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朗読箇所

復活の主日  

旧約 イザヤ書56:1-8

◆異邦人の救い
1 主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し
わたしの恵みの業が現れるのは間近い。
2 いかに幸いなことか、このように行う人
それを固く守る人の子は。安息日を守り、それを汚すことのない人
悪事に手をつけないように自戒する人は。
3 主のもとに集って来た異邦人は言うな
主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな
見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。
4 なぜなら、主はこう言われる
宦官が、わたしの安息日を常に守り
わたしの望むことを選び
わたしの契約を固く守るなら
5 わたしは彼らのために、とこしえの名を与え
息子、娘を持つにまさる記念の名を
わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。
6 また、主のもとに集って来た異邦人が
主に仕え、主の名を愛し、その僕となり
安息日を守り、それを汚すことなく
わたしの契約を固く守るなら
7 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き
わたしの祈りの家の喜びの祝いに
連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら
わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
8 追い散らされたイスラエルを集める方
主なる神は言われる
既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。


新約 マルコによる福音書16:1-8

◆復活する
1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。
2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。
5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。
6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。
7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

説教

マルコは衝撃的な二語を最後に告げた

音声を聴く

  • マルコによる福音書ほど、
    衝撃的な終わり方をする文書を、
    わたしは他に知りません。
    二単語で、この福音書は閉じられます。
    「恐ろしかったからだ」。
    なぜ、マルコはこんな言葉で、
    福音書を閉じたのでしょうか。
    そもそも、なぜマルコ福音書には、
    復活の主イエスが現れないのでしょうか。
    天使が告げ知らせる言葉だけが、
    マルコには記録されています。

    驚くことはない。
    あなたがたは十字架につけられた
    ナザレのイエスを捜しているが、
    あの方は復活なさって、
    ここにはおられない。
    ご覧なさい。
    お納めした場所である。
    さあ、行って、
    弟子たちとペトロに告げなさい。
    「あの方は、あなたがたより先に
    ガリラヤへ行かれる。
    かねて言われてとおり、
    そこでお目にかかれる」と。

    復活の主ご自身が出て来ない福音書に、
    後の人たちは疑問を抱き、
    不充分だと感じたのでしょう。
    9節以下は、後の人々が、
    他の福音書に基づいて書き加えた、
    補足の言葉です。
    今日、ほとんどの研究者は、
    8節がマルコ福音書はほぼ間違いなく、
    8節で終わっていたと考えています。
    それは大きな謎を生みます。
    あまりに福音書の最後の言葉としては、
    異常なもののように思われますから。

    そして、誰にも何も言わなかった。
    恐ろしかったからである。

    正気を失うほどの恐怖。
    それはいったい、どういうことでしょうか。
    主イエスは、最後の1週間を、
    都エルサレムで過ごしました。
    もっと正確に言うのであれば、
    日曜日にエルサレムに入り、
    金曜日まで過ごしました。
    金曜日の午後、十字架の上で息を引き取り、
    日没までに大急ぎで墓に収められました。
    ユダヤは一日の始まりが日没からで、
    次の日土曜日は安息日、
    労働してはならない日でしたから。
    日が沈んでからでは、
    遺体の引き降ろしも埋葬もできませんから。
    主イエスはエルサレムに入る前、
    都に上ることを心に決めた時から、
    三度、弟子たちに受難予告をしました。
    言い方は少し違っていても、
    内容はだいたい同じです。
    ご自分は捕らえられ、
    祭司長や律法学者に引き渡され、
    殺され、三日目に復活する。
    そうしたことを語り伝えたのでした。
    三回の受難予告を聞いた弟子たちの反応は
    毎回少しずつ異なっていきます。
    最初の予告の時には、
    ペトロがイエス様を諫め始めました。
    「そんなことを言うのはやめてください」と、
    主イエスを叱るほどの激しい反応でした。
    二度目の時には、
    弟子たちは意味がわからず、
    恐れを抱いたとマルコは伝えます。
    三度目に主イエスは、
    いちばん詳しく受難を告げました。
    主イエスが従う人たちの先頭に立って、
    エルサレムへと向かうことを知り、
    弟子たちは恐れを抱きます。
    エルサレムには危険が待ち構えていますから。
    そこでイエス様はまもなく到着する都で、
    いったいどのようなことが起きるのかを、
    詳しく語り告げたのでした。
    三回の受難予告を聞いた弟子たちは、
    主イエスの言葉の意味を理解したでしょうか。
    ふつう、同じことを三回も言われれば、
    いいかげん理解してよさそうなものです。
    しかし、理解したかと問われれば、
    答えは「いいえ」でした。
    弟子たちは理解できなかったのです。
    それどころか、
    来週の説教箇所になりますが、
    35節以下を見ると驚かされます。
    弟子たちは主イエスの言葉の意味を悟らず、
    自分たちに都合のよいことだけを、
    主イエスの言葉から聞き取ったのでした。
    苦難と十字架の死。
    それ自体は確かに弟子たちに不安を与えます。
    しかし、それに続く復活の予告が、
    弟子たちに主イエスの栄光を予感させます。
    そこで、苦難と死の予告はそっちのけで、
    栄光を受ける時には、
    自分たちもその栄光に預からせてほしいと、
    ヤコブとヨハネが願い出たというのです。
    しかも、それを聞いた他の弟子は怒ります。
    不謹慎だというのではなく、
    おそらく抜け駆けに対しての怒りです。
    まったく見当外れな応答でした。
    なぜ、三度も受難予告を聞いたのに、
    弟子たちは無理解だったのでしょうか。
    弟子たちが例外的に物わかりが悪かったから、
    ということではなさそうです。
    人は誰でも、自分の常識でものごとを考えます。
    人は皆、自分が生きているこの世界の中で、
    世界とはこういうものだと信じ、
    その中で生き、考え、ものごとを理解します。
    その理解には合わない出来事を、
    人の精神はほとんどの場合受け入れません。
    いや、むしろこう言うべきでしょうか。
    人はたいていの場合、
    自分がこうであってほしいと願う願望、
    またこうだと信じたいと思うことを、
    この世界の常識と、
    この世界での体験の範囲の中で信じるものです。
    主イエスによる受難予告を聞いた弟子たちは、
    まさしくそのように反応しました。
    メシアと信じている主イエスが、
    捕らえられ、引き渡され、殺される?
    そんなことがあってはならないし、
    そんなことはあるはずがない。
    その否定が最初の反応でした。
    やがて、弟子たちは心配になります。
    もし、主イエスの予告が現実になったら、
    どうしたらよいのかと。
    そこで弟子たちは恐れを抱くのです。
    弟子たちにとっては、
    主イエスの受難、殺されることは、
    リアルな可能性でした。
    イエス様を憎み、敵意を向け、
    殺そうと企む人たちがいましたから。
    しかし、復活は?
    復活の予告は、もっとも非現実的、
    そのようにしか思われなかったはずです。
    この世界の常識ではあり得ず、
    復活が現実にあったためしはないからです。
    主イエスは三度とも復活を予告しました。
    しかし、弟子たちは驚くほど、
    復活については関心を払いません。
    最後の予告のときも、
    復活そのものよりも、
    栄光にあずかりたいとの願望だけが、
    弟子たちの心を占めることになりました。
    復活の予告を、
    弟子たちはまともにとりあわなかったのです。
    この世界の常識、この世界の法則にはなく、
    この世界で起きることの可能性の中に、
    復活というものはなかったからです。
    主イエスに従ってきた人々も、
    この世の常識に基づいたことをします。
    金曜日の午後に息を引き取った主イエスの亡骸を、
    アリマタヤのヨセフという人が代表して引き取り、
    大急ぎで新しい墓にひとまず納めたのでした。
    土葬ではありません。
    斜面をくり抜いて作った空洞の中の台に、
    死者の亡骸を横たえるのです。
    腐敗が進み、ミイラ化し、あるいは骨になると、
    空洞の中に掘られた穴に収めるのです。
    ふつうは葬りの儀式をおこなってから、
    墓に収めます。
    香油を塗り、布でくるみます。
    しかし安息日が迫る中で、
    時間がなかったため、
    簡単に布で巻いただけ。
    仮埋葬しかできませんでした。
    そこで、安息日を終えた日曜日の早朝、
    三人の女性が墓を訪れます。
    やはり、この世の常識に基づいて、
    改めて亡骸に香油を塗り直し、
    葬りにふさわしい処置を施すために。
    死はすべての人の現実です。
    しかし、人は誰も、
    ほとんどの場合、
    死とは関わりがないかのように生きています。
    頭では死の時が来ることを理解しています。
    しかし、死は現実とはならず、
    遠い先の観念的なものにすぎません。
    だから人はふだん、日々の生活を、
    死への恐れ、死と向き合う不安を抱かず、
    自分とは関係ないことのように生きています。
    だが、それはあるとき、劇的に変わります。
    大切な、愛する誰かの死に直面する時に。
    あるいは自らの死が訪れる時に。
    三人の女性たちは、
    そしてここには登場しませんが、
    主イエスに従ってきた弟子たちは、
    イエス様の死を、
    しかも苛酷で凄惨な死を目の当たりにし、
    愛する方の死に向き合わされたその時、
    この世界の重大な、そして逃れようのない、
    死という現実に直面させられました。
    悲嘆と共に墓を訪れた三人の女性は、
    しかし、そこで告げられるのです。

    あの方はここにはいない。
    復活なさったのだ。

    そのことを主の使いから告げられた女性たちは、
    その場から逃げ去ります。
    マルコは彼女たちのその時の様子を、
    このように伝えています。

    震え上がり、正気を失っていた。

    天使は女性たちにこう告げました。

    行って、弟子たちとペトロに告げなさい。

    しかし、彼女たちはすぐには、
    誰にも言うことができませんでした。
    なぜか。
    その理由をマルコは二つの単語で伝えます。
    そして、この二語が福音書の最後の言葉です。

    恐ろしかったからだ。

    この、まったく異様な言葉で、
    マルコ福音書はいったん幕を閉じます。
    しかし、この二語、「恐ろしかったからだ」
    というこの言葉は、
    わたしたちにその先の成り行きを思わせます。
    福音書が書かれたのは西暦の60年代。
    この出来事から三十年以上経った頃です。
    福音書を読む人々は、
    その先どうなったかをみんな知っています。
    恐れが少し収まると、
    女性たちはペトロや弟子たちに、
    墓場での体験を告げ知らせます。
    そこには主イエスはおられなかった。
    主の使いが、あの方は復活なさった、
    ガリラヤでお会いできると告げられましたと。
    福音書よりも少し前、
    50年代にパウロはコリント教会に手紙を書き、
    その中でこのように証言しています。

    もっとも大切なこととして
    わたしがあなたがたに伝えたのは、
    わたしも受けたものです。
    すなわち、キリストが、
    聖書に書いてあるとおり
    わたしたちの罪のために死んだこと、
    葬られたこと、
    また聖書に書いてあるとおり、
    三日目に復活したこと、
    ケファに現れ、
    その後十二人に現れたことです。
    次いで、五百人以上もの兄弟たちに
    同時に現れました。(1コリント15:3-6)

    では、なぜマルコは、
    肝心な復活の主イエスの現れを語らず、
    なんとも異様な言葉、
    「恐ろしかったからだ」で福音書を終えたのか。
    その理由はわたしたちの体験と関係があります。
    わたしたちはこの世界の常識、
    この世界での日常の体験が全てだと信じ、
    それを前提として生きています。
    それが壊され、失われる時、
    恐れを抱かないでいられるでしょうか。
    きのうときょうのような日々が、
    明日もあさっても、一年後も、
    もっと先までずっと続くかのような、
    そういう常識を生きていないでしょうか。
    それがあるとき突然、
    そうではないことを実感させられたら、
    どうなるでしょうか。
    弟子たちも従う人々も女性の弟子たちも、
    みんな主イエスと共にいる日々を生き、
    そのような日々がずっと続くかのように、
    思い込み、当然のことのように感じていました。
    だから、受難予告など聞きたくないし、
    そんなことは信じたくはなかったのです。
    危険があるかもしれないと感じ始めたとき、
    恐れと不安が生じます。
    しかし、それが実際に起きた時の衝撃は、
    どれほど大きかったことか。
    他の福音書によれば、
    弟子たちは皆、恐れに囚われて、
    鍵を掛けた部屋に閉じこもったのでした。
    死が現実になるとき、
    何がもたらされるのでしょうか。
    それは、自分の存在すべてが、
    あるいは自分の存在の中でもっとも大切な、
    拠り所が失われる恐怖ではないでしょうか。
    三人の女性が墓を訪れます。
    彼女たちの魂は、
    愛する導き手を失った現実によって、
    深い嘆きと悲しみの中にあります。
    とりあえずはきちんとした葬りを。
    その一途で墓に来ます。
    しかし、そこでさらなる常識、
    この世界はこういうものだと思っている、
    その決まり事が打ち砕かれることを、
    主の使いから告げ知らされたのでした。
    あの方は復活なさった。
    死んで終わるのであれば、
    彼女たちにとってはなじんだ世界の現実です。
    しばらく悲嘆に暮れ、葬りをきちんとおこない、
    そこから先は時間を少し掛けて立ち直り、
    また残された自分の時間を生きて行くだけ。
    予測できるこの世界の現実が、そこにはあります。
    だが、まったく想定外の現実が告げられます。
    あの方は復活なさった!
    ガリラヤに行け、
    そこであの方と会うことができる。
    この世界の常識で考えることのできる未来と、
    天使が告げる未来は、
    なんと大きく異なることでしょうか。
    主イエスはよみがえられ、
    これから先、復活の主とお会いして、
    復活の主イエスと共にこの世を歩む。
    その未来を生きることになるのですから。
    わたしたちは、この女性たちと、
    そして復活の主と会い、
    共に生きることになった弟子たちと、
    同じ体験をしているのです。
    復活の主イエスは今もわたしたちと共にいて、
    わたしたちのこの世の旅を共に歩んでおられる。
    復活の主イエスと共に歩む人は、
    主の復活の命と結ばれて、
    死が終わりではなく、復活の命にあずかっている。
    そのような体験をして今生きているわたしたちが、
    恐れを抱かないでいられるでしょうか。
    復活の望みを抱いて生きずにいられるでしょうか。
    きょうは復活祭。
    主キリストのご復活を喜び、
    主キリストを死からよみがえらせた神をあがめ、
    この世の常識ではあり得ない旅を続けましょう。
    主キリストと共に天の御国に行く時まで。



    説教者 石田学牧師


週報より

  • 2021.04.04週報より抜粋・要約

  • ・きょうは「復活祭(イースター)」です。
    天の父なる神は、わたしたちを罪の支配から取り戻し、
    神の子として天に国籍を持つ者としてくださるために、
    御子キリストを世に遣わし、
    わたしたちのために教え、病を癒し、
    わたしたちのために十字架で死なれ、
    よみに降り、 
    三日目によみがえられました。 
    信仰によって主キリストと共に
    一つに結ばれているわたしたちは、
    キリストの復活の命にあずかり、
    共に神の子とされていることを信じます。
    きょうは復活祭、
    わたしたちにとって大切な喜びの日です。
    ・きょうは主イエスのご復活を祝い、
    午後は墓参に行きます。
    教会で昼食を用意しましたので、
    よろしければ食事を共にしながら
    主のご復活を祝ってください。
    きょうは座席を動かさず、
    このままで食事会をします。   
    食事の準備をお手伝いくださる方は
    よろしくお願いします。
    食事の準備をしている間、
    子どもたちは「たまごさがし」をします。
    くわしくは学牧師が説明します。 
    食事の前2,3分ほど、
    教会役員会を開きますので、   
    教会役員の皆さまは、
    前方オルガンの近くにいらしてください。
    ・イースター献金をよろしくお願いします。
    世界宣教と、施設などへの募金と、
    教会の働きに用いさせていただきます。
    献金袋が受付テーブルにありますので、
    ご利用ください。
    ・東京キリスト教大学の学生さんが
    教会派遣で礼拝に参加します。
    オンラインでの参加になりますので、
    直接会うことはできませんが、
    覚えてお祈りください。


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


  • 以上

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