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朗読箇所

元日礼拝  

旧約 アモス書4:9-13


9 わたしはお前たちを黒穂病と赤さび病で撃ち
お前たちの園とぶどう畑を枯れさせた。また、いちじくとオリーブの木は
いなごが食い荒らした。しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと
主は言われる。
10 かつて、エジプトを襲った疫病を
わたしはお前たちに送り
お前たちのえり抜きの兵士と
誇りとする軍馬とを剣で殺した。わたしは陣営に悪臭を立ち上らせ
鼻をつかせた。しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと
主は言われる。
11 かつて、神がソドムとゴモラを覆したように
わたしはお前たちを覆した。お前たちは炎の中から取り出された
燃えさしのようになった。しかし、お前たちはわたしに帰らなかったと
主は言われる。
12 それゆえ、イスラエルよ
わたしはお前にこのようにする。わたしがこのことを行うゆえに
イスラエルよ
お前は自分の神と出会う備えをせよ。
13 見よ、神は山々を造り
風を創造し
その計画を人に告げ
暗闇を変えて曙とし
地の聖なる高台を踏み越えられる。その御名は万軍の神なる主。


新約 フィリピの信徒への手紙4:8-9

◆勧めの言葉
8 終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
9 わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。

説教

対立、分断、そして未来の見えない世界をどう生きるか

音声はありません

  • 皆さま、新年おめでとうございます。
    恒例の元旦礼拝で、
    このように皆さまと挨拶を交わす幸いを、
    あらためて実感しています。
    昨年は一言でまとめるなら、
    ほんとうにたいへんな一年でした。
    個人と家族に関係する問題や困難があり、
    日本の国家的な問題が山積し、
    世界情勢のさまざまな課題や危機が起き、
    それに新型コロナウィルスが加わりました。
    そうしたことを考えると、
    「おめでとう」と単純に言いづらい年明けです。
    しかし、わたしたちは1月1日という日を、
    新年という暦の区切りとは別に、
    もう一つ祝うべき理由があります。
    きょうは教会の祝日でもあるからです。
    教会に集っている人でさえ知らない人の多い、
    あまり有名ではない祝日ですが、
    意味を考えるととても大切な日です。
    ベツレヘムの馬小屋で生まれた幼子が、
    イエスと名付けられた記念の日だからです。
    ルカによる福音書はその日の出来事を、
    このように伝えています。

    八日経って割礼の日を迎えたとき、
    幼子はイエスと名付けられた。

    クリスマスから八日目のきょう、
    1月1日は主の命名日として祝われてきました。
    世の人は誰も知らず関心も抱かず、
    おそらく幼子と両親だけでひっそりと祝った、
    主の名付けの日。
    両親は天使からこう名付けよと告げられていた、
    その名を、
    イエスという名を、
    この幼子に与えたのでした。
    ひとりの子どもに名が与えられたからといって、
    世界の現実が変わるわけではありません。
    政治も経済も、人々の生活も、
    何も変わらないままで迎えたその日を、
    ヨセフとマリア、そして幼子は、
    どのようにして迎えたのでしょうか。
    その日、ルカによる福音書によると、
    彼らはベツレヘムという村にいました。
    郷里のナザレから遠く離れた村です。
    なぜ子どもが生まれることを知っていながら、
    そんな遠くの村まで旅をしてきたのか。
    彼らはそうせざるを得ませんでした。
    ローマ帝国皇帝の勅令が、
    先祖の地での住民登録を要求したからです。
    そしてヨセフの先祖の地は、
    ユダヤのベツレヘムでした。
    郷里のナザレからは徒歩で四日ほどの距離。
    皇帝が勅令を出すようなことがなければ、
    彼らは自分たちの村ナザレにいたはずでした。
    庶民にはどうしようもない、
    民衆には抗らいようのない巨大な力が、
    彼らの意志や願いとは無関係に、
    彼らにこの旅を強制したのでした。
    旅先で出産してそこに滞在せざるを得ず、
    不本意ながら寄留の民とされました。
    彼らにとって抗らえない巨大な力は、
    ローマ帝国であり、皇帝勅令であり、
    ユダヤ国家であり、律法の規定でした。
    彼らが直面したいろいろな現実の困難は、
    抗らいようのない巨大な力の、
    具体的な表れに他なりません。
    抗らいようのない巨大な力というものは、
    時代を越え、民族や国家を超え、
    形を変えて常に出現してきます。
    昨年、わたしたちはまさしく、
    そのような現実を体験しました。
    新型コロナウィルスの感染拡大が、
    社会を変え、人々の生活様式を変え、
    文化を変え、文明の在り方を変え、
    わたしたちの意識を変えました。
    このウィルスが引き起こしてきた変化は、
    昨年の話で終わることはなく、
    むしろこれからいっそう、
    加速してゆくことになるでしょう。
    日本では昨年までの十年間で、
    政治への期待がほぼ失われ、
    何かを期待してではなく、
    何も期待しないが、
    他よりましだからということが、
    政権や政党の支持率の根拠になるという、
    深刻な変化がもたらされました。
    アメリカはこの一年で、
    わずか一年間で、
    永年の慣習や常識や妥協の作法が破壊され、
    いとも簡単に対立と分断が生み出され、
    癒しがたい断絶をあっという間に築きました。
    不信とフェイク情報が際限なく増殖し、
    対立と分断、そしてフェイクニュースが、
    世界全体に感染拡大してゆく現実を、
    わたしたちは為す術なく見つめています。
    二日前、わたしたちは買い物に出掛けました。
    帰り道、にわか雨が降る中を、
    国道新四号線を南に、
    小山に向かって走っていました。
    頭上には雲が広がっていますが、
    南の方は雲間から日の光が見え、
    明るい方向へと向かっているという、
    喜びと安堵感がありました。
    後ろの北側には黒い雲が広がっていましたが、
    それは過ぎた過去の話です。
    だが、もし目指す方向が逆向きで、
    黒雲の覆う北へと向かっていたとしたら、
    気持ちは正反対になり、
    不安と恐れを感じていたと思います。
    残念ながら、わたしたちは今、
    明るい光の差す方向ではなく、
    未来の見えない世界、
    しかし漠然と黒雲が覆っていると感じる、
    そのような未来へと向かっています。
    そして、わたしたちはそういう世界の住民です。
    そういう世界、これからの現実世界、
    未来の見えない世界。
    それはいずれ来るが、
    今ではない世界の話ではありません。
    今のわたしたちの世界、
    わたしたちが今、
    この新しい年に直面する世界です。
    そのような世界でわたしたちは、
    どう生きるのでしょうか。
    昔、聖家族も同じように、
    対立と分断、
    そして未来の見えない世界を生き、
    しかも旅先での寄留の民でした。
    彼らがどう生きたのかを知ることは、
    わたしたちの手本となるはずです。
    あの聖家族は、
    抗らいようのない巨大な力に、
    正面から立ち向かうような力は持ちませんが、
    自分たちに与えられた使命を果たしました。
    幼子を布で包み、飼い葉桶を寝床に改造し、
    八日目に天使が告げたとおり、
    幼子を「イエス」と名付けたのでした。
    イエスという名は、「神は救う」の意味です。
    この子がやがて世界を救う人となる。
    そのことを信じ、そのことのために、
    今できること、今為すべきことを、
    幼子の両親はおこないました。
    この子が対立と分断、
    そして未来の見えない世界を救う。
    その確信と、希望と、
    神がそれを実現なさることへの信頼を、
    この名付けの行為に込めたのです。
    抗いようのない巨大な力に対して、
    真っ向から対立することは、
    年若い庶民にすぎない夫婦にとって、
    あり得ない話です。
    しかし、彼らは自分たちのできる、
    二通りの仕方で、
    暗黒が覆う不安と恐れに満ちた未来に、
    神への信頼を抱いて立ち向かいました。
    神への信頼を抱いて世の闇に屈しないこと、
    そして、神の御心に適うことを実行すること。
    この二つの生き方です。
    わたしたちも聖家族に倣い、
    同じようにすべきです。
    二つのことを心に留めましょう。
    一つは神に信頼して神に帰ることです。
    きょう、旧約聖書はアモス書から読みました。
    預言者アモスは、
    抗いようのない苦難、
    人の力を超えた禍に直面した時、
    イスラエルの民が神に信頼せず、
    神に立ち帰ることをしなかった、
    その事実を人々に突きつけました。
    それは裁いて見捨てるためではなく、
    抗い難い禍に直面した時に、
    かつてのイスラエルの民が犯した過ちを、
    繰り返すことなく、
    今度こそ神に立ち帰ろうとするためです。
    わたしたちは現代の諸々の危機、
    そして未来の見えない世界を生きるにあたり、
    預言者アモスが告げるように、
    わたしたちは、
    神に帰り、神に望みを託すことによって、
    希望を抱かなくなったりせず、
    今がよければいいという考えに陥ったりせず、
    神が世界を見捨てず救うという確信に立ち、
    神の民として生きることを願いとします。
    もう一つはフィリピの教会に宛てて
    パウロが書き送ったように、
    神の御心に適うことを願いとして、
    善い生き方を心にとめて、
    神の教えを自らの生き方とすることです。
    パウロはわたしたちにこう語りかけるのです。

    すべて真実なこと、
    すべて尊いこと、
    すべて正しいこと、
    すべて清いこと、
    すべて愛すべきこと、
    すべて評判のよいことを、
    また、徳や称賛に値することがあれば、
    それを心に留めなさい。

    この世界でわたしたちは何を心に留めるのか。
    パウロはそのことに注意を向けさせます。
    これからの世界は多くの人々が、
    パウロの言葉とは正反対のものを、
    いっそう心に留めるようになることでしょう。
    対立、分断を深め、それらを増長するものへと、
    人々はいっそう心を向けて、
    敵意と対立、不信と怒りへと、
    一段と煽り立てられることになるでしょう。
    それは世界を破壊し破滅させる道です。
    世界はこれからいっそう、
    人々を互いに敵と味方に仕分けさせ、
    敵を憎み味方だけを愛する世界になり、
    未来がいっそう見えなくなり、
    ただし世界が黒雲に覆われていることだけは、
    誰もが感じて不安と恐れを感じる、
    そういう世界になることでしょう。
    だから、キリストの教えが必要です。
    世界はキリストの教えた、
    和解と赦し、憐れみ深さと愛が必要。
    そして、それらを実行する人が必要です。
    それは誰のことか?
    わたしたちキリストを信じる者のことです。
    わたしたちが、そのように生きるなら、
    平和の神があなたがたと共にいてくださいます。
    この新しい年に、
    平和の神が皆さんと共におられることを、
    心から祈ります。


    石田学牧師


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