<復活節第5主日>

2020年5月10日()   礼拝説教
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「主イエスと共にいるかぎり」  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
ルツ記1:1−18

◆残されたナオミ

1 さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。
2 その人の名はエリメレク。妻の名はナオミ。ふたりの息子の名はマフロンとキルヨン。彼らはユダのベツレヘムの出のエフラテ人であった。彼らがモアブの野へ行き、そこにとどまっているとき、
3 ナオミの夫エリメレクは死に、彼女とふたりの息子があとに残された。
4 ふたりの息子はモアブの女を妻に迎えた。ひとりの名はオルパで、もうひとりの名はルツであった。こうして、彼らは約十年の間、そこに住んでいた。
5 しかし、マフロンとキルヨンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミはふたりの子どもと夫に先立たれてしまった。
6 そこで、彼女は嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ろうとした。モアブの野でナオミは、主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである。
7 そこで、彼女はふたりの嫁といっしょに、今まで住んでいた所を出て、ユダの地へ戻るため帰途についた。
8 そのうちに、ナオミはふたりの嫁に、「あなたがたは、それぞれ自分の母の家へ帰りなさい。あなたがたが、なくなった者たちと私にしてくれたように、主があなたがたに恵みを賜わり、
9 あなたがたが、それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように主がしてくださいますように。」と言った。そしてふたりに口づけしたので、彼女たちは声をあげて泣いた。
10 ふたりはナオミに言った。「いいえ。私たちは、あなたの民のところへあなたといっしょに帰ります。」
11 しかしナオミは言った。「帰りなさい。娘たち。なぜ私といっしょに行こうとするのですか。あなたがたの夫になるような息子たちが、まだ、私のお腹にいるとでもいうのですか。
12 帰りなさい。娘たち。さあ、行きなさい。私は年をとって、もう夫は持てません。たとい私が、自分には望みがあると思って、今晩でも夫を持ち、息子たちを産んだとしても、
13 それだから、あなたがたは息子たちの成人するまで待とうというのですか。だから、あなたがたは夫を持たないままでいるというのですか。娘たち。それはいけません。私をひどく苦しませるだけです。主の御手が私に下ったのですから。」
14 彼女たちはまた声をあげて泣き、オルパはしゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツは彼女にすがりついていた。
15 ナオミは言った。「ご覧なさい。あなたの弟嫁は、自分の民とその神のところへ帰って行きました。あなたも弟嫁にならって帰りなさい。」
16 ルツは言った。「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。
17 あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」

2) 新約聖書
マルコによる福音書3:31−35



◆イエスの母、兄弟

31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、
33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年5月10日

「主イエスと共にいるかぎり」

その日、

イエス様はガリラヤ湖畔の家にいました。

おそらく、弟子となったペトロとアンデレの家。

各地を回って教えを宣べ伝え、

弟子たちを集め、

拠点にしていたその家に戻ると、

そこに大勢の人が集まってきました。

とうてい、全員が中に入りきれません。

家の中はぎゅうぎゅう詰め。

教えを聞きたい人、

病を癒してほしい人、

弟子になりたいと思う人、

そしてイエス様を陥れようと狙う人。

そんな中に、群衆とは異なる目的で、

そこにやってきた人たちがいました。

イエス様のお母さま、

そして兄弟たち、姉妹たちです。

聖書の中で名前が知られているのは、

母マリアと、兄弟のヤコブ、ユダ。

言い伝えによれば、

他の兄弟はシメオンとヨセフ。

姉妹の名前は残念ながらわかりません。

どうやら、一家総出でやってきたようです。

何しに来たのでしょうか。

イエス様を取り押さえて、

家に連れ帰るためです。

というのも、悪い噂を伝え聞いたからです。

「あの男には悪霊が取り憑いている」と。

男兄弟四人がいればなんとかなるでしょう。

ところが、捜し当てて来て見れば、この騒ぎ。

人で溢れかえっている家の中には入れず、

戸口の近くに来るのが精一杯。

そこで、居合わせた人たちに頼んで、

イエス様に言伝を頼みます。

身内の者が会いに来ていますよと。

もちろん、取り押さえに来たことなど、

そこで言うわけがありません。

内緒にしておいて、

イエス様が出て来たところを捕まえる。

そんな計画でしょうか。

人々がイエス様に伝えます。

「ほら、あなたのお母さまと兄弟たち、

あなたの姉妹たちが、

外であなたを捜していますよ」。

ところが、ああ、なんということか。

イエス様の態度と応答は、

あまりに冷淡でひどすぎないでしょうか。

「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」。

まるで、そんなものはもういない、

もう捨ててしまったと言っているかのようです。

イエス様は自らの使命と夢を求め、

教えを宣べ伝えるために家を出たとき、

家族というものを捨てたのでしょうか。

家族への愛情やきずなが強い人ほど、

イエス様のこの態度は気に入らないでしょう。

文句の一つも言いたくなる出来事です。

一見、とても冷淡と思われる言葉と態度に、

大切な真実の思いが込められていることに、

わたしたちは気付かねばなりません。

わたしたちはほとんどの場合、

血のつながりこそが第一であって、

血のつながりこそが人間関係の中で、

なによりも大切なものだと考えています。

イエス様の言葉は、

そのような常識に疑問を投げかけ、

わたしたちに問いかけているように思います。

一番大切なのは、血のつながりではないと。

血のつながりが一番重要だと考えるために、

どれほどの人が苦しめられてきたでしょうか。

伝統的な日本の家族事情では、

血のつながりがないために、

嫁いだ先の家でいつまでも他人扱いされ、

所詮は血がつながっていないからと言われ、

苦しめられる女性がなんと多いことか。

血のつながりがあるために、

欲がからみ、憎悪が生み出されることが、

なんと多いことか。

世の中には血のつながる人がない、

そういう人もいます。

幼少の時に親や身内を失った人、

孤児として育った人、

血のつながる親から暴力を振るわれ、

虐待や支配を受けてきた人がいます。

血のつながりがもっとも大切だとしたら、

あるいはそう思い込んでいるとしたら、

そのことのゆえに、

どれほど多くの人が、

真に最も大切なものを見出し損ない、

最も大切なものから閉め出されていることか。

イエス様の言葉は冷淡に響くかもしれませんが、

血のつながりを否定したわけではありません。

血のつながりが一番の関係ではないことを、

はっきりと告げたのでした。

イエス様の前では、

すべての人は平等であり対等です。

幸福な家庭で生きている人も、

家庭環境に恵まれなかった人も、

天涯孤独の人も、

まったくハンディなしです。

イエス様は、ご自分を囲んでいる人々を見渡して、

彼らにこう語りかけるのです。

「見よ、わたしの母、わたしの兄弟、

そしてわたしの姉妹」と。

実際、イエス様の近くにいた人々は、

実に雑多な人たちでした。

幸福な環境の人もいたでしょう。

しかし、身寄りのない人、不遇の人、

病人、老人、若者、子ども、

悪霊に憑かれている人、

そして男と女。

なんと多様で異なる人々でしょう。

でも、身分や立場や境遇に関係なく、

たった一つのことにおいて共通しています。

イエス様のもとに来ていっしょにいること。

そして彼らには、

たった一つのことが求められます。

神の御心をおこなうこと。

主イエスと共にいること。

神の御心をおこなうこと。

この二つは、

実は別々のことではありません。

根底においては一つのことです。

イエス様といっしょにいようとするのなら、

イエス様の思いをおこなうことをこころがけ、

イエス様と共にいたいと願うのなら、

イエス様の思いに従おうと願うからです。

そして、イエス様の思いとは、

神の御心をおこなうことだからです。

イエス様ご自身がこう祈った、そのように。

「父よ、わたしの願いではなく、

御心がおこなわれますように」。

ガリラヤ湖畔の、あの家の中で、

大勢の人に取り囲まれていた時、

イエス様はとても力強い保証と約束を、

はっきりと宣言なさいました。

  神の御心をおこなう人こそ、

  わたしの兄弟、姉妹、母なのだ。

その場所には大勢の人がいて、

イエス様を取り囲んでいました。

彼らを見渡しながら語ったのですから、

こう言うべきではなかったでしょうか。

  神の御心をおこなう人々こそ、

  わたしの兄弟たちであり、

  姉妹たちであり、母たちなのだ。

ところが、イエス様はそうは言いませんでした。

周囲の人々を見回してみんなに言われたのに、

兄弟も、姉妹も、母も、

はっきり単数形なのです。

イエス様の考えは明らかです。

たとえそこに大群衆がいるとしても、

イエス様とひとり一人は、

「わたしとあなた」の関係だということです。

だれも集団の中の一人に埋没させられません。

わたしは想像します。

部屋の中で周囲の人々を見回したとき、

イエス様はひとり一人と目を合わせ、

「わたしはあなたに言う」との意志を示したと。

その気持ちを示したに違いないのです。

  あなたはわたしの兄弟

  あなたはわたしの姉妹

  あなたはわたしの母

そのように、ひとり一人をしっかり見つめて、

兄弟として共にいてくださる方。

それが、わたしたちの主イエス・キリスト、

わたしを兄弟と呼んでくださる方です。

主イエスと共にいるかぎり、

たとえ父母がわたしを見捨てるとしても、

たとえ天涯孤独の身であるとしても、

わたしたちは最も大切な神との関係を得て、

神の子として受け入れられ、

主イエスの兄弟姉妹とされています。

主イエスと共にいるかぎり、

わたしたちはイエス様の言葉を聞きます。

あなたはわたしの兄弟

あなたはわたしの姉妹

あなたはわたしの母

そうであれば、

わたしたちは主イエスのもとに生涯とどまり、

神の御心をおこなう人であり続けましょう。

神を愛し、

人を愛し、

主イエスにある兄弟姉妹のきずなを、

互いに喜び合いましょう。



(以上)

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