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朗読箇所

四旬節第4主日  

旧約 エレミヤ書9:22-23


22 主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。
23 むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい
目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事
その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。


新約 マルコによる福音書10:17-22

◆金持ちの男
17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

説教

欠けているものは、ただ一つ

音声を聴く

  • きょうわたしたちは、
    使徒の手紙の箇所で、
    テモテへの手紙一、1:15−17を読みました。
    この箇所は使徒パウロが、
    神の救いがどのようなものであり、
    誰が救われるのかということを、
    とても力強く宣言しているところです。


    「キリスト・イエスは罪人を救うために
    世に来られた」という言葉は真実であり、
    そのまま受け入れるに価します。


    ここでパウロは、
    神が救うのは善人でも正しい人でも偉人でもなく、
    罪人なのだと断言しています。
    その上でパウロは、
    「わたしは罪人の中で最たる者だ」と、
    自分自身のことを物語ります。
    この箇所はすべての人々にとって、
    何よりも大きな慰めの言葉に違いありません。
    わたしなど神の救いに価しないと、
    誰一人として思う必要が無いことを、
    わたしたちに証言しているのですから。
    自らの罪に苦しんでいる人、
    自分が神にふさわしくないと考えている人は、
    このパウロの言葉に大きな喜びを見出し、
    神の恵みによる救いへの感謝を抱くでしょう。
    キリストは罪人を救うために世に来られた。
    それだから、このわたしをも救ってくださる。
    そう信じることができるからです。
    罪人を救うために世に来た。
    それこそがキリストが来られた目的であり、
    聖書が確信を込めて証言していることです。
    それなのに、多くの人は自分で勝手に、
    神は立派な人や人格者を救うはずだと、
    そのように思い込んでしまいます。
    永遠の命という栄冠は、
    優れた人や正しい人にこそふさわしい。
    そのように決めつけてしまいます。
    立派に生き、正しい生き方を心がけ、
    清廉潔白な生涯を歩み、
    多くの人から尊敬されている人ほど、
    そのように思い込みやすいものです。
    そういう人たちが傲慢だからではなく、
    救いとは努力と練達によって、
    人格性を向上させて獲得するものだと、
    そのように信じているからです。
    しかし、人間としての立派さが、
    はたして神に意味があるでしょうか。
    どこまで品性と人格を高めたら、
    神に認められるにふさわしくなるのか。
    人間のレベルでは違いがあるとしても、
    天におられる神に届くには、
    人の努力などほとんど無意味です。
    永遠の命にふさわしいかどうかを、
    いったい誰が判断できるでしょう。
    自分自身でしょうか、
    あるいは他の人たちでしょうか。
    ふさわしいと思い込むことはできても、
    真摯に考えれば考えるほど、
    自分がふさわしいと確信できなくなります。
    そもそも、聖書はその反対を物語ります。
    イスラエルの民が神の民として選ばれ、
    神に愛されたのは、
    彼らが偉大な民族だったからではなく、
    優れた人種だったからでもありません。
    むしろ、申命記7:7はこう語ります。


    主が心引かれて
    あなたたちを選ばれたのは、
    あなたたちがどの民よりも
    数が多かったからではない。
    あなたたちは他のどの民よりも
    貧弱であった。


    神が心引かれたのは、
    偉大なアッシリア人ではなく、
    エジプト人でもバビロニア人でもなく、
    弱小な、小さな者たちであった。
    そう聖書は語ります。
    きょう旧約聖書で読んだエレミヤ書も、
    人の知恵、力、富を誇るなと言います。
    それらは神に目を留めていただくことに、
    何の役にも立たないからです。
    そして、イエス様は、
    きょうの出来事の直前に、
    子どもたちを抱き上げて、
    こう言われたのでした。


    はっきり言っておく。
    子供のように神の国を
    受け入れる人でなければ、
    決してそこに入ることはできない。


    この出来事の直後にイエス様は、
    エルサレムへの旅に出ようとされました。
    おそらくその場にいて、
    一部始終を見ていた人の一人なのでしょう。
    イエス様が出発しようとするので、
    この時を逃すことはできないと思い、
    イエス様に走り寄ってひざまづき、
    尋ねたのでした。
    イエス様が告げた言葉の中に、
    神の国に入るという言葉があり、
    まさにそれが彼の願いでしたから。
    どうしたら神の国に入ることができるか。
    どうすれば永遠の命を獲得できるのか。
    そのことを教わりたかったのです。
    真摯に、真剣に問いかけます。


    善い先生、
    永遠の命を受け継ぐには、
    何をすればよいでしょうか。


    この質問には、二つの問題があります。
    一つはイエス様を「善い先生」と呼んだこと。
    もう一つは「何をすればよいか」と尋ねたこと。
    どちらも、永遠の命を獲得するために、
    教えと導きを受けて努力すれば、
    それを獲得できるとの考えが前提になっています。
    どちらも間違っているのです。
    だからイエス様は最初に、
    「善い先生」という呼びかけについて、
    ダメ出しをされました。
    この人が考える善い先生とは、
    永遠の命を受け継ぐために必要な、
    指導と導きを与えてくれる師のことです。
    イエス様はその教えを与える優れた師だと。
    神の国にふさわしい立派な人になるための、
    必要な手引きをしてくれる教師。
    そう確信して尋ねたのでした。
    もっと神にふさわしい者になって、
    永遠の命を獲得するためには、
    あと何をしたらよいのか。
    そのことを教えてもらおうとしました。
    たしかに、より正しい人、
    より善い人になるための手引きなら、
    善い先生が導き教えることができるでしょう。
    しかし、それが、
    イエス様が世に来られた目的ではありません。
    人を永遠の命へと導くことのできる、
    人間の先生などこの世にはいません。
    そもそも、真の意味で「善」と言えるのは、
    ただ神のみです。
    「善い先生」と呼びかけたこと自体が、
    永遠の命が人の努力で手の届くものだと思い込む、
    誤りの表れでした。
    さらに続けて彼は、こう尋ねました。
    「何をすればよいでしょうか」。
    永遠の命を獲得するために必要だと思うことは、
    ほとんど全て実行してきた。
    その自負があってこその言葉です。
    まだ足りないと感じる何か。
    それを教えてほしかったのです。
    永遠の命という栄冠、
    神の国という栄光。
    それを勝ち取りたい。
    この人の切実な思いが伝わってきます。
    イエス様はこの人に向かって、
    律法の書の中から教えを引用しました。
    それは十戒という、
    人が神の民として生きる上で、
    必ず守るべき十の教えから、
    人同士の関係についての部分の抜粋でした。


    殺すな、姦淫するな、盗むな
    偽証するな、奪い取るな、
    父母を敬え。


    善を生きるために、
    他の人たちとどのような関係を生きるのか。
    その手引きをイエス様は引用しました。
    たしかに、これらを守ることは、
    人間社会の中で善を生きるために、
    必ず必要な原則です。
    だが、それらを守っているなら、
    神の国に入ることができ、
    永遠の命を獲得できるのでしょうか。
    イエス様はそんな保証を約束しません。
    この世において善を生きるための、
    必要な手引きを語っただけです。
    イエス様に問いかけた人も、
    そのことは重々わきまえています。
    「そういうことはみな、
    子どもの時から守ってきました」。
    彼はそう答えます。
    彼はたくさんの財産を持っていました。
    それらの財産を蓄えてゆくなかで、
    この人は不正や悪をおこなわず、
    犯罪をおこなわず、他人のものを奪わず、
    まっとうに獲得してきました。
    律法の定めは全部守ってきた。
    心からそう確信しています。
    ぜんぶ守ってきたが、
    それでも永遠の命を獲得するには、
    まだ何かが足りない。
    そう感じたから、
    イエス様のもとにひざまづいて問うのです。
    イエス様もこの人の誠実さと真剣さを認め、
    それだからこそ、
    彼を見つめて、彼を愛して、こう告げます。


    あなたには欠けているものが一つある。
    行って持っている物を売り払い、
    貧しい人々に施しなさい。
    そうすれば天に富を積むことになる。
    それから、わたしに従いなさい。


    このイエス様の言葉は不思議です。
    二通りの命令が与えられます。
    「行って持ち物を売れ、
    そして貧しい人に施せ」。
    もう一つの命令は「来てわたしに従え」。
    欠けているものは一つだと言いながら、
    二つの異なる命令を与えるのです。
    これでは「一つ」とは言えません。
    どういうことでしょうか。
    最初に告げられた命令は、
    この人にとって越えがたいハードルのよう。
    苛酷な命令でした。
    マルコは彼が「たくさんの財産を持っていた」
    そのように伝えています。
    全財産を売り払い、施せ。
    これが彼に欠けている一つのことでしょうか。
    教会の歴史の中で、
    文字通りそのようにした人たちの例は多いです。
    しかし、誰もが皆そうしたわけではありません。
    全財産を売って、貧しい人に施すことが、
    永遠の命を獲得するための絶対条件、
    ということではないのでしょう。
    最初にイエス様は十戒から引用しました。
    殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、
    奪い取るな、父母を敬え。
    これらは人間関係を善く生きる、
    最低限必要な生き方です。
    しかし、ここには愛は入ってきません。
    不当なこと、不正義をおこなわない。
    その意味でこの人は善人です。
    しかし、律法の規定を忠実に守っていても、
    愛がなければ無に等しい。
    愛が、そして愛だけが、
    自分のものを、そして自分自身を、
    他の人々、特に小さな人々のために、
    分かち合い、用いようと願います。
    そうしてはじめて、
    天に宝を積むことになります。
    だから、愛を生きるようになることが必要。
    どうすれば愛を生きるようになるのか。
    イエス・キリストに従うことによってです。
    イエス様は二つ目の命令として、
    「来てわたしに従いなさい」と告げました。
    主イエスに従うことによって、
    愛を生きるようになります。
    愛を生きることによって、
    自分の財産と自分自身を、
    他の人のために用いるようになります。
    だから、主イエスに従うことから、
    すべては始まります。
    そうであるなら、
    イエス様が言われた、
    「あなたに欠けているものが一つある」
    という、その欠けているものとは、
    主イエスに従うことでしかあり得ません。
    実際、この人だけでなく、
    すべての人にとって、
    欠けているものは、ただ一つ。
    主イエスに従うことなのです。
    主イエスに従うことをとおして、
    神に愛されていることを知り、
    神に愛されている者として、
    他の人を愛するようになるなら、
    わたしたちは悪や不正をおこなっていない、
    という正しさの主張だけで満足せず、
    小さな者、重荷を負っている者、
    貧しい人たちへの同情と共感を抱き、
    少しでも分かち合おうと願うことでしょう。
    全財産を売り払い、施せとの命令は、
    そうした生き方への招きを、
    誇張表現で示したものです。
    みんなに要求されていることではありません。
    しかし、その生き方を実践した人たちが、
    教会の歴史の中で大勢いることも事実です。
    ペトロや十二使徒がそう。
    アウグスティヌス、アッシジの聖フランシスコ、
    ヴァルデス、その他、
    大勢の名も知られない修道者たちは、
    「来てわたしに従え」というキリストの言葉を、
    文字通りに実践した人たちです。
    わたしたちは少しだけでも、
    キリストの言葉を受けて、
    なにがしか苦難や困難の中にある人のため、
    持ち物の一部を捧げることは、
    天に宝を積むことになると思います。
    主イエスに従って生きる人にとって、
    大切な生き方の一部ですから。



    説教者 石田学牧師


週報より

  • 2021.03.14週報より抜粋・要約

  • ・きょうはティータイム後、
    月報モレノ編集会を開きます。
    月報の企画、製作に興味がおありの方、
    モレノ委員の皆さまは、
    付属館にいらしてください。
    原稿はきょうが締め切り日です。
    投稿・寄稿は随時募集していますので、
    よろしくお願いします。

    ・きょうは午後1時30分から
    関東地区協議会が開かれます。
    先週の年会についての報告、
    地区の新年度活動がおもな議題です。
    オンラインでの会議ですので、
    学牧師が牧師室から参加します。

    ・明日は日本キリスト教協議会の総会が
    開かれます(オンライン)。
    三年に一度の総会で、
    学牧師が教育部理事長として参加します。

    ・今週金曜日は教育部主催の
    エキュメニズム研修会が開かれます。
    諸神学校を今年度卒業する方たち対象の
    研修会です。 

    ・今週土曜日は月報モレノの印刷・
    製本をおこないます。
    お手伝いくださる方は、
    午後2時に付属館にいらしてください。

    ・4月からの教会の係申し込み状況を
    会堂後ろに掲示してあります。
    とりあえず、お申し込みくださった皆さまで
    予定を組みました。
    もう少し、いろいろな係の
    申し込みが増えるとうれしいです。
    受付テーブルに申し込み用紙がありますので
    お願いします。
    復活祭(4月4日)についてのお知らせ 
    例年は持ち寄りによる食事会を楽しみ、
    その後墓参に行きました。
    しかし、役員会で今回まで
    持ち寄り食事会は控えることにしました。
    教会で昼食を用意し(ランチの会)、
    その後有志で墓参に行きます。


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


  • 以上
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