<四旬節第6主日>

2020年4月5日()   礼拝説教
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「大いなる「しかし」を掲げてわたしたちは生きる」  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
哀歌3:19−27

19 苦汁と欠乏の中で
貧しくさすらったときのことを
20 決して忘れず、覚えているからこそ
わたしの魂は沈み込んでいても
21 再び心を励まし、なお待ち望む。
22 主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。
23 それは朝ごとに新たになる。「あなたの真実はそれほど深い。
24 主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い
わたしは主を待ち望む。
25 主に望みをおき尋ね求める魂に
主は幸いをお与えになる。
26 主の救いを黙して待てば、幸いを得る。
27 若いときに軛を負った人は、幸いを得る。


2) 新約聖書
ペトロの手紙一、5:8−11



◆長老たちへの勧め

8 身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。
9 信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。
10 しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。
11 力が世々限りなく神にありますように、アーメン。


(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年4月5日

「大いなる「しかし」を掲げてわたしたちは生きる」

きょうは「しゅろの日曜日」。

教会にとって特別な記念の日です。

イエス様が人々から称賛された日、

そして同時に受難週と呼ばれる、

イエス様の苦難と十字架の死が起きた、

その一週間の始まりだからです。

栄光と苦難。

正反対の二つの意味が込められています。

イエス様はガリラヤ地方と呼ばれる、

ユダヤ北部の辺境の地で生まれ育ち、

そこで宣教の働きを始めました。

最初に福音を告げ知らされたのがこの地で、

おそらく二年ほどでしょうか、

ガリラヤ地方で弟子を集め、

各地をまわって人々に福音を告げ知らせ、

やがて時が来ると心を定めて、

ガリラヤを離れ、

都エルサレムへと向かいました。

そこは、イエス様を批判し攻撃してきた、

そして命を奪おうと狙う、

神殿の祭司や律法学者の拠点です。

そこには神殿の最高権力者、

ユダヤの地の支配者たちがいます。

その場所に行くことは、

イエス様にとって最後の闘いです。

権力者たちは暴力を用いて、

イエス様を殺害して排除しようとしますが、

イエス様の方は非暴力で、

愛と憐れみを生き、神の義を説く闘いです。

エルサレムはイエス様にとって、

特別な場所でした。

そこが地上での生涯の最後の場所、

そして苦難を受ける場所になることを知り、

また弟子たちに予告していたからです。

エルサレムは城塞都市です。

堅固な城壁に囲まれた城であり、

その中に町も神殿も宮殿もあります。

そのため、

イエス様のエルサレム入城とも言われます。

大勢の人々が町の外で待ち構えて、

「ホサナ、ホサナ」と歓声を上げ、

しゅろの葉を振って迎えるのです。

イエス様はといえば、

なんと奇妙な格好でしょう。

子ロバの背中にまたがって、

城門への道を進んでゆきます。

え、子ロバがかわいそうだって?

大人を乗せて重かったでしょうね。

イエス様が子ロバのことを気にしたか、

気にしなかったかはわかりません。

でも、少しの間だけロバに我慢してもらい、

どうしても表したいことがあったのです。

それは、英雄の姿として入城するのでなく、

平和の主、戦わず争わない王、

子ロバに乗るメシアの姿を示すことでした。

昔の預言者がそう予言していたからです。

日曜日に大歓迎してイエス様を迎えた群衆は、

しかし、それからわずか数日後に、

態度をすっかり変えて、

裁判の席で十字架につけろと叫ぶのです。

なんと人の心は気まぐれで、

いとも簡単に移ろうことでしょうか。

人は大抵の場合、

自分の願望を満たす人を支持して熱狂します。

ドイツでヒトラーが熱狂的に歓迎される映像が、

たくさん残されています。

豊かさ、成功、安心、自分の国家の栄光、

それらを約束する指導者が支持を集めます。

願望の実現を約束する教祖や宗教が人を集めます。

人々が熱心に祈るのは願い事を祈る時です。

その期待がはずれると、

人々は一転して罵り、攻撃し、反対を叫びます。

イエス様が富ともうけを約束すればよかったのに。

ユダヤの繁栄と栄光を叫べばよかったのに。

支配と権力をもたらすと言えばよかったのに。

だが、イエス様が人々に説いたのは、

敵を愛せ、憐れみ深くあれでした。

この世の国を樹立することではなく、

正義と公平に満ちた神の国が来ることでした。

だから人々はイエス様を罵り、

イエス様に悪意を抱き、

十字架につけてしまえと叫びました。

十字架につけられたのはイエス様。

しかしイエス様を十字架につけた人々は、

そこで同時に、

イエス様の説く愛と憐れみ、

神の義と罪の赦しを十字架につけました。

愛ではなく権力を守ることの方が、

憐れみではなく支配を続けることの方が、

この世にとって大切だということの証明が、

イエス様の十字架でした。

公平ではなく貧富の格差こそが、

この世の秩序だという現実、

神の法則よりも人間の欲に基づく法則が、

この世界で人々の求めるものだという現実。

それがイエス様を十字架につけることで、

この世界に顕わにされたのです。

この十字架こそ、

この世界が悪の力に支配されている証、

この世界の悪が神の愛と正義に勝ったことの、

勝利宣言です。

十字架を見上げるとき、

わたしたちはそこにキリストの苦難と、

キリストの犠牲による罪の赦しを見ます。

しかし同時に、

わたしたちは主キリストの十字架に、

この世の悪がいかに力強く、

正義と愛と憐れみを食い殺すかという、

その事実をも見せられます。

ペトロはこの世界の現実を、

こんな恐ろしい表現で描写しました。

「悪魔は吠えたけるライオンのように、

餌食を求めて徘徊している」。

うかうかしていれば食い殺されます。

生き延びるためには、

悪魔の仲間になるべきでしょうか。

そうすれば生き延びるどころか、

この世での繁栄や成功も得られるでしょう。

かつてイエス様を試みた悪魔が、

イエス様を誘惑して言ったように。

「わたしを拝めば、全世界をあげよう」。

逆もなりたつのでしょう。

わたしを拝まなければ、

あなたは多くを失うでしょうと。

この世界で悪魔の仲間にならないで生きる、

それは悪魔とその勢力を敵に回すことです。

キリストを信じてキリストの仲間になるなら、

悪魔の仲間になることを拒むことです。

だから、キリストを信じて生きるなら、

この世では苦しみを避けることはできません。

しかも、キリストを信じる人は、

この世で二重の意味で苦しみを体験します。

一つは、まさにその信仰のゆえに、

世と世の人々から不当な苦しみを受けるでしょう。

たとえば、変な人だと思われ、

付き合いの悪い人だと言われ、

仲間はずれにされるかもしれません。

世の中がもっと悪くなって、

国全体が全体主義やポピュリズムに支配され、

仲間に加わらないキリスト者を攻撃し、

排斥するようになるかもしれません。

わたしたちは神の祝福と幸いを願い求め、

神に祈り信頼しています。

それなのになぜ、

その信仰のゆえに苦難を受けるのか。

その疑問がつきまとうことでしょう。

ペトロの手紙の読者は、

まさにその問題に苦しんだのですから。

神を信じ、イエス様の愛と憐れみを生きたら、

どうして苦しみにさらされるのかと。

だからペトロは彼らに書き送りました。

「あなたがたを試みるために降りかかる試練を、

思いがけないことのように

驚き怪しんではなりません」と。

むしろ、信仰ゆえの試練はあるものなのです。

神を信じた結果が苦しみだとしたら、

信仰に何の甲斐があるというのでしょうか。

信仰のゆえに罵られ、

人々から悪意を向けられ、

時に弾圧や迫害にさらされる。

それはキリスト教の歴史でもあります。

今も程度の差こそあれ、今も世界で現実です。

またもう一つの苦しみは、

信仰があるゆえにかえって、

神の善と正義への疑いが生じて、

それゆえに苦しむことがあることでしょう。

神が善であり正義の神であるなら、

なぜ信じる者に苦難が来るのかという問いです。

神を知らず、神を信じていなければ、

こんな疑いの闇に包まれはしなかったでしょう。

神を信じ、神に信頼しているのに、

どうして不幸や病が襲いかかってくるのか。

この疑問が信仰者を苦しめ、戸惑わせ、

時には信仰を失わせることになりかねません。

ペトロはこの第一の手紙で、

最初からキリスト者に「忍耐」を説き、

「義のために苦難を受けるのは幸いだ」と

なかなか受け入れがたい言葉を告げます。

わたしたちは苦難や試練に遭ったなら、

ひたすら耐え忍び我慢して、

苦渋に満ちて生きるしかできないのでしょうか。

たしかに、苦しみは現実に起きます。

わたしたちも苦難の時を体験することでしょう。

でも、わたしたちが信仰を抱いているかぎり、

それだけで終わることはない。

その事実をペトロは、

とても力強いギリシア語二文字で表現しました。

デルタとエプシロン。

発音すれば「デ」という一音だけの短い単語。

日本語に訳せば「しかし」「だが」。

これほど強力な一音はありません。

なぜなら、ペトロは苦しみや試練の現実、

悪魔がライオンのように吼えながら、

犠牲者を捜し回る様子を語った後で、

続けて、「しかし」を置くからです。

悪魔が徘徊している世界で、

苦しみや試練は現実です。

「しかし」、

ペトロはその先に未来がある。

そうペトロは宣言するのです。

しかし、しばしの苦難の後、

神が永遠の栄光へと、

わたしたちを招いてくださる。

苦しみや試練は現実にある。

しかし、それで終わらない。

神が、永遠の神の栄光へと招いてくださる。

それがこの「しかし」に続く、

わたしたちの執着点です。

この世で生きる中で、

常にこの大いなる「しかし」を掲げて、

わたしたちは生きているのです。



(以上)

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