の、

今で言うトルコ北部の地域です。

キリストの時代からまだ数十年。

教会はようやく各地に広がったばかり。

ましてこんな僻地に、

大勢のクリスチャンがいるわけがないです。

証明はできませんけれども、

おそらく、人口の0.1%以下でしょうか。

その地方に十万人の人が住んでいるなら、

百人にも満たないクリスチャンの数です。

現代日本のキリスト教徒の割合は、

人口のおよそ0.8%です。

百人に一人もいません。

人口約17万人の小山市には、

計算上1360人ほどのクリスチャンがいる、

・・・はずです。

いえいえ、そんなにいるはずはありません。

0.8%という数字は、

東京や大阪その他の大都会での、

クリスチャン割合を含めて、

平均したものです。

田舎に行けば行くほど割合は減ります。

たぶん小山には、

多く見積もっても2,3百人程度。

とても似ているでしょう、

昔ペトロが手紙を送った人々と、

現代のわたしたちは。

時代を超えて1ペトロの読者とわたしたちは、

同じ境遇にある仲間同士、つながっています。

そんなわたしたちが、

時代や場所や文化を超えて抱えている、

共通する疑問はなんでしょうか。

共通する心の痛みと言うべきでしょうか。

ちょっと考えてみてください。

たぶんいくつも思いつくでしょうが、

その一つ、

そしてたぶん最も大きな疑問は、

愛する者の救いの問題だと思います。

わたしたちの教会には、

家族の中で一人だけ、

夫だけ、妻だけ、

あるいは子どもだけクリスチャン。

そういう人たちがいます。

わたしたちの信仰の中心は、

天の国と永遠の命の望みにあります。

この望みを中心に据えて、

そこを目標として、

この世での生き方を定めます。

その逆ではありません。

イエス様が言われました。

「たとえ全世界を手に入れても、

自分の命を失ったら、

何の得があろうか」。

この一点にこそ、

わたしたちの望みがかかっています。

イエス様は罪びとであるわたしたちの罪を、

代わりに負って十字架で死なれました。

イエス様によってわたしたちは、

罪をあがなわれ、

神に受け入れられました。

わたしたちは神の御子イエス・キリストと、

信仰によって一つに結ばれ、

そのきずなによって神の子とされ、

天に国籍を持つ神の民として、

神の祝福と永遠の命の約束を受けて、

喜んで、感謝を抱きながら、

この世を旅しています。

だが、わたしたちの多くは、

家族の中で一人だけクリスチャン。

クリスチャンではない人が、

それが自分の親であれ、

夫であれ妻であれ、

我が子であれ、

家族の中にいます。

わたしたちは自分の救いを喜びます。

しかし、同時に心には痛みが生じます。

愛する未信者の人はどうなるかと。

そのことを思うたびに疑問が生じ、

心の痛みを感じます。

わたしたちを不安にさせ、

心からの喜びを抱かせなくする、

恐ろしい疑問が浮かぶのです。

キリストを信じることなく死んだ者には、

救いはないのでしょうか。

わたしは天の国に召されると信じるが、

わたしの親、パートナー、子どもは、

そこにはいないのでしょうか。

家族も周囲もみんなクリスチャンという、

キリスト教世界であれば、

そのような疑問は生じないかもしれません。

でも、ペトロが手紙を送った人々は、

そうではありませんでした。

クリスチャンはきわめて少数の世界です。

この手紙を今読んでいるわたしたちも同じです。

そのような人々に対して、

ペトロはこの手紙を書いたのでした。

 

 キリストは、肉では死に渡されましたが、

 霊では生きる者とされたのです。

 そして、霊においてキリストは、

 捕らわれていた霊たちのところへ行って

 宣教されました。

 

わたしたちが信仰告白で用いる使徒信条は、

こう宣言しています。

 

 キリストは十字架につけられ、

 死にて葬られ、陰府に降り、

 三日目に死人の内よりよみがえり

 

はたしてペトロは、

陰府に降っての三日間のことを、

ここで語っているのでしょうか。

ペトロは、牢獄にいる霊たちのことを、

ノアの箱舟の時代に悔い改めず、

神を信じなかった人たちのことだと言います。

でも、ペトロは、

文字通りの意味で、

ノアの時代の話をしているのではありません。

ペトロは洪水の水を洗礼の象徴として解釈し、

ノアとその家族の八人というのは、

ペトロの時代に存在していた、

少数のクリスチャンを象徴しているのですから。

ノアの時代に従わなかった霊たちというのは、

キリストを信じることなく死んだ人の象徴です。

死んで陰府に降ったキリストが行った、

「捕らわれている霊たち」とは、

昔の死者の霊の話ではなく、

キリストを信じることなく死んだ、

すべての人々の霊のこと、

そう理解してよいのではないでしょうか。

ペトロは22節で、

キリストが神の右におられると告げます。

「神の右」は古代の表現で、

全能の神の権威と力のすべてを委ねられた、

すべてのものの主であるということです。

この主キリストを、

わたしたちは救いの主と信じています。

キリストはすべてのものの救いの主なのです。

「すべてのもの」である以上、

例外はないはずです。

そうであれば、

「すべてのもの」の中に、

死者の霊は含まれないことがあるでしょうか。

愛する者、大切な人が、

キリストを信じることなく死んだなら、

いったいどうなるのか。

そのことを決めるのはわたしたちではなく、

すべてのものの主であるキリストです。

ですから、これ以上を言うことは止めます。

キリストの権限に属することですから。

しかし、わたしは確信するのです。

キリストを知らず、

キリストを信じないで死んだ者に、

望みがないわけではないと。

そう確信する根拠があります。

キリストは死んで葬られ、陰府に降り、

捕らわれていた霊たちのところへ行って、

宣教された。

聖書はそう告げているのですから。



(以上)

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