小山教会ロゴ

小山教会ロゴ

トップページ  >  礼拝説教・週報  >  神は人の上に人を造らず

朗読箇所

四旬節第2主日  

旧約 創世記1:26-31


26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。


新約 マルコによる福音書10:1-12

◆離縁について教える
1 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。
2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。
4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。
5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。
6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。
7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、
8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。
9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。
11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。
12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

説教

神は人の上に人を造らず

音声を聴く

  • オリンピック組織委員会の前会長が、
    女性差別と受け止められる発言をして、
    その職を辞任した出来事がありました。
    それをきっかけとして、
    男女の共同参画がほとんど実現していない、
    不都合な現実も明らかにされました。
    女性であること自体が何らかの仕方で、
    体力差以外のことで、
    人間性や能力と関連付けられたり、
    性別による役割と結び付けられたり、
    社会的に不利な立場に立たされることが、
    何千年にも亘って世界の現実でした。
    現代でもこうした考えは引き継がれています。
    こうした男女間の違いについての考えは、
    多分に教育の産物だと思います。
    このことと関連して、
    2月26日の朝日新聞に、
    興味深い記事が掲載されていました。
    「ジェンダーを考える」というシリーズで、
    この日の記事の見出しはこうでした。
    「大人の性差意識、生徒会にも」。
    大人が抱く性別による差別意識が、
    学校の生徒会にも反映されてきた現実を、
    この記事は指摘しています。
    小学生のときはほとんど、
    男女の性別による違いは意識されません。
    しかし、中学、高校と進むにつれて、
    男がリーダーになることが、
    社会の在り方として教育され、
    女性は補助的な役割を担う存在だと思い込む。
    大人が子どもたちにそのように教育している。
    そういった内容でした。
    大人が教育しているというのは、
    そのように教え込んでいるというよりも、
    世の中を男性中心にし続けることで、
    その現実で実地教育をしているのです。
    男が上だという考え方は、
    家庭、学校、社会で教えられ、
    体験させられ、すり込まれてゆきます。
    無自覚にそういうものだと信じ込まされ、
    疑いを抱くことなく順応することで、
    男性中心の世の中の仕組みを維持補強する、
    そんな役割を知らずに担うことになります。
    こうした社会の在り方は、
    現代の先進諸国ではだいぶ変わってきました。
    しかし、日本はまだまだ遅れているようです。
    歴史的に見れば、
    男が上、女は従属的という社会が、
    洋の東西を問わず支配的で、
    全人類に共通する在り方でした。
    西欧世界の方が変化は早いようですが。
    そのような観点から考えると、
    創世記1章の天地創造の記述は、
    まさしく驚嘆に値することでしょう。
    創世記1章が現在の形に文書化されたのは、
    今からおよそ2600年前です。
    古代の国家は例外なく軍事国家でした。
    軍事国家だということは、
    男性社会だということです。
    王をはじめ支配者・権力者はみな、
    ほぼ男で占められていました。
    ヘブライ人の国家イスラエルも、
    そうした軍事大国の一つであった、
    新バビロニア帝国によって征服されました。
    住民の中の指導者や貴族、学者らは、
    帝国の都バビロンに捕虜として連行され、
    異国での生活を余儀なくされました。
    「バビロン捕囚」と呼ばれる出来事です。
    その異国の地で、
    補囚とされたユダヤの学者たちは、
    古くからの伝承や文書をまとめ上げ、
    旧約聖書の基となる書物を編纂しました。
    創世記はそうした文書の一つです。
    今からおよそ2600年前の出来事です。
    日本は縄文時代。
    国家らしいものさえ存在してはいない。
    そんな時代です。
    軍事大国バビロンは当然、圧倒的な男性社会。
    年に一度、神が王の上に降臨し、
    王が軍神となって国家を支配したのでした。
    そのような国の捕虜とされた状態で、
    ユダヤ人学者たちは創世記1章をまとめ、
    聖なる文書として創世記を編集しました。
    古代のバビロンもユダヤも完全な男社会で、
    女は支配される存在。
    それ以外の在り方は想像さえできない。
    そのような現実のただ中で、
    創世記1:27は神による人間の創造を語ります。

      神はご自分にかたどって人を創造された。
    神にかたどって創造された。
    男と女に創造された。

    聖書独特の繰り返しを重ねる表現は、
    特に重要なことを物語る時の手法です。
    神にかたどって、
    つまり、神のかたちに創造された事実が、
    この繰り返しによって強調されています。
    「神にかたどって」とはどういう意味なのか。
    驚くべきことに、
    「男と女」であることです。
    神のかたちとは、男と女であること。
    この表現は間違いようのない仕方で、
    男女の究極の対等性を宣言しています。
    2600年前の記述です。
    誰一人、そんなことは夢にも考えない時代。
    だから、誰も理解できなかったでしょう。
    創世記を文書化したラビたち自身、
    自分が書いてまとめたことの意味を、
    充分に理解できていたとは思えません。
    自分が思いもしないことを、
    彼らは神の霊感によって記述したのでした。
    聖書が神の啓示の書だということの意味が、
    とてもよくわかる記述の一つです。
    当然のことながら、
    創世記を聖書として受け継いだ、
    後の時代の学者やラビたちも、
    イエス様の時代のファリサイ派の人たちも、
    創世記の記述が何を意味しているのか、
    ほんとうのところを理解していませんでした。
    だから、申命記という律法の書で、
    モーセが離縁についての規定を書いたことを、
    彼らの常識に照らして判断し、
    モーセは離縁状を書いて離婚することを、
    夫に対して許可したと解釈したのでした。
    それがイエス様の時代にユダヤの人々が持つ、
    常識となっていました。
    ファリサイ派の人々は意気揚々と、
    胸をはってその時代に当然とされた考えを、
    イエス様にむかって答えます。
    「モーセは(夫が)離縁状を書いて
    妻を離縁することを許可しました」と。
    離縁、つまり離婚の宣言は、
    夫に、そして夫にだけ許されている、
    合法的な行為だと考えることが常識でした。
    こうした判断の根底には、
    男が上で女は下、
    男が支配し女が従属するという社会通念が、
    宗教的権威を帯びていた事実があります。
    ことの発端は、
    イエス様のもとにファリサイ派が来て、
    論争を仕掛けたことでした。
    イエス様はいつものように、
    集まった群衆に向かって教えていました。
    するとそこにファリサイ派のラビたちが来て、
    イエス様に尋ねるのです。
    明らかに悪意を込めた質問です。
    「夫が妻を離縁することは合法でしょうか」。
    どうしてこの問いが、
    イエス様を試みる罠なのでしょうか。
    離婚についての記述が、
    まさにこのとおりに律法の書である、
    申命記24章に書かれています。
    イエス様としては、
    離縁することは合法でしょうかと問われたら、
    律法の書にそう書いてあるのだから、
    合法だと答えれば済むことです。
    しかし、ファリサイ派の人たちは、
    イエス様がそう答えることはないと、
    確信してやってきたのです。
    なぜなら、夫が妻を離縁する規定は、
    明らかに男を上、女を下に位置付け、
    離縁の権利を夫だけに認めていたからです。
    イエス様は男と女の間に、
    そのような本質的上下関係を認めず、
    常に対等に接してきました。
    もし、ここでイエス様が、
    夫が妻を離縁するのは合法ではないと答えれば、
    ファリサイ派の人々は大成功を確信するでしょう。
    モーセを否定する冒瀆だと糾弾できますから。
    もしイエス様が反対に、合法だと答えたら、
    イエス様自身が
    男女の間に上下を認めたことになります。
    男が命じ、女が従う主従関係です。
    そして、これはイエス様の言動とは、
    まったく相反することになりますから、
    イエス様が自らの教えを否定することになります。
    なぜなら、イエス様は、
    男女の間に上下の関係を認めず、
    女が教えを聴くことを妨げなかったからです。
    それどころか、イエス様に従う者の中には、
    マグダラのマリアをはじめとして、
    幾人もの女弟子たちがいたからです。
    この、悪質な罠を仕掛けた質問に、
    イエス様はどう対応したでしょうか。
    イエス様は離縁の規定そのものは否定しません。
    しかし、その規定が律法に存在すること自体が、
    人々の罪深さの証明だと言うのです。
    モーセが離縁の規定を書いたのは、
    「あなたがたの心が頑なだからだ」と。
    あなたがたの罪深さに、
    モーセは対応せざるを得なかったから、
    この規定をやむを得ず書いたにすぎない。
    これがイエス様の応答でした。
    人間の罪深さという事実が、
    離縁の可能性を現実にしているというのです。
    イエス様が指摘している問題は、
    妻にも離縁の権利を認めて、
    平等にすれば済むといったことではありません。
    夫と妻の関係に象徴される、
    人と人の関係が、
    罪によって損なわれていることが問題です。
    イエス様は神による人間の創造に、
    人間存在の根拠を置きます。
    神は人を創造したとき、
    神のかたちに、
    すなわち男と女とに創造した。
    このことが明らかにしているのは、
    男と女は上と下の関係ではなく、
    究極の対等な存在として創造されたことです。
    そして、男と女の対等性は、
    性別の間における対等性だけでなく、
    人間存在が対等であることを象徴しています。
    神は人の上に人を造らない。
    それこそが人間存在の大前提であり、
    人間社会の関係性の根源です。
    すべての人は対等な関係性を生きる存在です。
    人間は罪深さのゆえに、
    人と人の関係を上と下に位置付けます。
    夫と妻の関係を上と下に位置付け、
    人を上と下に仕分けして、
    高貴な身分と卑しい身分に区別し、
    王や支配者を見上げさせ、
    彼らは庶民を下に見下ろすことで、
    この世界で人の上に人を造り、
    あらゆる組織や制度のもとで、
    人を上と下に仕分けしています。
    こうして世界そのものが、
    罪の支配のもとに置かれています。
    神の創造の秩序とかけ離れた世界を、
    わたしたち人間は、
    この世に作り上げてきました。
    この世界が神の御心とは程遠い、
    罪深い世界であることの原因のひとつです。
    夫と妻の関係について言えば、
    対等性を生きることこそが、
    神のかたちを喜んで生きることです。
    あらゆる人間関係にとっても、
    同じことが真理として言えるはずです。
    人は皆、対等の、並列の関係であり、
    違いがあるとすれば、
    役割の違いだけです。
    そこには敬意や尊重はあり得ても、
    人間存在としての上下はありません。
    人は人を見上げるべきではなく、
    人を見下すべきでなく、
    ただ神だけを上に置き、
    ただ神だけを見上げるべきであり、
    神の前ではへりくだるべき存在だからです。



    石田学牧師


週報より

  • 2021.02.28週報より抜粋・要約

  • ・先週は年次教会総会を開催しました。
    ご出席くださった皆さま、
    委任状をくださった皆さまに感謝します。
    新型コロナウィルスの関係で出席者は
    例年よりも少なかったですが、
    幸いな、報告と懇談の時を持ちました。
    新年度の教会役員が選出され、
    予算・予定が承認されました。

    ・明日は日本ナザレン神学校の卒業礼拝が
    目黒教会でおこなわれます。
    午前10時30分から、
    両牧師が出席します。
    学牧師は神学校校長としての
    最後の役割になります。

    ・4月からの教会の係を募集しています。
    現在の次年度係申し込み状況を
    会堂後ろの壁に掲示しました。
    多くの方がご協力くださると嬉しいです。
    申込用紙が受付テーブルにありますので、
    よろしくお願いします。

    ・来週は月例教会役員会を開きます。
    旧・新役員合同での役員会です。
    教会役員の皆さまはよろしくお願いします。


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


  • 以上
フッター画像