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朗読箇所

四旬節第3主日  

旧約 イザヤ書11:6-10


6 狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く。
7 牛も熊も共に草をはみ
その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
幼子は蝮の巣に手を入れる。
9 わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように
大地は主を知る知識で満たされる。
10 その日が来れば
エッサイの根は
すべての民の旗印として立てられ
国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。


新約 マルコによる福音書10:13-16

◆子供を祝福する
13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。
14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

説教

神の聖なる山においては

音声を聴く

  • きょうの聖書箇所は、
    子ども祝福式や小児洗礼の時に、
    ほぼ必ず読まれる定番の箇所です。
    そのせいでしょうか。
    これは子どもが祝福される話だと、
    多くの人は思い込んでいます。
    しかし、実際にはこの箇所は、
    神の国とはなにか、
    そして神の国を世に表す教会とは何かを、
    わたしたちに問いかけ、
    考えることを求める聖書箇所です。
    教会は神の国を目指して世を旅する共同体。
    わたしたちはそう理解しています。
    しかし、目指しているはずの神の国とは、
    どのようなところなのでしょうか。
    わたしたちが願い、待ち望む神の国は、
    どのような姿なのでしょうか。
    聖書は全体にわたって、
    神の国を象徴的に表現しています。
    イエス様は神の国をたとえで語ります。
    わたしたちはいろいろなイメージで、
    神の国を思い描いています。
    「もはや死はなく、
    悲しみも嘆きも労苦もない」。
    ヨハネの黙示録はそう語ります。
    パウロはわたしたちが、
    天に国籍を持っていると宣言します。
    イエス様は神の国はからし種のようだと、
    謎めいた言い方をなさいました。
    きょうの箇所も神の国について考える時、
    必ず思い起こすべき重要な箇所です。
    さらに、きょうの福音書の出来事は、
    教会の歴史の中で、
    常に教会を正気に立ち帰らせてきました。
    教会はその始まりから現代に至るまで、
    この世界の在り方、
    この世界での現実、
    この世界の仕組みや考え方に、
    常に侵略され、飲み込まれてきました。
    教会は世の習わしに染まり、
    権力を求めるようになりました。
    教会は世の人々が求めるものを求めて、
    豊かさや富、快楽やぜいたくを願いました。
    教会は王や皇帝と競い合って、
    支配を望み、力を振るおうとしてきました。
    教会の中に階級が作り出され、
    身分の高い聖職者から低い聖職者、
    そして平信徒に至る上下関係が築かれ、
    より高い地位を聖職者たちが願い求め、
    出世の道をひた走る出世争いが、
    教会の中でも現実になりました。
    こうして教会がこの世の一組織のようになり、
    この世の勢力争いの一角を担う現実の中で、
    きょうの福音書の出来事は、
    繰り返し人々に教会のあるべき姿を示し、
    神の国とは何かを思い起こさせ、
    教会が本来の姿へと立ち帰ることを求め、
    教会の改革を促してきました。
    それが教会全体を変えたかと問われれば、
    はいと答えるのは難しいです。
    根底には教会や教会の教えの問題と別に、
    人間の罪と欲の問題があるからです。
    しかし、それでもきょうの箇所が、
    繰り返し教会の歩む道を正そうとする、
    その動きを生み出して来たのは事実です。
    大人の事情、大人の野望や欲望などに、
    教会が翻弄されるたびに、
    「子どものように神の国を
    神の国を受け入れる人でなければ、
    けっしてそこに入ることはできない」
    という主イエスの言葉は、
    人々の信仰的良心に呼びかけ、
    ある人々を衝き動かしてきました。
    教会には、子どもがいなければならない。
    教会には、子どもに象徴される、
    「小さな者」がいなければならない。
    いや、むしろ、
    神の国はそのような者たちのものだ。
    きょうの聖書箇所は時代を越えて、
    わたしたちにそう呼びかけて来ます。
    イエス様がヨルダン川の向こう側で、
    大勢の群衆に教えていたときのことです。
    人々がイエス様に触れていただくために、
    子どもたちを連れてきました。
    弟子たちが彼らを叱って追い返そうとします。
    だって、迷惑でしょう。
    大切な教えが中断されたり、
    子どものはしゃぎ声や泣き声で、
    イエス様の言葉が聞こえにくくなります。
    もっと悪いことに、
    イエス様が子どもの相手をするために、
    教えを中断してしまうかもしれません。
    弟子たちの行動は話を聞きたい大人たちにとって、
    とても親切で思いやりのある行動です。
    でも、弟子たちの行動を見ていたイエス様は、
    弟子たちをほめたでしょうか。
    いいえ。
    イエス様は弟子たちの行動を黙認しましたか。
    いいえ。
    「イエスはこれをみて憤り」・・
    マルコはイエス様の様子をそう伝えています。
    「憤り」とは、うまい訳をしたものです。
    イエス様の怒りの様子が伝わってきます。
    イエス様はどんな時に怒ったでしょうか。
    イエス様は何度か怒りました。
    いちばん有名な箇所は、
    エルサレム神殿での出来事です。
    その時代、神殿には商売人たちがいました。
    神殿で献げる犠牲用の動物、
    羊や鳩などを売る商人がいました。
    傷のある動物は犠牲に捧げられないからと、
    高い値段で傷のない動物を売るのです。
    神殿で献金を献げるために、
    特別な貨幣に両替しなければならず、
    そのための両替商がいました。
    両替の手数料は法外でした。
    神への捧げ物でもうけていることが、
    イエス様の怒りの理由でした。
    そこで、両替商のテーブルをひっくり返し、
    悪徳商人たちを神殿から追い出しました。
    イエス様も怒って暴れるのかと、
    びっくりの出来事です。
    なぜこの時イエス様はそこまで怒ったのか。
    それは、神の国のしるしである神殿が、
    悪徳商法で汚されていたからです。
    神の国とは正反対の現実に対して、
    イエス様は神殿を清めようとしたのです。
    きょうの箇所もまた、
    神の国のしるしとなるべきものが、
    この世の考えで汚された出来事です。
    だからイエス様は憤ったのですが、
    わたしたちはこの箇所に関して言えば、
    イエス様は少し過激に怒りすぎている。
    そんなふうに感じます。
    そこまで怒らなくていいじゃないかと。
    しかし、イエス様にとっては、
    この弟子たちの振る舞いは、
    神の国を否定する行為そのものでした。
    だから、憤りを顕わにされたのでした。
    弟子たちはこの時、こう考えたのでしょう。
    ここは子どもの来るところではないと。
    ここは大人がイエス様の話を聞き、
    しっかりと学び、教えを身に付けて、
    より良く正しく生きる道を学ぶところ。
    子どもはそのためには邪魔になりこそすれ、
    何の役に立つこともない。
    子どもはこの場にふさわしくない。
    何でここに子どもを連れて来るかなあ。
    子どもは子どもだけの場所に集まって、
    子どもタイムを持てばいいじゃないか。
    ここは大人の大切な場所だ。
    そうした考えは、
    この世の常識からすれば、
    当然であり正論なのでしょう。
    実際、世の中には子どもお断りの場所は、
    いろいろな所にあります。
    この時の弟子たちの怒りがよくわかります。
    でも、怒られたのは弟子たちの方でした。
    イエス様が宣べ伝える神の国は、
    この世の常識とは全く異なるからです。
    大人は自分たちを中心に考えて、
    子どもは大人の邪魔だと言います。
    少し寛大な心を持った大人は、
    子どもがいることは仕方が無いと言います。
    子どもがいても良いと許容するかもしれません。
    だが、イエス様は子どもがいてもよいだろうとは、
    このとき言いませんでした。
    子どもが来ても我慢しなさいとも言いませんでした。
    イエス様は正反対を言います。
    神の国はこのような者たちのものだと言うのです。
    子どもと、子どもに象徴される小さな者こそ、
    神の国の主体だからです。
    大人の中に子どもがいることも認める、
    ということではありません。
    強い者の中に弱い者も受け入れる、
    ということでもありません。
    その反対。
    小さな者のものである神の国に、
    強い者も受け入れられる。
    それが神の国というものです。
    この世の仕組みは例外なく、
    強い者、支配する者、上の者が主体です。
    強い者が弱い者を受け入れ、
    支配する者が社会の中に、
    小さい者もいることのできる場所を作る。
    それがこの世の現実です。
    生活保護の申請について、
    ときどき嫌な話を聞くことがあります。
    全員ではないでしょうが、
    一部の担当者が生活保護を申請する人に、
    冷淡に接し、高圧的でいじめに近い対応をして、
    苦しむ人をさらに苦しめる現実があるようです。
    そのような考えの人は明らかに、
    強さを持つ普通の人たちが、
    弱い立場の人を世話してやるという、
    上からの目線を常識としているのだと思います。
    この世界の現実がそこには象徴されています。
    イエス様はそのようなこの世界の現実に対し、
    まったく異なる神の国を望ませます。
    神の国のしるしを表す神の民の群れを、
    この世界に作ることを求めるのです。
    イエス様が思い描く神の国の在り方は、
    きょう旧約の箇所で読んだ、
    イザヤ書11章6−10節に、
    とても象徴的な仕方で、
    もっともよく表現されています。


    狼は小羊と共に宿り
    豹は子山羊と共に伏す。
    子牛は若獅子と共に育ち
    小さい子供がそれらを導く。
    牛も熊も共に草をはみ
    その子らは共に伏し
    獅子もひとしく干し草を食らう。
    乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
    幼子は蝮の巣に手を入れる。
    わたしの聖なる山においては
    何ものも害を加えず、
    滅ぼすこともない。


    この預言の言葉で重要なことは、
    強い者が弱い者を受け入れるのではなく、
    上も下もなく、支配と被支配もなく、
    共に宿り、共に伏し、共に育ち、
    対等に親しく共に生きる現実が、
    やがて神によって作り出されることです。
    すべての者が安心して、
    対等に生きる世界。
    それが主イエスの宣べ伝える神の国、
    そして主イエスに従う者たちの群れの姿。
    だから子どもを追い払おうとした弟子たち対し、
    イエス様は憤ったのでした。
    その神の国を、わたしたちは望み、
    その神の国を目指して、
    わたしたちはこの世を旅しています。
    わたしたちが望み、目指す神の国の在り方は、
    みんなを均一にする世界ではありません。
    みんなが同質化される世界ではなく、
    個性や多様性が否定される世界とは対極です。
    わたしたちが望む神の国は、
    多様性が喜ばれ、
    強弱が上下に分けられる原理にならず、
    それがどのようなものであれ、
    他と違うことが差別を生み出すことがなく、
    互いの存在を対等に喜び合える世界。
    イエス様の弟子たちの群れは、
    そのようであるべきでした。
    教会は、時代を越え文化を越えて、
    常にそうであろうとすべきです。
    イザヤが神の言葉として語る、
    「わたしの聖なる山」は、
    この世界にある教会が自らの在り方として、
    切に願い求める姿です。
    教会、すなわち、神の聖なる山においては、
    何ものも害を加えず、
    滅ぼすこともない。
    神の国の主であるイエス・キリストが、
    霊において教会と共におられるからです。
    わたしたちは、
    神の聖なる山においての現実を、
    この教会で願い、祈り求め、
    実現しようと努めながら、
    神の国を目指して旅してゆくのです。



    説教者 石田学牧師


週報より

  • 2021.03.07週報より抜粋・要約

  • ・きょうはティータイム後、
    月例教会役員会を開きます。
    この役員会は旧・新役員合同の会です。
    今年度役員の皆さま、
    次年度から役員になられる方は、
    付属館にお集まりください。
    おもな議題は感謝会と役員会の引き継ぎ、
    定例報告などです。
    役員会への要望・提案などありましたら
    牧師か役員にお知らせください。

    ・火曜日はナザレン教会の年会が開かれます。
    通常であれば、全牧師・教会代議員が
    出席する大年会ですが、
    今年は新型コロナウィルス感染対策として、
    議決・投票などは書面でおこない、
    希望者だけの出席です。
    小山教会からは直接の出席はせず、
    書面での参加となります。
    教団理事長は、既に
    江上環先生が信任投票で再任されています。

    ・4月からの教会の係申し込み状況を
    会堂後ろに掲示しました。
    とりあえず、お申し込みくださった皆さまで
    4月の予定を組みました。
    受付係とイベント、アッシャーが必要です。
    今から申し込んでくだされば、
    5月以降に加わっていただきます。
    受付テーブルに申し込み用紙がありますので
    お願いします。

    ・来週は月報『モレノ』編集会をいたします。
    原稿の締切も来週ですので、
    担当・ご寄稿くださる方は、
    よろしくお願いします。


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


  • 以上
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