<復活節第6主日>

2020年5月17日()   礼拝説教
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「世界の現実に失望しないための処方箋」  (石田 学牧師)
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◇ 聖書  < 新共同訳 >

1) 旧約聖書
申命記11:13−21

◆祝福と呪い

13 もしわたしが今日あなたたちに命じる戒めに、あなたたちがひたすら聞き従い、あなたたちの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば、
14 わたしは、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる。あなたには穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の収穫がある。
15 わたしはまた、あなたの家畜のために野に草を生えさせる。あなたは食べて満足する。
16 あなたたちは、心変わりして主を離れ、他の神々に仕えそれにひれ伏さぬよう、注意しなさい。
17 さもないと、主の怒りがあなたたちに向かって燃え上がり、天を閉ざされるであろう。雨は降らず、大地は実りをもたらさず、あなたたちは主が与えられる良い土地から直ちに滅び去る。
18 あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、
19 子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ、
20 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
21 こうして、主が先祖に与えると誓われた土地にあって、あなたたちとあなたたちの子孫の日数は天が地を覆う日数と同様、いつまでも続くであろう。

2) 新約聖書
マルコによる福音書4:1−9



◆種をまく人のたとえ

1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。
2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。
3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
7 ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
8 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
9 そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

(聖書 終り)

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◇ 説教 
(石田 学牧師)         2020年5月17日

「世界の現実に失望しないための処方箋」

「イエスは、再び湖のほとりで教え始めた」。

マルコはこのような語りで、

その日の出来事を物語り始めます。

イエス様はガリラヤ湖畔で教えを語るのが、

とてもお気に入りだったようです。

そこはオープンスペースですから、

大勢の人が集まって来ても大丈夫。

そして、声が遠くまで響いたのでしょう。

たしかに、ガリラヤ湖畔は斜面になっていて、

まるで円形劇場のようですから。

イエス様は小舟に乗って、

岸から少し離れたところまで漕ぎ出します。

そこで舟に座ると、岸辺に集まった人たちに、

教えを語り始めるのです。

マルコ福音書によれば、

イエス様は「たとえ」でいろいろ教えました。

マルコ福音書4章には、

四つのたとえが出ています。

最初に語ったのは、

とても有名な「種を蒔く人」のたとえでした。

イエス様は日常の道具や食べ物、

また風景を、よく「たとえ」に用いました。

種を蒔く人の姿はガリラヤ湖周辺では、

見慣れたものであったはずです。

草原だけでなく畑が拡がっていますから。

 

 よく聞け。

 見よ、

 種を蒔く人が種蒔きのために出て行った。

 

「見よ」という呼びかけの声が、

日本語の聖書には訳されていません。

日本語としてはあまり使わないからでしょうか。

でも、実は、この言葉はとても重要です。

聞く人たちのイマジネーションを呼び起こす、

とても大切な役割を担っているからです。

「見よ」。

イエス様のこの言葉に合わせて、

人々はその光景を思い浮かべます。

話が進むにつれて、

人々は種を蒔く人の様子をイメージします。

しかも、静止画ではなく、映像として。

そして、その光景を想像しながら、

イエス様の言葉を聞いている人たちは、

途中から不思議に思い始めることでしょう。

これはいったい、何のたとえなのかと。

このたとえはいったい、

誰が、あるいは何が主人公なのかと。

種を蒔く人が主人公でしょうか。

蒔かれる種が主人公なのでしょうか。

あるいは四種類の土地が主人公?

きっと、たとえを聞く人々は最初、

種を蒔く人が主人公だと思うことでしょう。

でも、聞いていくうちに、

いや、蒔かれる種が主人公かと思い、

いや、道や石だらけの土地とか、

茨の生えた土地と良い土地など、

それぞれ異なる土地が主人公だろうか、

そのように考えることでしょう。

そして気付くのです。

どれがこのたとえの主人公だとしても、

どうもしっくりこないように思うと。

どうやら、このたとえは、

どれが、あるいは誰が主人公なのか、

ということはないように思われます。

何かを主人公とした物語とは違います。

このたとえは、

あたかも映像作品のようです。

その映像が見せる風景こそが、

このたとえの意味なのです。

だからこのたとえを語るイエス様は、

あたかも映像作家のようです。

種を蒔く人が種を入れた袋を腰に取り付け、

家を出るところから始まります。

畑に着くと腰の袋から種をつかみ、

円を描くように種を蒔き始めるのです。

黙々と種を蒔き続ける農夫の様子。

その時間経過をわたしたちは見せられます。

わたしたちのイマジネーションの中で、

どんな映像が流れるでしょうか。

種を蒔く人の仕事が終えてからも、

この映像は種が蒔かれた場所を映し続けます。

この映像の流れ、時間の移ろいの中で、

どのような映像が見えるでしょうか。

畑の間の道に落ちた種があります。

映像には、その道が映っています。

石だらけの地面に落ちた種があります。

石だらけの堅い地面が映っています。

日本語には「茨」と訳されている、

アカンサスの生える地面が見えます。

たぶん、時間を早回しした方がよさそうです。

道に落ちた種は、

芽を出すまでの間もなく、

鳥の餌になって失われてしまいました。

石だらけの地面に落ちた種は、

芽を出しはしたものの、

環境が悪くてすぐに干からびてしまいました。

茨の生える地に落ちた種は、

芽を出しはしても、

茨の成長に負けてしまい、

あっという間にしおれてしまいます。

これが、イエス様のたとえが見せる映像です。

なんと現実の世界そのものであることでしょう。

イエス様が見せる短い映像は、

まさしくこの世界の光景そのものです。

種蒔きの蒔く種とはいったい何のことか。

イエス様は何も語りません。

ですが、わたしたちは想像してみましょう。

種とはいったい何を指すのかを。

種は、この世界に満ちているべき愛。

親が子を、子が親を、隣人が隣人を、

知らない人が、困っている知らない人を、

愛し慈しむことが、

この世界を生存可能な世界にします。

あるいは、種は憐れみ深さ。

豊かな人が貧しい人を、

健康な人が病の人を、

喜んでいる人が悲しんでいる人を、

憐れみをもって慈しむことが、

この世界を平安に満ちた地とします。

あるいは、種は正義と公平。

強い者が弱い者を支配せず、

権力を持つ者が無力な者を踏みつけず、

誰もが同じ権利を保障され、

人としての尊厳が守られることが、

この世界を喜びに満ちた地とします。

あるいは、種はイエス様の福音でしょうか。

わたしたちは人々に福音を宣べ伝え、

罪の赦しを告げ知らせ、

神の子として受け入れられる道を示し、

神の国と神の義を第一にすることを求め、

朽ちる富を地上に蓄えるのではなく、

朽ちない富を天に蓄えることを勧めます。

あるいは、種はイエス様ご自身でしょうか。

イエス様を信じて生きることが、

この世界を神の国へと近づけると信じます。

それらがこの世界という土地に蒔かれ、

それらがこの世界で芽を出し、成長し、

豊かな実りをもたらすことを期待します。

でも、現実はどうでしょうか。

愛は打算と欲望という鳥についばまれ、

憐れみは無関心という石だらけの地で枯れ、

正義は支配者や有力者の保身に阻まれ、

公平は利権を守ろうとする人々に遮られ、

福音はもうけや成功の茨にしぼまされ、

イエス様はこの世界そのものから拒まれ、

十字架に掛けられました。

この世に拡がる欲やねたみ、

暴力やあらゆる類の棘が、

世に蒔かれる良い種を食い尽くし、

枯れさせ、しおれさせて無力にする。

それが、わたしたちの目にする世界であり、

この世界が映像で映し出す現実です。

そんな世界の映像を、

わたしたちは現実として見せられ、

その結果、わたしたちはダメージを受けます。

どうせ何を言っても無駄だと思わされ、

失望と落胆、無力感、怒りを抱かせられ、

神を信じることなど役に立たないと、

わたしたちは思い込ませられます。

だが、それが世界のすべてでしょうか。

本当にこの世界は良いものが生き残らず、

悪と不正義、冷淡と無関心、

あきらめと投げやりしかない世界でしょうか。

わたしたちは目の前に繰り広げられる、

道端や石だらけの地、

茨の生い茂る地ばかりに目を凝らし、

心を奪われてしまうのではなく、

目を上げて、

イエス様が見せるもう一つの映像、

もう一つの世界の現実を見るべきです。

種は畑にも蒔かれました。

畑に蒔かれた種が芽を出し、

成長して収穫を迎えるまでには、

時がかかり、忍耐が必要です。

いますぐに見える目先の映像では、

畑に種が蒔かれても、

しばらくは何も変わらず、

芽が出て来ても成長は遅々たるものです。

その間に鳥が来て道端の種を食べ、

石だらけの地で種は芽生えても枯れ、

茨に飲み込まれてしまう現実の方が、

わたしたちの目に映る世界の姿です。

これこそが、これだけが世界の現実だと、

わたしたちは信じ込ませられます。

しかし、イエス様は言われます。

 

 ほかの種は、良い地に落ち、

 芽生え、育って実を結び、

 三十倍、六十倍、百倍にもなった。

 

イエス様のこのたとえは、

わたしたちに気付かせてくれます。

目先の現実に失望させられたり、

所詮は何をしても無駄だと思わせられたり、

種を蒔くことそのものが、

無意味だと信じ込ませられたりせず、

良い地は世界の中にあるという現実に。

良い地に蒔かれた種は芽を出し、育ち、

愛が、憐れみが、正義と公平が、

キリストの福音が、

キリストと共に生きることが、

この世界で豊かな実を結ぶことがあると。

それが、このわたしの現実となることを。

だから、きょうのイエス様のたとえは、

世界の現実に失望しないための処方箋。

目先の現実に落胆させられず、

豊かな実りが、

この世界であり得るのだということを、

わたしたちは信じましょう。

愛など価値がないと言う人はいるでしょう。

愛よりも打算を重んじる人もいるでしょう。

しかし、愛を生きようとする人は、

この世界の中で拡がってゆくと信じます。

他の人がどうなのかではなく、

このわたしを通して、

神の喜ばれる豊かな収穫が実を結ぶことを、

わたしたちは願い、信じます。

だから、わたしは信じています。

皆さんはキリストを信じていることで、

すでに豊かな収穫を体験しながら、

今の時を生きておられるはずだと。



(以上)

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