<四旬節第3主日>

2020年3月15日()   礼拝説教
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「キリスト者は「残りの生涯」をどう生きるか」  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
申命記、6:4

聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。

2) 新約聖書
ペトロの手紙一、4:7-11



◆神の恵みの善い管理者

7 万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。
8 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。
9 不平を言わずにもてなし合いなさい。
10 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
11 語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年3月15日

「キリスト者は「残りの生涯」をどう生きるか」

世界は歴史の中で何度も、

世の終わりを意識させられてきました。

中世ヨーロッパで十年ごとにペストが流行し、

そのたびに人々は世の終わりを実感しました。

平安時代の終わり、

戦乱と疫病と飢餓が日本全土を包んだ時、

人々は世の終わりの時代だと信じました。

広島と長崎に原爆が落とされたとき、

炎の中で人々は世の終わりを体験しました。

戦後の東西冷戦の時代、

核兵器が世の終わりをもたらすのではと、

人々は恐れて来ました。

いま、地球温暖化によって、

あるいは生態系の破壊によって、

世の終わりを意識させられています。

世界の破滅、人類の滅亡、

そういったことが世の終わりでしょうか。

イエス様も終わりの時が近いことを教えました。

弟子たちはその言葉を信じ、

世々の教会もそう信じて来ました。

しかし、イエス様が世の終わりを語るとき、

それは世界の破滅や人類の滅亡ではなく、

主イエスが再び来られ、

すべてのものを裁き、

神の国が成就する、

その時のことを告げているのです。

ペトロはきょうの聖書の箇所で、

冒頭から断言するのです。

「万物の終わりが迫っています」と。

このペトロの言葉も同じです。

万物の終わりの時とは、

キリストが再び来られる時のことです。

「わたしは再び来る」という、

主イエスの言葉が成就する時であり、

それは神の国が実現することであり、

神の平和が支配することであり、

キリストが約束してくださった、

神の国と永遠のいのちの望みが、

現実となる時のことです。

キリストを信じる人々は、

最初の弟子たちから現代に至るまで、

皆がその時を待ち望んできたのでした。

それがいつ起きるのか、

どのように現実となるのかは、

誰にもわかりません。

イエス様ご自身が、

「その時はわたしも知らない、

ただ父なる神のみがご存じだ」

と言われたのですから。

万物の終わりがいつ、どのように来るか、

それは父なる神の権限に属することです。

しかし、キリストを信じる者は、

やがて、いつか、

その時が来ることを信じ、待ち望んでいます。

万物の終わりの時は、

神の国と永遠のいのちが成就する時です。

わたしたちもいつか死ぬ時が来ます。

でも、わたしたちは、死が、

天の御国に召されることだと信じています。

生涯が死で終わらず、

このいのちが神の国に受け継がれ、

永遠のいのちへと開かれます。

人はせいぜい長生きしても八十年か九十年。

聖書に従うなら、

人の寿命はたかだか百二十年にすぎません。

キリストを信じるということは、

その短い生涯の終わりが、

そこにある死という難攻不落の壁が、

キリストによって打ち砕かれ、

わたしたちのいのちが、

キリストをとおして永遠へと開かれること、

百年に満たない将来にある終わりが消え、

永遠へと開かれることです。

だからペトロは、4章の2節で、

キリストを信じる者の生涯のことを、

「肉における残りの生涯を生きる」という、

とても不思議な表現で言い表したのでした。

「肉における残りの生涯」というと、

少ししか残っていない短い生涯のようです。

しかし、実際にそうなのです。

何歳の時にキリストを信じたかは人それぞれ。

生まれた時からの人もいれば、

小学生の時、中学生の時、大学生の時、

あるいは四十代、五十代、

あるいはわたしたちの教会でも、

高齢者になって信じた人もいます。

キリストを信じてからの生涯は長短さまざま。

短い方の中には数日という方がおられます。

洗礼を受けてすぐに天の御国に行かれました。

数年、十数年、あるいは数十年。

信仰を抱いてからの寿命が、

五年か十年か、五十年か。

その時間的な長さに関係なく、

永遠のいのちへの繋がりであれば、

なんと短いものに過ぎないでしょうか。

キリストを信じてからの生涯は、

文字通り、肉における残りの生涯です。

なぜなら、開かれた永遠と比較するなら、

ほんとうに短いものに過ぎないのですから。

永遠のいのちへと開かれている生涯を、

今わたしたちが生きているのだとすれば、

わたしたちはこの世での残りの生涯を、

どのように生きるべきでしょうか。

いや、むしろ、

どのように生きることができるのでしょうか。

たしかなことは、

この世がすべてであって、

この世の寿命が終われば全てが終わる、

そのような閉ざされた生涯を、

わたしたちは生きてはいないということです。

キリストを通して神の国の民とされて、

わたしたちは今を生きています。

もし、この世の寿命が全てだと考えるなら、

この世のことだけを考えて生きてゆきましょう。

しかし、キリストを通して、

神の国と永遠の命の約束を信じるのなら、

この約束をなによりも価値のあるものとして、

何よりも大切にして、

しっかりと保つ仕方で生きるべきです。

どうして、やがて朽ちて失われる、

この世の何かのために、

神の国と永遠の命を手放したりするでしょうか。

わたしは体験から断言できます。

地上の命の終わりを悟った兄弟姉妹は、

その時から神の国と永遠の命の望みが、

いっそうリアルになり、輝きを増し、

この世の命が終わるときには、

それが最高の、比類のない価値として、

その人を支え、死を越えて、

永遠のいのちへと至ることを。

神の国と永遠の命の約束を信じ、

この約束をなによりも大切にして生きる。

それはどのような生き方でしょうか。

ペトロは、二つの命令として教えています。

第一の命令は「思慮深くありなさい」。

この言葉の意味は、

神の教えと神の御心に基づいて、

自分でものごとを判断し、

どのように行動し、

何を語り、

何を大切なこととするかを考える、

ということです。

「自分で」と言いましたが、

自分一人でという意味ではありません。

わたしたちは判断の基準を、

もちろん自分でも考えますが、

教会で教えを聴き、互いに語り、

信仰を分かち合うことで、

思慮深さを養い育ててゆきます。

世の多くの人は何に基づいて考え、

何に動かされて行動するでしょうか。

大抵の場合、世間の動向や、

みんながどう言っているか、

政治家や有力者がなにをどう語るか、

そういったことを判断材料にします。

時としてそれは、

思慮深さとは対極の生き方です。

たとえ思慮深く心がけるとしても、

それは結局、自分や他の人の考えのこと。

神の言葉によって、

わたしたちは考え、判断します。

第二の命令は「身を慎んでよく祈りなさい」。

もっと直訳的に言いましょう。

「祈りへと自分を整えなさい」。

これはどういう意味の命令でしょうか。

「祈り」とは何かということと関係します。

祈りとは、神に心を向けることです。

神を覚え、神を意識し、

神との交わりを心に留めることです。

人は大抵の場合、自分に心を向けます。

あるいは他の誰かの言動に心を向けます。

だが、神に祈る人は、

神を覚え、神を意識し、

神に語り、神に呼びかけ、

神に訴え、神に心を開き、

神の声を聞き取ろうとします。

自分の心を神に向けて、

天を見上げながら生きるようにしなさい。

それが第二の命令の意味です。

この二つの命令は、

わたしたちがこの世での生涯を、

ペトロの言葉を使うなら、

肉における残りの生涯を生きる上での、

大原則なのです。

でも、大原則ではあっても、

たぶん抽象的でわかりにくいです。

そこでペトロは、

この大原則を具体的なかたちで、

わたしたちに教えてくれています。

わたちたちはどうすべきか。

「何よりもまず」という言い方で、

わたしたちにとって一番大切なことを、

ペトロは教えてくれました。

 

 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。

 

「心を込めて」と訳された言葉の元の意味は、

「どんな時にも」「絶えず」という意味です。

たぶんそう訳すべきでした。

なぜならペトロはここで、

互いに愛し合うことを、

そうできる良好な関係の人同士だけでなく、

時に対立したり、仲たがいしたり、

怒りを感じたり、

場合によっては敵対してしまう、

そういう兄弟姉妹に対しても、

互いに愛しなさいと命じているのだからです。

そうでなければ、

続く言葉が意味をなさなくなります。

ペトロはこう続けるからです。

 

 なぜなら、愛は多くの罪を覆うからです。

 

教会は人間の集まりです。

だから罪と無関係ではありません。

心ない言葉が発せられることがあります。

人の好き嫌いが出ることがあります。

誰かに怒りを覚えることがあります。

不当な扱いや行動をされることがあります。

互いに傷つけたり、

誤りを犯すことがあります。

それは避けることのできない現実です。

嫌になって教会を離れるか?

気に入った仲間だけの教会がいいか?

それでは教会は神の民ではなく、

ただの同好会かサークルです。

旧約聖書のイスラエルの民を考えてみましょう。

彼らはけんかし、争い、

指導者であるモーセを罵り、文句を言い、

それでもモーセはそんな人々を、

「出て行け」とは言いませんでした。

人の好き嫌い、罪深いかどうかに関係なく、

ただ一つの揺るぎない事実に基づいて、

あらゆる人々が神の民として、

一つの群れとしてあり続けたのでした。

 

 聞け、イスラエルよ。

 我らの神、主は唯一の主である。

 

教会も同じです。

愛は罪をなかったかのようにはしません。

誰かの罪が、他の誰かを傷つけます。

だが、それでも互いに愛し合う時、

その時には、

その罪は愛によって覆いを掛けられ、

互いに受け入れ合うことができます。

何よりも忘れてはならないのは、

主イエス・キリストがわたしたちを愛して、

キリストの愛によって、

わたしたちの罪が覆われたということです。

ペトロは二つの大原則を生きることにおいて、

「どんな時にも互いに愛し合いなさい」という、

具体的な命令として告げ知らせました。

それだけが、わたしたちが自分の罪を覆われ、

自分に対して罪を犯す者の罪を覆うからです。

キリスト者が「残りの生涯」をどう生きるか。

ペトロは他の命令を続けますが、

きょうは何よりも重要な愛の命令だけで、

止めておくことにしましょう。

他の命令、

もてなし合うこと、

賜物を用いて仕え合うことは、

いつかの機会に譲ることとします。



(以上)

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