<復活後第1主日>

2020年4月19日()   礼拝説教
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「イエスさまについて、ではなく、イエスさまを知る」  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
イザヤ書61:1

◆貧しい者への福音

:1 主はわたしに油を注ぎ
主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして
貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み
捕らわれ人には自由を
つながれている人には解放を告知させるために。

2) 新約聖書
マルコによる福音書3:7−12



◆湖の岸辺の群衆

7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、
8 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。
9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。
10 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。
11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。
12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。



(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年4月19日

「イエスさまについて、ではなく、イエスさまを知る」

先週、わたしたちは復活祭を祝いました。

復活祭はキリスト教のもっとも大切な祝日。

わたしたちの教会も例年は、

復活祭には持ち寄りで食事会をして、

心からの喜びを分かち合ってきました。

今年は、しかし、新型コロナウィルスのため、

祝い方を控えめにせざるを得ませんでした。

それでも、力強い賛美を捧げ、

復活の主イエスをたたえて礼拝を捧げました。

教会は伝統的に復活祭を、

キリストが死に勝利した日として喜び祝い、

罪と死の縄目から人々を解き放つ、

勝利の主キリストを賛美してきました。

神の子キリスト、

勝利者イエス、

栄光に輝く復活の主、

世界を統べ治める力の主。

十字架で死なれたイエスさまとは打って変わり、

栄光の輝きに包まれた復活のキリストの姿を、

大勢の画家が描いてきました。

それらの画家が描く復活の主イエス、

教会が掲げる栄光の輝きに包まれるキリストは、

しかし、聖書が物語る復活の主キリストと、

なんとかけ離れていることでしょうか。

聖書は主イエスの復活を証言しています。

復活の主イエスが弟子たちに現れた出来事を、

四つの福音書がわたしたちに伝えてくれます。

しかし、そこに登場する復活の主イエスは、

光輝く神の栄光に包まれた姿ではなく、

威厳に満ちた神々しい容姿でもなく、

最初、弟子たちでさえ、

それが主イエスだとは気付かない、

ふつうの姿かたちで現れたのでした。

そうだとすると、

教会が高く掲げ、画家たちが描いてきた、

勝利者である復活の主の姿は、

はたして復活の主ご自身が弟子たちに示し、

宣べ伝えるようにと告げ知らせた姿でしょうか。

教会はいつの間にか、

復活の主イエスそのものをではなく、

自分たちの造り上げた復活の主のイメージを、

人々に教えるようになったのかもしれません。

人は誰でも、自分の願望を信じたいものです。

自分が信じたい姿に復活の主イエスを描き、

自分の期待や願望に基づいて、

自分たちが望む姿で復活の主イエスを描き、

それを復活の主として教えてきました。

そのような仕方でイエスさまについて語り、

自分たちの望む神の子の姿を描いてきました。

でも、イエスさまについてのそれらのイメージは、

はたして真実の主イエスの姿なのでしょうか。

イエスさまについて語られることと、

イエスさまのほんとうの姿は、

実は異なっているのではないでしょうか。

わたしたちはきょうから、

マルコ福音書からの説教に戻ります。

きょうの箇所は3章7節から12節です。

イエス様はガリラヤ湖畔で大勢の群衆に囲まれ、

押しつぶされそうになりました。

わたしたち読者にとっては、

福音書記者マルコは少しくどいように思います。

やたら地名を並べるのですから。

ガリラヤから来た群衆、

ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、

ヨルダン川の向こう側、

ティルスやシドンの辺り。

聖書の舞台となった地域に詳しく、

かつ注意深い読者は気付くことでしょう。

マルコはガリラヤ湖のイエスさまを中心にして、

東西南北から、

つまり四方から群衆が来たことを、

読者に知らせているのだと。

イエス・キリストが世界の中心、

焦点であり、そこに人々が集まるのです。

あまりに大勢の人が来たので、

イエス様は小舟で湖に避難したほどでした。

こんな大群衆が、

いったい何をイエスさまに望み、何を期待し、

何を信じてやって来たのでしょうか。

マルコは彼らの動機をこう語ります。

「イエスのしていることを残らず聞いて」と。

なるほど、この大群衆は、

他の人々がイエス様について、

井戸端で、通りで、街中で語る、

もろもろの噂を聞いたので、

集まって来たのでした。

現代であれば、ラインやツイッターで拡がる、

ほんとうか嘘かもさだかでないニュースで、

大勢の人々が動き回る。

そういうことの古代世界版です。

「イエスさまについて」の噂。

いったい、人々はどんな噂を話していたのか。

それはきょうの福音書の記述から明らかです。

人々がイエスさまについて語っていたのは、

病を癒すという噂、

悪霊を追い出しているという評判。

だから病気に悩む人々が押し寄せて来ました。

大勢の群衆の中には、

汚れた霊に取り憑かれた人々、

つまり悪霊が取り憑いている人もいました。

彼らがイエス様について、こう叫ぶのです。

「あなたは神の子だ」。

マルコによる福音書には、

悪霊に取り憑かれた人々がしばしば登場します。

悪霊に取り憑かれていることは、

一目で分かるのでしょうか。

そういう場合もあるのでしょう。

しかし、大抵の場合、

ホラー映画のようではありません。

悪霊どもは人々の中にいて、

見た目では普通の人と何も変わらず、

何も異様さを感じさせないでそこにいます。

あるいは、世間の方が悪霊に慣れてしまい、

異様さを感じないのかもしれません。

新型コロナウィルスが拡がり始めると、

アメリカでは銃や弾薬が売れまくり、

それが普通のことだと思われるのですから。

悪霊は普通の人の顔をして、

人々の間に、あるいは人々の中にいます。

群衆の中で悪霊に憑かれた人たちが、

大声でイエスさまについて叫びます。

「あなたは神の子だ!」

それは間違いですか?

いいえ。

言葉自体は間違いではありません。

だが、それを叫ぶのは悪霊です。

神の子、イエス・キリスト。

そのとおりだとわたしたちは信じます。

だが、肝心なことは、

それがどういう意味なのかです。

復活された神の子キリストは、

栄光に輝く王として、

異教徒を罪に定め、

不信心な者を裁き、

世界を支配する姿で現れたでしょうか。

それとも、

イエスさまが十字架で処刑されたために

意気消沈して怯えている弟子たちに、

最初、弟子たちでさえ気付かない姿で、

語り、教え、励ます復活の主として、

弟子たちに現れたのでしょうか。

ガリラヤ湖畔で、

悪霊がイエスさまについて叫びます。

「あなたは神の子だ」。

悪霊の告げるイエスさまについての言葉を、

多くの人々は信じてきたのでした。

昔のガリラヤ湖畔でだけでなく、

歴史のあらゆる時代に、

世界中いたるところで、

悪霊はイエスさまについて叫んできました。

ある時、悪霊はイエスさまについて叫びました。

イエスは異教徒を攻め滅ぼす栄光の主だと。

ある時、悪霊は叫びました。

イエス・キリストを信じる者は、

ビジネスでも人生でも成功すると。

ある時、悪霊は人々に祈らせました。

爆撃を成功させ、戦争に勝利させてくれる、

キリストが味方になってくださいと。

多くの人が悪霊の叫びに惑わされてきました。

教会までもが。

時には、教会が発する言葉が、

実際には悪霊の叫びであったこともあります。

そんなことが現実にあり得たでしょうか。

はい、残念ながら。

ドイツの教会はナチズムが台頭し始めたとき、

ヒトラーを支持する声明を出しました。

日本の教会は戦前・戦中、

日本軍によるアジア侵略に協力し、

それがキリストに従うことだと主張しました。

今でも教会はしばしば、

罪びととみなす人々を断罪し、

とても律法主義的になって裁き、

不寛容な態度を取ることがあります。

今でも教会は差別を擁護することがあります。

悪霊はいつの時代にも人々の間で叫びます。

イエスこそ神の子だと。

でも、その言葉に込められている意味は、

イエスさまの姿とはまったく異なります。

悪霊がイエスさまについて語る言葉を、

人々が信じるようになる時、

無慈悲、不寛容、不正義が拡がります。

だから、わたしたちは注意深さが必要です。

イエスさまについて知ることが重要なのではなく、

イエスさまを知ることが重要なのですから。

イエスさまについて、

あれこれ語る人は多くいますが、

そのような言葉を信じるのではなく、

わたしたちにとって大切なことは、

イエスさまを知ることです。

イエスさまの語る言葉を第一に聞くこと、

それがわたしたちを誤りから守ります。

栄光に包まれた壮麗なキリストは、

聖書が語る復活の主キリストの姿とは違います。

わたしたちは謙遜に人々に仕える主、

弟子たちと親しく語る復活の主、

支配者ではなく友として導いてくださる方を、

わたしたちの主イエスと信じます。

わたしたちは、互いに愛し合いなさいと教え、

憐れみ深くあれと告げた主の言葉を信じます。

剣を取る者は剣で滅びると語り、

敵を愛しなさいと教えたイエスさまを、

わたしの救い主と信じます。

イエスさまについて知ることではなく、

イエスさまを知ることを、

わたしたちの願いとして、

信仰生活を守り続けてゆきましょう。



(以上)

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