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朗読箇所

復活節第2主日  

旧約 イザヤ書40:3-5


3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え
わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
4 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
5 主の栄光がこうして現れるのを
肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。
既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。


新約 マルコによる福音書10:35-45

◆ヤコブとヨハネの願い
35 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
39 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
41 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

説教

主イエスと共にいる、今もそして永遠に

音声を聴く

  • 二人の弟子がイエス様の前にやってきます。
    兄弟で弟子になった、
    ゼベダイの子ヤコブとヨハネ。
    彼らはペトロと同じ日に、
    最初にイエス様の弟子になった者たちです。
    一番長く主イエスと共に過ごし、
    一番多く教えを聴いてきた二人。
    ペトロとヤコブ、ヨハネは、
    弟子たちの中でも特別でした。
    他の弟子たちをおいて、
    この三人だけが呼ばれることもありました。
    高い山に上られた時も、
    イエス様はこの三人だけを連れて行きました。
    弟子たちの中でも特別に信頼されている、
    特別な弟子でした。
    それにもかかわらず、
    彼らはなんとイエス様のことについて、
    無理解であったことでしょう。
    ヤコブとヨハネがイエス様の前に進み出たのは、
    イエス様が三度目の受難予告を告げた、
    その直後のことでした。

      引き渡され、死刑を宣告され、
    異邦人に引き渡され、
    彼らは人の子を侮辱し、唾をかけ、
    鞭打ったうえで殺す。
    そして、人の子は三日の後に復活する。

    この受難予告を聞いたから、
    ヤコブとヨハネはイエス様の前に来ました。
    ある願い事をしてかなえてもらうために。
    その願い事とは、こんなことでした

      栄光をお受けになるとき、
    わたしどもの一人をあなたの右に、
    もう一人を左に座らせてください。

    「三日の後に復活する」という言葉が、
    そしてこの言葉だけが、
    彼らには印象深かったのでしょう。
    「復活する」ということは、
    主イエスがメシアとしての栄光を受け、
    世界を治める支配者、王として君臨する、
    その実現の時に違いないと考えたのでしょう。
    その時には主イエスは天の玉座に座り、
    世界を支配するようになる。
    もうその時は近い。
    そう信じた二人はただちにやってきます。
    他の弟子たちに先を越されてはなりませんから。
    自分たちを主イエスの右と左の座に。
    ずうずうしくもそんな願いをしたのでした。
    洋の東西を問わず、王の右と左は、
    王の代理、王に次ぐ権力者の座です。
    もっとも高い地位の二つを、
    兄弟で占めたいと考えたのでした。
    その時、主イエスが受難予告で語られた苦難、
    引き渡され、侮辱され、唾をかけられ、
    鞭打たれ、殺される
    という衝撃の予告は、
    彼らの眼中には入っていませんでした。
    そもそも、彼らだけでなく、
    多くの弟子たちが主イエスに従ってきたのは、
    この方こそメシア、救い主として、
    世界を支配し統治する方だと信じたからです。
    栄光のキリストが世界を治め、
    自分たちはその栄光にあずかることになる。
    そのことを目指してきました。
    ヤコブとヨハネは主イエスの栄光を担う、
    その地位と立場を得たいと望んだのでした。
    これこそ二人の最大の願いであり、
    主イエスに従ってきた目的です。
    これまで主イエスの教えを聴き、
    主イエスがおこなわれる力ある業が、
    憐れみの故であることを見て来ました。
    憐れみ深くあること、
    悪霊を追い出すこと、
    病を癒すこと、
    幼子のように神の国を受け入れるべきこと、
    仕える者となるべきこと。
    それらを教えられていながら、
    弟子たちは自分たちが欲しいと願うものを、
    イエス様からいただくことだけを考えます。
    お願いが最初に出て来ます。
    そんな弟子たちを滑稽だと思うでしょうか。
    いいえ、彼らの姿はわたしたちの姿です。
    わたしたちも自分の祈りを思い返せば、
    ほとんどお願いばかりですから。
    神さま、安全をください、
    健康を支えてください、
    病をいやしてください、
    いましていることがうまくいきますように、
    繁栄、成功、合格、勝利、
    お願いは尽きません。
    わたしたちの手の及ばないこと、
    自分でコントロールできないことを、
    神に祈り、お願いすることは、
    わたしたちの神に対する信頼の証です。
    しかし、あまりふさわしくないお願いも、
    中にはあることでしょう。
    ヤコブとヨハネのお願いは、
    そうしたふさわしくない願いの一つでした。
    「わたしたちの一人を右、一人を左に」。
    他の弟子たちを差し置いて、
    自分たちをより高い位に就けてほしい。
    そんな願いなのですから。
    彼らの考えの中にあったのは、
    救い主がもたらす世界は、
    この世界の延長線上だということでした。
    序列があり、地位の上下があり、
    身分の高低、権力の大小があり、
    一部の人が大きな支配を持つ。
    そんな世界の到来です。
    その来たるべき世界の中で、
    自分たちがより高い地位、大きな権力、
    栄光と栄誉、称賛を手に入れたい。
    その願望を抱いたのでした。
    権力のための権力、
    栄光のための栄光を求めました。
    それではまるで、
    イエス様が世に来られたのは、
    ある人たちに成功と出世をもたらして、
    新たな、しかした支配者が入れ替わるだけの、
    別の支配と権力を作り出す、
    そんな目的のためであるかのようです。
    とんでもない願い事をされたイエス様は、
    二人を叱りつけ、追い出したでしょうか。
    イエス様の反応は驚くほど穏やかでした。
    もちろん、二人の無理解を指摘します。

      あなたがたは、自分が何を願っているか、
    わかっていない。

    どういうことでしょうか?
    二人は自分たちが何を願っているか、
    よくわかってお願いしているはずです。
    「何を願っているかわかっていない」とは、
    どういう意味なのでしょうか。
    願っていることがらの話ではなく、
    イエス様は彼らのこの願いが、
    はたして主イエスに願うべきことなのか、
    はたして主イエスがかなえるはずのことなのか、
    もしこの願いがかなえられるとすれば、
    それがどんな来たるべき世界をもたらすのか、
    そのことがわかっていない、
    という意味ではないのでしょうか。
    実際、彼らの願っていることは、
    この今の世界そのもの、
    この世界の現実をそっくりコピーして、
    ただ権力者・支配者を入れ替えるだけ、
    そういう世界の実現なのですから。
    主イエスがなぜこの世に来られたのか、
    何をもたらすために来られたのか、
    主イエスの弟子であるとはどういうことか、
    そうした肝心なことをわかっていないのです。
    もちろん、わかっていないのは、
    この二人だけではなく全ての弟子がそうです。
    この無理解なヤコブとヨハネに、
    イエス様は一つの問いを投げかけます。

      きみたちは、わたしの杯を飲み、
    わたしの洗礼を受けることができるか。

    主イエスの杯、それは受難を指しています。
    主イエスの洗礼、それは十字架の死を意味します。
    しかし、ヤコブとヨハネはそのことがわからず、
    右と左の座に座る資格を得るためには、
    少しの試練や厳しい訓練も厭わない。
    その思いで「できます」と即答します。
    この時の彼らの思いと考え違いを越えて、
    やがて彼らが、そして弟子たちが、
    主イエスの杯を飲み、
    主イエスの洗礼を受けることになるのを、
    イエス様は予めご存じです。
    だから二人に告げます。
    「たしかにそうなるだろう」と。
    しかし、それは主イエスの右と左に座る、
    その資格を保証するわけではありません。
    栄光の権力の地位を得る条件でもありません。
    イエス様は不思議な言葉を告げます。

      わたしの右や左にだれが座るかは、
    わたしの決めることではない。
    それは、定められた人々に許されるのだ。

    「定められた人々」と訳された言葉は、
    直訳すれば「そのように備えられた人々」。
    これがだれなのかを主イエスは言いません。
    しかし、主イエスのために備えられた人々、
    ということであれば、
    弟子として神に召された人々、
    つまりすべての信仰者と考えることができます。
    そうであるとすれば、
    主イエスの右と左に座るのは、
    一部の弟子たちということではなく、
    すべての弟子たちということでしょう。
    そして、それこそはまさに、
    主イエスと弟子たちの姿ではなかったでしょうか。
    イエス様は弟子たちの中に階級を作らず、
    序列を設けず、
    上下関係や身分を定めませんでした。
    特別に十二人を呼び出しましたが、
    彼らを他の弟子たちや従う者たちの上に置かず、
    他の人々を支配する役目を与えませんでした。
    それどころか、
    十二人は人々に仕える役目を担いました。
    五つのパンと二匹の魚で五千人を養ったとき、
    十二弟子は人々をグループに分けて、
    みんなにパンと魚を配って回る、
    仕え人として働きました。
    そして、十二人はと言えば、
    いつも主イエスと共にいて、
    主イエスの右に、左に、前に後ろに、
    いつも座っていたはずです。
    栄光を受ける時には右と左に、
    などと願う必要はなく、
    この世の日々の中ですでに、
    いつも主イエスの右にも左にも座りました。
    主イエスと共にいる、ということは、
    そういうことでした。
    それはこの地上での日々だけでなく、
    天の御国においてもそうです。
    今もそして永遠に、
    主イエスとの交わりにおいては現実です。
    他の弟子たちもやはり無理解でした。
    だから他の十人は、
    二人が抜け駆けをして高い地位を求めたことで、
    二人に対して怒ります。
    そこで、主イエスは弟子たちを呼び寄せて、
    主の弟子であることの意味を教えました。
    この世界では、上下の序列、
    身分や地位の高低が定められ、
    人が人を支配し、上に立って君臨します。
    その象徴が、
    支配者が支配し
    偉い人が権力を振るうという現実です。
    そのことによって、この世界には、
    強者と弱者が分けられ、
    勝者と敗者が生まれ、
    持つ者と持たない者の階級ができ、
    それが人の欲と結びついて、
    この世界を罪深いものにしています。
    世界を過度の競争に駆り立て、
    いかに多くを持つかを競わせ、
    支配、差別、不公正がこの世界の原理となって、
    世界を神から遠ざけています。
    それがどれほど理不尽で無慈悲なことか。
    正義、公平、共存をいかに破壊していることか、
    預言者たちはよく知っていました。
    だから預言者は、神の啓示を受けて、
    終わりの時、メシアが来るときに実現する、
    新しい世界の幻を語ってきました。
    イザヤは40章でこう預言するのです。

      谷はすべて身を起こし、
    山と丘は身を低くせよ。

    すべて平らになる。
    今の世界とはまったく異なる世界が、
    メシアによってもたらされる時が来る。
    預言者はそのことを預言しました。
    主イエス・キリストはその実現のために来ました。
    神の御子であるのに、
    天から人の低さに下り、
    人々を仕えさせるのではなく、
    自ら人々に仕える者となり、
    人々の病と傷を負い、
    世の罪をことごとく負う仕方で仕えるために。
    主イエスに召し出され、
    弟子として共に過ごしている十二人は、
    そのことを知り、体験してきたはずです。
    主イエスのもとで、主と共にいることは、
    上下も高低も支配も服従もなく、
    もうすでに主イエスと共にいることで、
    主の右にも左にも座っているという現実を。
    上下のない関係、
    主が共にいて歩んでくださっているという現実、
    今も共におられる主イエスは、
    わたしたちの右に、左に、前に、後ろにおられる。
    そのことをパウロは、
    「キリストにあって」
    「キリストの内にあって」
    「キリストがわたしたちの内におられて」
    そのように表現しました。
    主イエスと共にいる、
    その現実を、今わたしたちは生きています。
    それは今だけでなく、永遠における、
    主イエスとの関係の形なのです。



    説教者 石田学牧師


週報より

  • 2021.04.11 週報より抜粋・要約

  • ・先週の復活祭はさいわいな一日でした。
     共に礼拝で主のご復活を祝い、
     昼食を共にして、       
     墓参は三箇所を回ることができました。             
     天候が心配でしたが、
     雨に降られることもなく、       
     ひととおり墓地を巡って、
     祈りの時を持つことが出来ました。
     墓参にご同行くださった皆さまには
     感謝します。 

    ・4月になりました。 
     新しい学校に進学された方、
     進級した子どもたち
     おめでとうございます。
     4月から新たな生活が始まった方たちに、
     祝福を祈ります。

    ・学牧師は今週、
     二つのオンライン会議があります。
     火曜日は「礼拝と音楽」誌編集会議、
     金曜日はナザレン教会の、
     アジア太平洋地域神学教育課程諮問委員会の会議。

    ・東京キリスト教大学の学生さんが
     教会派遣で礼拝に参加します。
     オンラインでの参加になりますので、
     直接会うことはできませんが、
     幸いな実習ができるようお祈りください。

    ・きょうはティータイム後に
     月報「モレノ」編集会を開きます。
     モレノ・チームの皆さまは
     付属館にいらしてください。   

     見学、お茶飲み参加も歓迎します。

    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


  • 以上

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