<四旬節第2主日>

2020年3月8日()   礼拝説教
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「この世とではなくキリストと結ばれている民」  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
エレミヤ書17:9−12

9 人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。
10 心を探り、そのはらわたを究めるのは
主なるわたしである。それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。
11 しゃこが自分の産まなかった卵を集めるように
不正に富をなす者がいる。人生の半ばで、富は彼を見捨て
ついには、神を失った者となる。
12 栄光の御座、いにしえよりの天
我らの聖所、


2) 新約聖書
ペトロの手紙一、4:1−6



◆神の恵みの善い管理者

1 キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。
2 それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。
3 かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。
4 あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。
5 彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。
6 死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年3月8日

「この世とではなくキリストと結ばれている民」

どうやらペトロは、何かと対決しているようです。

その何かとは、

広く世間の人々に信じられている、

宗教あるいは信仰心についての常識です。

一般に御利益宗教と言われている考えです。

自分の願望をかなえてもらうのが、

信仰の目的だといった考え方が、

ペトロの立ち向かう相手なのでしょう。

誰でも、健康でいたい、幸福でありたい、

豊かになりたい、成功したい、

病気や苦しみから救われたい、

そう願うものです。

いま朝の連続テレビ小説で、

「スカーレット」が放映されています。

熱心に見ているわけではないですが、

昨日の場面はこちらも泣きそうでした。

主人公の一人息子が病で、

余命数年という宣告をされました。

母親である主人公は、

親友に向かって泣きながら叫びます。

「あの子はええ子や、

何も悪いことをしていない、

だのにどうしてこんなことになるのか」と。

その叫びに共感しない人がいるでしょうか。

病気が癒される、

苦しみから解放される。

貧しさから逃れられる。

そういったことを宣伝する宗教があります。

たくさん。

そうでなくとも大抵の場合、

商売繁盛や家内安全を祈願する宗教、

貧病苦からの救済を約束する宗教は、

どれほど多いことでしょうか。

これは時代や文化を超えて、

人間の切実な願望なのでしょう。

ペトロの時代も同じでした。

信じれば物事が良くなる、

信じれば成功や繁栄が伴う、

信じれば癒されて病から解放される。

信仰とはそのためのものだという一般常識が、

ペトロの対決する相手なのです。

もちろんペトロは、

そのような御利益を宣伝する宗教を敵視して、

闘いを挑んでいるわけではありません。

他の宗教がどうかはペトロの関心ではありません。

キリストを信じる人たちが、

キリストを御利益の神のようにしてしまうことを、

ペトロは戒めているのです。

キリスト教にそういった成功や儲けを期待し、

安全や健康を願う人たちがいたのでしょう。

そう願うこと自体が問題なのではありません。

それが信仰の目的となることが問題でした。

ペトロは、それとは正反対のことを、

キリストを信じる者の証として人々に示すのです。

「キリストは肉において苦しまれたのだから、

あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」と。

キリストを信じることは、

キリストと一つに結ばれることです。

キリストと結ばれるということは、

キリストのいのちと結ばれることです。

キリストのいのちと結ばれるということは、

キリストの死と復活に結ばれることです。

キリストの死と結ばれるということは、

キリストの苦しみと結ばれることです。

だから、キリストを信じる者は、

キリストと同じように苦しみに遭う。

それがペトロの告げることです。

キリストのゆえに苦しみを受けること、

それがキリストを信じる者の証明なのです。

そんなのは嫌だ、

そんなことなら信じたくない。

そういう声が聞こえてきそうです。

なぜなら、

多くの人はなぜ神を信じるかと言えば、

成功や繁栄が欲しいからであり、

安全や儲けを期待しているからです。

わたしたちは何をキリストに望むのでしょうか。

快適な生涯?

健康で長生き?

安全で無難な毎日?

もちろんそれらはわたしたちの祈りです。

でも、そのために信じるのでしょうか。

いいえ。

キリストを通して神が与えてくださる救いは、

成功のことではなく繁栄のことではなく、

健康や長寿でもなく、

まったく異なることです。

キリストをとおしてわたしたちが受けるのは、

罪の赦しであり、

復活の望みであり、

天に国籍を持つ神の民とされて、

この世を旅人として、

仮住まいの身として生きるようになることです。

それは、別の言い方をするなら、

こういうことです。

わたしたちはこの世と一つに結ばれ、

この世の何かを得ることを願い、

この世の何かを最大の目標とする生き方から、

キリストと一つに結ばれ、

この世の何かではなく、

天の国と永遠の命の望みを目標とする生き方へと、

移し替えられたのです。

この世と一つに結びついているなら、

望みも目標もこの世の中にあります。

いかに上手く、快適に生きるか、

いかにこの世の価値観に合わせたものを、

自分の手に入れるか。

それを目指して生きることでしょう。

キリストと一つに結びつくなら、

望みも目標もこの世の中のどこか・何かではなく、

天の神のもとにあります。

神の国の価値観に合わせて生き、

そこに約束されたものを望み見て、

生きることでしょう。

それがわたしたちの生き方であるはずです。

キリストを信じる人は、

世の人々とは異なる価値を信じます。

世の人々と同じではありません。

根本において、

究極の望みにおいて、

生き方の原則において、

違うのです。

だから、この世では変わった人とみられます。

たしかにキリストを信じる人々は異質な人です。

異質であることがいじめや悪口の対象になり、

時には嫌われ排除されることは、

わたしたちの身近にたくさんあります。

学校でも職場でも地域社会でも、

異質な人がいじめの対象にされるのを、

わたしたちは良く知っています。

同じでなければいけない、

みんなに合わせなければいけない、

同じように振る舞うことが要求される。

それがこの世の現実です。

どうでもよいことなら合わせればよい。

でも、ほんとうに重要なこと、

わたしたちの望み、

わたしたちの愛、

わたしたちの信仰がかかることには、

わたしたちは信念を貫きます。

なぜなら、

天の国と永遠のいのちがかかっているからです。

だから、キリストのゆえに苦しむことは、

ペトロによれば神の民として生きる証です。

まったく何も世と異ならず、

世の人々から何も違和感を抱かれないなら、

わたしたちはキリストと一つなのではなく、

世と一つになって生きているに過ぎませんから。

わたしたちは知っています。

キリストの救いと、

キリストを通して与えられる神の約束が、

どれほど絶大な価値のあるものかを。

キリストとしっかり一つに結ばれていることが、

何よりも重要です。

そのことをペトロはとても強く表現しました。

「キリストが苦しんだのと同じ心構えで、

あなたがたは武装しなさい」と。

武装する。

なんと過激な言葉でしょうか。

だが、良く考えれば当然のことです。

なぜなら、キリストを信じた時から、

わたしたちは常にこの世の攻撃に、

この世の悪口や批判に、

そして何よりも同調圧力にさらされ、

神の民から引きずり出されて、

この世の人々の仲間へと取り組もうとする、

そういう力に襲われ続けているからです。

「武装」とペトロが言うのは、

相手を攻めてして討ち滅ぼす攻撃兵器ではなく、

詩編の詩人が3編で歌うような意味においてです。

 

 主よ、わたしを苦しめる者は

 どこまで増えるのでしょうか。

 多くの者がわたしに立ち向かい、

 多くの者がわたしに言います。

 「彼に神の救いなどあるものか」と。

 主よ、それでも

 あなたはわたしの楯、

 わたしの栄え。

 わたしの頭を高くあげてくださる方。

 主に向かって声をあげれば

 聖なる山から答えてくださいます。

 

なるほど、「武装する」とは、

「信仰的な楯」を持つということです。

そして詩人によれば、

わたしたちの防御すなわち楯は、

神ご自身です。

神に守られることを心に留めよ。

そうペトロは呼びかけるのです。

神を楯として、

一切の悪口や攻撃を退けること。

その信仰的な確信を持つことが、

わたしたちにとって最高の防御です。

それなしには、

わたしたちは簡単にこの世の力に捕らわれ、

すぐ、世と一体化する者の仲間にされます。

わたしたちがキリストを信じるということは、

この世と一体であることから引き離され、

キリストと一つに結ばれるということです。

キリストと一つに結ばれるということは、

キリストの苦難と死、

そして復活のいのちに結ばれるということです。

今は、それがわたしたちの身元であり正体です。

ペトロをはじめ聖書は一貫して、

すべての人は、生者も死者も、

神の裁きの座に立たされることを教えています。

神はすべての人を裁き、

その裁きは公平で厳格です。

その裁きの座において、

わたしたちがキリストと一つに結ばれている、

ということの意味が輝き渡ります。

裁きの座にキリストが共におられることだからです。

聖書はキリストを弁護者と呼びます。

わたしたちは自分が神の前で完全に正しいなど、

だれも言うことの出来る人はいません。

だが、その場で共におられるキリストが、

わたしたちの弁護者として、

こう宣言してくださいます。

「この者はわたしと一つに結ばれている。

わたしのゆえに御国に受け入れられる」と。

キリストと結ばれているから、

わたしたちは天の国と永遠の命を受け継ぐ。

そう信じます。

わたしはキリストによって、

神の救いにあずかっている。

天の国と永遠の命はわたしのものだ。

その喜びと確信があります。

しかし、同時に問わざるをえません。

なぜなら、ペトロの手紙の読者も、

現代日本のわたしたちキリスト者も、

きわめて少数者、マイノリティであって、

家族や愛する者が未信者だからです。

キリストを信じることなく死んだ者は、

どうなるのか。

裁きの座にキリストが共にいてくださらず、

天の国と永遠の命を受け継ぐ望みはないのか。

その疑問にペトロは応答しているのです。

「このためにこそ、

死者にも福音が宣べ伝えられたのだ」と。

死者にも福音が宣べ伝えられた。

これは大きな慰めの宣言です。

キリストの憐れみと愛が、

すべての者、死んだ者にさえ表されることが、

力強く証言されているのですから。



(以上)

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