<復活節第2主日>

2020年4月26日()   礼拝説教
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「わたしたちも使徒であるということ」  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
イザヤ書52:2−10

◆主は王となられる

:2 立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ。
3 主はこう言われる。「ただ同然で売られたあなたたちは
銀によらずに買い戻される」と。
4 主なる神はこう言われる。初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。
5 そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。
6 それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。
7 いかに美しいことか
山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え
救いを告げ
あなたの神は王となられた、と
シオンに向かって呼ばわる。
8 その声に、あなたの見張りは声をあげ
皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る
主がシオンに帰られるのを。
9 歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。
10 主は聖なる御腕の力を
国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が
わたしたちの神の救いを仰ぐ。


2) 新約聖書
マルコによる福音書3:13−19



◆十二人を選ぶ

13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。
14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、
15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。
17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。
18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年4月26日

「わたしたちも使徒であるということ」

山が神聖な場所に感じられるのは、

世界中どこでも同じです。

神に近いと感じるからでしょうか。

聖書でも、山は特別な意味を持っています。

山は神と出会う場所でした。

モーセが最初に神に召されて、

預言者としての働きを始めることになったのは、

ホレブの山においてでした。

モーセに率いられたイスラエルの民が、

エジプトを脱出して荒れ野をさまよい、

シナイ山のふもとに来ました。

その時、神はモーセを山の上に呼び寄せ、

そこでモーセは神から十戒を授けられました。

ダビデ王がエルサレムを神の都と定めたのは、

そこが山の上の町だったからです。

ソロモン大王がこの山の上の町に、

神を礼拝する場所として神殿を築きました。

エルサレムを目指す巡礼者は、

都のある山を見上げて、

詩編を歌いながら登ってゆきました。

 

 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。

 わたしの助けはどこから来るのか。

 わたしの助けは来る。

 天地を造られた主のもとから。

 

そしてきょうの福音書は、

イエス様が山に登るところから始まります。

なぜ山に?

山の上で特別なことをするためにです。

この山の上で、

イエス様は十二人をお選びになりました。

マルコ福音書はそのことをこう語ります。

 

 イエスが山に登って、

 これと思う人々を呼び寄せられると、

 彼らはそばに集まって来た。

 

どうもイエス様は山に登る前からすでに、

お選びになる十二人を決めていたようです。

だったら、山になど登らなくても、

湖の畔で十二人を指名したらよいのに。

なぜわざわざ山に登ったりしたのでしょうか。

マルコ福音書の記述を見ると、

まるで十二人を指名するだけの目的で、

イエス様たちは山に登ったように思われます。

実際、そうだったのでしょう。

なぜわざわざ山の上に?

わたしたちはそんな疑問を抱きます。

おそらく、十二人を選ぶことは、

イエス様にとっても十二弟子にとっても、

とても重要なことだったからでしょう。

十二人を選ぶことによって、

イエス様の教えと働きが、

イエス様だけで終わることなく、

弟子たちに、そして弟子たちをとおして、

もっと多くの人々に受け継がれるからです。

実際、それから後の教会の拡がりを見ると、

そのとおりであったことがわかります。

イエス様の教えと働きは、

以来、弟子たちによって受け継がれ、

教えられ続けて、

現代にも続いているからです。

イエス様は十二人を任命しました。

マルコはそれだけでなく、

「彼らを使徒とも名付けた」と言います。

以来、十二弟子は使徒とも呼ばれ、

やがて十二使徒という言い方になりました。

十二人のイエス様の使徒たち。

彼らは特別な存在だったでしょうか。

はい、たしかに十二使徒は特別でした。

十二人だけが使徒として選ばれたからです。

でも、特別であると同時に、

特別な存在ではないとも言えます。

彼らがイエス様から授けられた使徒の働きは、

彼らだけのものではなく、

彼らだけで終わりになったのでもないからです。

むしろ、使徒の働きはその後も、

彼ら十二使徒からさらに拡がり、

使徒の働きは牧者(聖職者)に引き継がれ、

現代に至っています。

すべての牧者は、

神からの特別な召命を受けて、

イエス様に任命されていると確信するかぎり、

使徒の務めを委ねられている人たちです。

では、使徒の働きを委ねられ・受け継ぐのは、

聖職者つまり牧者だけなのでしょうか。

聖職者だけが使徒の務めを受け継いでいて、

一般の信徒は使徒の働きとは無関係でしょうか。

実は、カトリック教会はそう考えてきました。

だから、カトリックでは、

聖職者と信徒の間には歴然とした壁がありました。

しかし、今から五百年ほど前、

宗教改革という運動が起きると、

プロテスタント教会の創始者たちは、

使徒の働きに召されているのは、

聖職者も信徒も同じだと確信しました。

聖書がそう教えていることに気付いたのです。

そこで、万人祭司

すべてのキリスト者が祭司の務めを負っている、

というプロテスタントの大原則を確立しました。

その意味は、

キリストを信じる者は誰もが皆、

使徒の働きへと召されているということです。

わたしも、あなたも。

実は、二十世紀の中頃になって、

カトリック教会は第二バチカン公会議を開き、

ここで重大な決定をしました。

プロテスタント教会の主張が正しいことを認め、

すべての信徒も使徒の務めへと召されている、

その事実を宣言したのです。

「信徒使徒職」

つまりすべての信徒が使徒の役割を担う。

それがキリスト教の教会だと。

使徒の働きが受け継がれているという点で、

カトリックとプロテスタントは一致しました。

だから今では、

両方の教会は同じではないけれども、

一緒にキリストのために働くことができます。

ということは、

わたしたちも使徒の働きを担う者、

すなわち使徒とされていると言えます。

こう考えると、ちょっと素敵でしょう。

最初の使徒は十二人だったけれども、

今、わたしの名前も使徒職の連なりの中で、

使徒の系譜の先の方に書き記されていると。

わたしたちの後にも多くの信仰者が続き、

世の終わりまで使徒の働きは受け継がれます。

さて、使徒とはどのような者でしょうか。

なんのためにイエス様は、

使徒を定めたのでしょうか。

イエス様の目的が三つあったことを、

マルコ福音書は教えてくれます。

彼らを自分のそばに置くため、

派遣して宣教させるため、

そして、

悪霊を追放する権能を持たせるためと。

第一の目的は「彼らを自分のそばにおくため」。

つまり、イエス様と共にいるようにするため。

以来、使徒の務めを受け継ぐ者たち、

すなわち全てのキリスト者は、

イエス様と共にいるために召されています。

わたしたちは第一に、

イエス様と共に生き、共にこの世を歩むため、

イエス様によって召されています。

主イエスご自身が、

今、霊においてわたしたちと共におられます。

共におられるキリストと生きること。

それがわたしたちの第一の務めです。

わたしたちはイエス様を離れてはならず、

イエス様が共におられることを信じて、

主と共に歩む生涯であり続けることが重要です。

わたしたちは主イエスと共に、

この世を旅しているのです。

第二の目的は、

彼らを派遣して宣教させるため。

だからわたしたちはイエス様に遣わされています。

わたしたちの礼拝がそのようになっています。

礼拝のたびに、わたしたちは派遣の賛美を歌い、

派遣の言葉で世に遣わされて、

教会から出て行きます。

なんのために?

宣教、すなわち

主イエスのことを、

主イエスの教えを、

わたしたちを通して世に表すためです。

わたしたちは、いわば全権大使(アンバサダー)、

イエス様を代表して世に表す務めを託された、

福音の使者です。

たぶんイエス様そのものにはなれないでしょう。

不充分で至らないことが多いのでしょう。

それでも、少しでも、ときどきでも、

わたしたちがイエス様のように人を愛し、

イエス様のように憐れみを抱くなら、

わたしたちはキリストのための、

福音宣教者としての務めを果たしています。

第三の目的は、

これはすごいことを委ねられています。

悪霊を追い出す権能をもたせるため。

このことは誤解されやすいかもしれません。

わたしたちは悪魔払い師に任命されるのではなく、

悪霊が実在すると信じるかどうか、

試されているわけでもありません。

悪霊はたしかに存在していると考える人も、

悪霊など昔の人の迷信に過ぎず、

現代にそんなものは信じられない、

そう考える人もいます。

ただし、この事実は忘れてはなりません。

悪霊が実在するかどうかに関係なく、

悪霊の働きと呼ぶべきものは、

この世界に満ちあふれているという事実を。

親が子どもを虐待して傷つけ、殺し、

金儲けのために老人から貯金をだまし取り、

使いもせず断じて使うべきではない、

大量殺戮兵器を必要だと言って開発し、

巨額の資金で購入して配備する、

そこに悪霊の働きを見ないでしょうか。

悪霊そのものを信じないとしても、

これらが悪霊の働きだと感じないとしたら、

そのことの方が恐ろしく思われます。

この世界では簡単に愛が物質化され、

物と金に不自由しないようにすることが、

愛の証だと信じられ、

そのためにもっと大切なことが、

犠牲にされ、失われています。

この世界からは憐れみが消え、

争いが深まり、

正義が歪められているのに、

多くの人はそれが正常だと思いこんで、

そこに悪霊の影を見ないで済ませています。

互いへの不信が、

人と人の間にも国と国の間にも拡がり、

恐れ、不安、心配が人々の精神を支配し、

将来の望みを思い描くことができなくなり、

未来がこの世界の現実によって奪われています。

悪霊の働きを信じなくなれば、

いつしか人々は言い出すでしょう。

これが世界というものだと。

そんなはずがないです。

神はお造りになった世界を見て、

「よし」とされたはずなのですから。

世界の現実は、あるべき姿とかけ離れています。

わたしたちは確信を抱いています。

この世界は悪霊の働きに満ちていると。

だから正常な姿とは程遠いと。

だから世界は変えられねばならないと。

どうやって、どのように?

わたしたちは信じます。

キリストは悪霊を追放するために来られたと。

わたしたちは信じます。

わたしたちは悪霊を追放するために、

世に遣わされているのだと。

わたしたちがキリストの愛を人々に向けるとき、

わたしたちが少しでも憐れみ深くあるとき、

わたしたちがキリストの平和を作るとき、

わたしたちは悪霊を追い出す働きをしています。

わたしたちはそのような使徒の働きを委ねられて、

この世をキリストと共に旅しています。

使徒の務めを委ねられている。

それがわたしたちキリスト者の役割であり、

わたしたちの使命であり、

わたしたちの正体であり、

その務めを担うことが、

わたしたちの喜びです。

だから、きょう、

わたしたちは喜んで世に出て行きましょう。

キリストの使徒として。



(以上)

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