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朗読箇所

復活節第6主日

旧約 エゼキエル書 47:1−12

◆命の水
1 彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。
2 彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。
3 その人は、手に測り縄を持って東の方に出て行き、一千アンマを測り、わたしに水の中を渡らせると、水はくるぶしまであった。
4 更に一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は膝に達した。更に、一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は腰に達した。
5 更に彼が一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった。
6 彼はわたしに、「人の子よ、見ましたか」と言って、わたしを川岸へ連れ戻した。
7 わたしが戻って来ると、川岸には、こちら側にもあちら側にも、非常に多くの木が生えていた。
8 彼はわたしに言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。
9 川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。
10 漁師たちは岸辺に立ち、エン・ゲディからエン・エグライムに至るまで、網を広げて干す所とする。そこの魚は、いろいろな種類に増え、大海の魚のように非常に多くなる。
11 しかし、その沢と沼はきれいにならず、塩を取ることができる。
12 川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる。」


新約 ヨハネによる福音書 4:27−42


27 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。
28 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。
29 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
30 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
31 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、
32 イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。
33 弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。
34 イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。
35 あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、
36 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。
37 そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。
38 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
39 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。
40 そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。
41 そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。
42 彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

説教

生ける水はどのように流れるか?

音声は準備中です

  • 説教者  稲葉基嗣牧師

     

    ヨハネによる福音書は、イエスさまと出会った、
    サマリア人の女性が不思議な行動を
    取ったことを記録しています。
    イエスさまと話し終えた彼女は、
    水がめを井戸のそばに置いて、
    町へ出て行ってしまいました。
    彼女がこの井戸に水を汲みに来たのは、
    お昼の暑い時間帯です。
    わざわざ暑い時間帯に水を汲みに来たのに、
    本来の目的である水汲みは後回しにしました。
    それで良かったのだろうかというと、
    良くないはずです。
    だって、彼女はわざわざ井戸に
    人が集まらない時間帯を狙って、
    井戸に水を汲みに来ていたのですから。
    それなのに、水を汲むのを後回しにして、
    水がめを置き、彼女は町へ出て行きました。

    そんな彼女の姿を通して、
    彼女に何やら大きな変化が訪れたことがわかります。
    というのも、彼女が向かった先は町です。
    町にいる人々にイエスさまと出会ったことを
    彼女は伝えに行ったわけですから、
    彼女が向かった先は、人びとが集まる公共の場所です。
    それは、家に帰って、自分の家族や一緒に住んでいた男性に
    イエスさまと出会ったことを
    個人的に報告しに行くことと正反対の行動でした。
    これまで彼女が避けていた、
    大勢の人びとと関わる場所へと
    彼女はこの時に出て行ったのですから。

    この時の彼女の行動は、不自然であるばかりか、
    正直、文化的には全く信じられない行動です。
    というのも、彼女が町で人びとが集まるような
    公共の場所へ出て行ったのであれば、
    そこは基本的に、男性たちが交流を持つ場所でした。
    現代に生きるわたしたちからすれば考えにくいことですが、
    公共の場で、女性が男性と話すことが好まれないどころか、
    基本的には避けられました。
    そのような文化の中で、彼女は
    イエスさまと出会ったことを町にいる人びとに伝えました。
    彼女の行動がいかに驚くべきものだったか、
    食べ物を買い出かけていた弟子たちが
    イエスさまのもとに戻ってきたときに、
    イエスさまがこの女性と話していたことを見て、
    驚いていたことからも明らかです。

    ですから、彼女が水がめを置いて、町へ出て行ったことは、
    彼女自身の変化をとても象徴的に伝える行動でした。
    イエスさまと井戸で出会ったときの彼女は、
    深く傷つき、落胆していました。
    彼女は、夫を立て続けに、失いました。
    それは死別だったかもしれませんし、
    離婚場を突きつけられて、
    男性の側から捨てられたのかもしれません。
    何度も自分の身に起こる不幸から、
    人と関わり合うことをやめてしまいたかった。
    極力、他の女性たちと関わりを持たないように、
    人の集まらない時間帯に井戸に水汲みに来ていました。
    そんな彼女にイエスさまは会いに来ました。
    彼女のこれまでの傷つき、苦しんだ経験を
    イエスさまは知っていてくださいました。
    そして、神はイエスさまを通して、
    彼女に生ける水を与えました。
    彼女が心に抱えた傷を癒やし、
    また再び立ち上がることが出来るように、
    神はイエスさまを通して、彼女と出会いました。

    でも、イエスさまと出会った彼女の変化は、どうやら、
    彼女の心の中でのみ起こったものではなかったようです。
    イエスさまとの出会いは、彼女の行動を変えました。
    彼女は水がめを置きました。
    それはまるで、この水がめがなくても、
    イエスさまを通して与えられた生ける水が自分にはあり、
    イエスさまを通して、心の渇きを癒やされていることを
    象徴しているかのようです。

    そして、彼女に与えられた生ける水は、
    彼女にとって個人的なものとして、
    彼女の内側に留まるものではありませんでした。
    それもそのはずです。
    彼らの文化において、生ける水とは、
    絶えず流れている水だからです。
    彼女の中で神から与えられる生ける水が
    絶えず流れ続けるならば、
    その水が溢れ出すのは、もはや時間の問題です。
    生ける水は、彼女の周囲に流れ始めます。
    事実、彼女は町へ出て行きました。
    生ける水を彼女に与えた神は、
    彼女の心の傷や葛藤や苦しみを癒やしながら、
    彼女を公共の場所へと、
    人びとと関わることのできる場所へと導きました。
    彼女を通して、生ける水は、
    女性と男性が公の場で関わることが難しい、
    文化的な壁を越えて、人びとのもとに届きました。

    そして、彼女の内側からあふれる生ける水は、
    他のサマリア人たちを
    ユダヤ人であるイエスさまのもとに連れていきました。
    彼女がイエスさまと出会ったとき、
    サマリア人とユダヤ人との間には、
    敵意や文化的な衝突がありました。
    サマリア人とユダヤ人は憎しみ合っていました。
    けれども、彼女が町にいるサマリア人たちを
    イエスさまのもとに連れてきたとき、
    そこに反感や争いは起こりませんでした。
    ユダヤ人であるイエスさまの弟子たちは追い出されて、
    イエスさまだけが何とか受け入れられた
    というわけでもありませんでした。
    彼女の内側から生ける水が溢れたとき、
    民族の壁や敵意が生み出してきた溝が埋められ、
    憎しみ合っていたサマリア人とユダヤ人が出会いました。
    このように、彼女のイエスさまとの出会いは、
    彼女に生ける水を与え、彼女の心を癒やしたばかりでなく、
    文化や慣習に抵抗し、民族や性別による壁を越えて、
    彼女の内側から生ける水は人びとのもとへと流れていきました。

    サマリアの女性やその周囲の人びとに、
    イエスさまを通して流れていったこの生ける水は、
    神がわたしたちにも与えてくださっているものです。
    それは、どこかに貯めて保存していた水を少しずつ使い、
    自分の渇きを癒していくものではありません。
    神がかつてわたしたちに注いでくださった、
    愛や憐れみ、人生の導きや救いの恵みを思い起こし、
    懐かしみながら、今この瞬間を歩んでいく経験とは違います。
    今も生きておられ、わたしたちの人生を導いてくださる神は、
    今このときも、変わらずに、わたしたちに愛と憐れみを注ぎ、
    今このときもわたしたちの人生を導き、
    今このとき、この瞬間のわたしたちに手を差し伸べて
    救いの恵みを与えてくださっている方です。
    その意味で、神との交わりを持ち、
    神の恵みを受けているみなさんには今、
    神から生ける水が与えられています。

    サマリアの女性の姿を通して、
    神からわたしたちに与えられている恵みは、
    決して自分たちだけのために
    あるわけではないことに気付かされます。
    神から注がれる水は生ける水です。
    わたしたちの間にだけにとどめて、
    流れないままにしておくならば、
    それは古びた水となってしまいます。
    けれども、神から与えられる水が
    わたしたちの間から外へ外へと流れていくならば、
    この水は文化を越え、常識や当たり前を乗り越え、
    この世界の渇きを癒していきます。

    サマリアの女性を通して、
    生ける水が外へ外へと広がっていく様子は、
    預言者エゼキエルが見た、
    神殿の幻で描かれている光景と重なります。
    エゼキエルが見た光景は、
    神殿から水が流れていくというものでした。
    つまり、神のもとからすべてを生かす水が
    世界へと流れ出ていくという光景です。
    エゼキエルは神殿から流れていく水が
    徐々に水量を増やしていき、
    やがて川になっていく様子を見つめました。
    その川は、命を与え、汚れた川をきれいなものにし、
    大地と植物、そしてそこに住むすべての生き物を生かしました。
    預言者エゼキエルは、
    神のもとから流れ出ていく生ける水が
    わたしたち自身の渇きを癒すだけでなく、
    この世界の隅々に行き渡り、
    いのちを生かしていく希望を描いています。
    そう、わたしたちが神から受け取る生ける水を
    わたしたち自身の中で留めずに、
    この世界に分かち合っていくならば、
    そんないのちに溢れた未来が広がっていくことを
    神は約束されているのです。
    どうかみなさんに神がいつも注いでおられる憐れみや恵みが、
    みなさんを通して生ける水として、
    この世界のあらゆる場所に広がっていきますように。

週報より

  • 2024.05.05 週報より抜粋・要約

  • ① 来週の礼拝後に月例教会役員会をおこないます。
    教会役員のみなさまはよろしくお願いいたします。

    ② 明日、夜7時よりナザレン教会山陽地区主催のオンラインこども集会があります。
    基嗣牧師がこども向けのお話を担当します。
    山陽地区主催のイベントですが、関東地区の教会からの参加も大歓迎です。
    参加をご希望の方は基嗣牧師までお知らせください。

    ③ 5月は神学校月間です。
    今年度、日本ナザレン神学校はおふたりの新入生を迎えました。
    現在、3名の神学生(1年生2名、3年生1名)が在籍しています。
    ナザレン神学校のためにお祈りと献金をお願いします。
    献金袋は受付テーブルの上に置いてあります。

    ④ 来週の礼拝から『交読詩編』の使用を始める予定です。
    『交読詩編』使用のための準備がそろそろ整う予定です。
    来週の礼拝から『交読詩編』を使い始めようと思います。
    来週からは、『交読詩編』と緑の歌集を座席ポケットに入れておきます。

    ・能登半島地震の救援募金にご協力ください(受付テーブルの上にある家の箱)。
    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。

    小山駅・教会間の送迎(9:45東口出発)があります。
    詳しくは牧師にお尋ねください。


  • 以上

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