<四旬節第4主日>

2020年3月22日()   礼拝説教
画像

「キリストを信じる者は世にではなく神に従う」  (石田 学牧師)
画像画像 説教は音声付きです。

説教ヘ   先頭へ   back to 説教 目次 ページ  サイトマップ  Top page (index) へ

◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
エレミヤ書28:1−9

1 その同じ年、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年の五月に、主の神殿において、ギブオン出身の預言者、アズルの子ハナンヤが、祭司とすべての民の前でわたしに言った。
2 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしはバビロンの王の軛を打ち砕く。
3 二年のうちに、わたしはバビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪って行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる。
4 また、バビロンへ連行されたユダの王、ヨヤキムの子エコンヤおよびバビロンへ行ったユダの捕囚の民をすべて、わたしはこの場所へ連れ帰る、と主は言われる。なぜなら、わたしがバビロンの王の軛を打ち砕くからである。」
5 そこで、預言者エレミヤは主の神殿に立っていた祭司たちとすべての民の前で、預言者ハナンヤに言った。
6 預言者エレミヤは言った。「アーメン、どうか主がそのとおりにしてくださるように。どうか主があなたの預言の言葉を実現し、主の神殿の祭具と捕囚の民すべてをバビロンからこの場所に戻してくださるように。
7 だが、わたしがあなたと民すべての耳に告げるこの言葉をよく聞け。
8 あなたやわたしに先立つ昔の預言者たちは、多くの国、強大な王国に対して、戦争や災害や疫病を預言した。
9 平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることが分かる。」


2) 新約聖書
ペトロの手紙一、4:12−19



◆キリスト者として苦しみを受ける

12 愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。
13 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。
14 あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。
15 あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。
16 しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。
17 今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか。
18 「正しい人がやっと救われるのなら、
不信心な人や罪深い人はどうなるのか」と言われているとおりです。
19 だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。

(聖書 終り)

   聖書へ   先頭へ   説教 目次 ページ   サイトマップ   back to top
  下記説教部分は文字サイズの変更が可能です。(但しブラウザ環境により異なる)
     (初期値は4。 数字が大きいほど文字サイズは大きくなります。 )

  
        〈例〉  サイズ3 ←→  サイズ←→  サイズ5 
        サイズ指定後は、もう一度左クリックして 反転表示の数字を通常表示に戻し確定させて下さい。
  画像この礼拝での説教を音声により聞くことができます。     時間 :約21分
      
パソコンの環境に合わて再生方法を選択して下さい。
      ダウンロード/直接再生 --->データ  ① WMA形式、3.0MB   ② MP3形式、5.7MB
     【参考】 Windowsでは:主にWMaおよびMp3    MaCでは:主にMp3    (例外もあります。)

◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年3月22日

「キリストを信じる者は世にではなく神に従う」

自分であれ、親しい誰かであれ、

試練に遭うのはつらいことです。

試練はどれもつらいですが、

それが不当な試練であるとしたら、

いっそう苦しいことでしょう。

不当な逮捕、不当な投獄、

不当な暴言、不当な中傷誹謗、

実際そのような目に遭うとしたら、

わたしたちはとても苦しむことでしょう。

だが、もしその試練が、

キリストを信じているかたというだけの、

不当なものだとしたら、

その苦しみは二重の意味で深刻です。

不当で理不尽な苦しみに遭わされている、

その試練に加えて、

なぜ神を信じているのに、

こんな不当な苦しみを味わうのかという、

信仰の意味が問われるからです。

クリスチャンであれば、

信仰のゆえの試練に遭うとき、

この疑問と嘆きを抱かない人はいません。

ペトロがこの手紙を書いた時代の、

手紙の受取人は、

まさしく信仰ゆえの不当な試練を体験し、

苦しんでいたのでした。

キリストを信じるクリスチャンだという、

それだけの理由で悪口を言われ、

非難され、攻撃され、

迫害されていました。

信仰が問われる事態に直面させられました。

なにか悪事を働いたからではなく、

神に従う信仰的な生き方をしていた、

ただそれだけの理由での試練でした。

今の日本に生きているわたしたちは、

キリストを信じているからといって、

ときどきは変な人、風変わりな人とみられ、

時には多少の不自由さもあるでしょうが、

それほどまでの試練は感じないでしょう。

でもキリシタンの時代はどうだったでしょうか。

江戸時代から明治までの時代は?

いずれもキリストを信じているだけで、

投獄され拷問され追放されました。

第二次大戦中は?

敵のスパイと言われ、

非国民と呼ばれました。

今も世界各地で迫害は現実です。

神はなぜ、信じる者を快適にさせないのか、

神はなぜ、安全と繁栄ではなく、

不当な試練を信じる者に与えるのか。

神を信じているのになぜ?

それが信仰者にとって不思議です。

どうしてと、驚き怪しむことになります。

不当さと神に対する疑問。

それが二重の苦しみの原因です。

ペトロはそんな試練に遭って思い悩み、

困惑し、戸惑い、苦しんでいる、

辺境の地に生きるキリスト者に向かって、

こう語り告げたのでした。

 

 愛する人たち、

 あなたがたを試みるために身にふりかかる

 火のような試練を、

 何か思いがけないことが生じたかのように、

 驚き怪しんではなりません。

 

なぜなら、信仰を抱いて生きる者にとって、

信仰ゆえの試練は、不思議であるどころか、

むしろ当然の体験だからです。

わたしたちが神を信じるのは、

安全や繁栄や成功のためではありません。

わたしたちが神を信じるのは、

キリストを通して罪を赦され、

神の子として受け入れられ、

天に国籍を持つ神の民とされて、

天の国と永遠の命を望んで生きるためです。

その身分を喜び、

神の約束を信じて、

神の民とされた者らしく生きるためです。

それが何を意味するかは明らかです。

キリストを信じる者は、

もはやこの世の中だけを全てと思わず、

神の国こそわたしたちの本国、

わたしたちの故郷だと信じます。

そうであれば、

神を信じるということは、

この世に合わせる生き方をやめて、

神に従う生き方をすることです。

神に従う生き方とは、

この世の価値と常識とは異なる、

神の価値と神の御心に沿う生き方です。

もちろん、わたしたちは、

この世の全てが悪いなどとは思いません。

この世をすべて否定するのでもありません。

しかし、この世の価値と常識の多くは、

この世そのもの、あるいは、

この世の何かを目的として目指させ、

この世を第一に求めさせます。

キリストを信じて神に従う時、

わたしたちは世を第一に求めることを止め、

神の国の民として、

神の国と神の義を第一に求める、

そのような生き方へと変わりました。

世の価値と常識に基づいて生きる人たちには、

そんなキリスト者の生き方は、

まったく異質なものに思われます。

だって、変でしょう。

せっかくの日曜日なのだから、

家でごろごろするか、

どこかに遊びに行くか、

平日はできない用事をすればよいのに、

教会に集まって礼拝をするのですから。

クリスチャンは変な人たちでしょう。

だって、王さまや支配者の命令でも、

神の御心に反するからという理由で、

従わずに王や支配者の怒りを買うのですから。

クリスチャンは異質な人たちでしょう。

だって、国家や権力に従わず、

社会の流れや世の人々の風潮に合わせず、

神に従うことを選ぶのですから。

神に従うキリスト者は、

いつでもどこでも、異質な人として、

悪口を言われ、迫害される可能性があります。

ペトロの時代のキリスト者は、

まさにそんな世界で生きていたのです。

その時代、洗礼を受けたいと望む人は、

教会の指導者から尋ねられました。

「あなたは洗礼を受けてクリスチャンになると、

世の人たちから悪く言われ、

迫害され、もしかすると逮捕されます。

それでもクリスチャンになることを望みますか」。

はい、望みます。

そう答える人に洗礼が授けられました。

今の時代、わたしたちはそのように尋ねません。

だが、その心構えはあったらよいと思います。

そんな時代に、辺境の地で、

ごく少数者として生きていたクリスチャンは、

どう生きるべきかが問われたのでした。

選択肢は三つあったはずです。

第一の選択肢は、

信仰を棄てて世の人々と同じになり、

この世の定住者に戻ってしまうことです。

みんなと同じになり、みんなに合わせるなら、

もう悪口も中傷も迫害もなくなり、

こんなに楽なことはありません。

それによって失うものは大きいですが。

第二の選択肢は、

信仰を秘密にし、自分の心の中に隠して、

世の人々に合わせて生きることです。

神に喜ばれないという心の重荷を、

代償として負うことになりますが。

ペトロは第三の選択肢を、

試練の中にあるキリスト者に示しました。

ペトロが示すのは、

クリスチャンとしてしっかりと神に従い、

もしキリストのゆえに試練を受けるなら、

そのことを喜ぶという道です。

もちろん、誰だって試練は嫌です。

試練を歓迎する人はいないでしょう。

でも、神に従う生き方をして、

それゆえに試練を受けるのであれば、

そのことを喜ぶべきだとペトロは言います。

その理由は、

試練という苦しみをはるかに越えて、

キリストを通して与えられている恵みが、

絶大であり、永遠の喜びだからです。

キリストを信じるということは、

キリストと一つに結ばれることです。

キリストと一つに結ばれるなら、

わたしたちの生涯は、

キリストと同じ道を歩むのですから、

この世の在り方から異質です。

キリストが受けた苦難が、

わたしたちの体験となります。

ペトロはそのことを言うのです。

キリストが受けたように苦難を受け、

信仰ゆえの試練を受けることは、

キリストに属する神の民の証だと。

キリストを信じて神に従う者は、

どのような者とされているのでしょうか。

キリスト者は何者なのでしょうか。

ペトロは二章9節で、

くどいほどに、信仰者の正体を語ります。

 

 あなたがたは、選ばれた民、

 王の系統を引く祭司、

 聖なる国民、

 神のものとなった民です。

 

だがそれは同時に、

この世の定住者ではなくなり、

この世がすべてではなくなることです。

だからキリスト者のもう一つの正体を、

二章11節で、このようにも語るのです。

 

 あなたがたは旅人であり、

 仮住まいの身なのです。

 

 これがわたしたちの身元であり正体です。

もし、この正体がわたしたちにとって、

もっとも価値のあるものであって、

この世のいかなるものにも代え難いのなら、

わたしたちは信仰を貫いて生きます。

この世でできるかぎりよく生き、

世での生活を大切にし、

この世で最善を尽くし、

心から喜び楽しみますが、

信仰者としての生き方を貫く上で、

世から悪く言われ、非難され、

世から異質な者として迫害されるなら、

わたしたちはそれを喜んで受けます。

信仰ゆえの神の恵みと約束を失うよりも、

わたしたちは世を捨てます。

わたしが心から尊敬する、

信仰を貫いて生きた人の一人に、

高山右近という戦国武将がいます。

高山右近は豊臣秀吉に棄教を求められ、

それを拒んで領地と財産を没収されました。

金沢の前田利家の元に身を寄せましたが、

徳川家康が棄教を迫ってそれを断り、

日本から追放されることになりました。

高齢の右近は、

長崎まで家族と共に徒歩で連行され、

船でフィリピンのマニラに追放されました。

マニラでは王を迎えるように盛大な歓迎を受け、

しかし、困難な旅が原因で、

ほどなくマニラでその生涯を終えました。

その右近が、日本から追放されるにあたり、

細川忠興に送った最後の手紙が、

細川家の文書庫に残されています。

この手紙は、この世で最善を尽くして生き、

名声と地位を獲得しながら、

しかし、信仰を貫くことを第一として、

天を故郷としてこの世を旅立った、

高山右近という信仰者の証です。

現代の言葉に直したものを読みます。

 

 すぐにも船で出発いたしますので、

 一筆認めます。

 ひとたび放たれた矢のように、

 もう再びこの地にもどるまいと

 決意していますので、

 ここにその死ぬ決意の者の名を

 永遠に残そうと書きとどめます。

 彼は戦場の勇士として命を賭し、

 天下に名を知られました。

 私は南国にいたり、

 命の名を刻むのは天であり、

 この世には忘れさられるのはどうでしょう。

 この六〇年の人生の労苦を思い、

 お別れいたします。

 言葉にはつくせませんが、

 数々のこと御礼申し上げる次第です。

  (河村信三『高山右近とその時代』

   教文館、p.232)

 

 

命の名を刻むのは天。

この信仰的な信念を貫き、

この世にではなく、神に従う、

信仰者としての生き方を全うしたい。

そう願います。



(以上)

▲ 聖書へ   先頭へ   back to 説教 目次 ページ  サイトマップ  
   back to top