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朗読箇所

復活節第4主日  

旧約 ゼカリヤ書9:9-10

◆諸国民の裁きとイスラエルの救い
9 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。
10 わたしはエフライムから戦車を
エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ
諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ
大河から地の果てにまで及ぶ。


新約 マルコによる福音書11:1-11

◆エルサレムに迎えられる
1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
3 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」
4 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。
5 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。
6 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。
7 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
8 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。
9 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、
祝福があるように。
10 我らの父ダビデの来るべき国に、
祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
11 こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

説教

主イエスと共に歩むって、どういうこと?

音声を聴く

  • それにしても、きょうの福音書の出来事は、
    なんと言ったらよいことか。
    こんな奇妙でちぐはぐな行進が、
    他にあるでしょうか。
    イエス様と弟子たちが、
    そして従って来た大勢の群衆が、
    エルサレムを目指して進んでゆきます。
    ヨルダン川を渡ってエリコを過ぎると、
    あとはほとんど人家のない街道が、
    エルサレム近くまで続きます。
    弟子や群衆は、エルサレムが近づくにつれて、
    高揚した気分になってゆきます。
    神の聖者、救い主、メシアがエルサレムに入る。
    それはまさに、詩編が高らかに歌う、
    世の終わりに起きる出来事、
    王の入城、救い主の都入りに違いない。
    その確信が高まってゆくのです。
    人々は自分たちの上着を道に敷き、
    あるいは葉のついた枝を切り出して来て、
    それを主イエスがとおる道に敷きます。
    レッドカーペットならぬ、
    グリーンカーペットです。
    感極まった人々が歓喜の声を上げます。


    ホサナ。
    主の名によって来られる方に、
    祝福があるように。
    我らの父ダビデの来たるべき国に、
    祝福があるように。
    いと高きところにホサナ。


    こうした歓呼の声に包まれて、
    主イエスはいったいどうしているでしょうか。
    主イエスは子ろばに乗って、
    沈黙の内に進んでゆくのです。
    たしかに、イエス様と弟子や群衆は、
    そこにいっしょにいて、いっしょに歩みます。
    だが、両者はあたかも、
    別の次元にずれて存在しているかのようです。
    群衆はろばに乗るイエス様の沈黙の姿に目もくれず、
    イエス様は群衆の興奮に何の関心も示さず、
    黙々と進んでゆかれるのです。
    同じ場所にいて、いっしょに歩んでいるのに、
    異次元に存在している両者が、
    別々の次元のまま、ただ重なり合っているだけ。
    そんな印象を抱くのはわたしだけでしょうか。
    イエス様と一行は、
    エルサレムまであと数キロの所に来ています。
    丘の上にある町エルサレムは、天然の要塞都市。
    エリコからの街道は、
    小高い丘に差しかかります。
    オリーブ畑があることから、
    オリーブ山と呼ばれる丘の連なりに出ます。
    この丘を越えると、
    キドロンの谷へと下り、
    その谷からエルサレムを見上げて、
    一気に上るのです。
    オリーブ山のふもとには、
    二つの村が並んでいます。
    ベトファゲとベタニア。
    この二つの村はエルサレムの手前にある、
    最後の村になります。
    エルサレムに向かって向こう側がベトファゲ。
    だから先にベタニアに入ることになります。
    この村へと入ってゆくその途上で、
    イエス様は二人の弟子を呼び、
    風変わりな指示を与えました。


    向こうの村へ行きなさい。
    村に入るとすぐ、
    まだ誰も乗ったことのない
    子ろばのつないであるのが見つかる。
    それをほどいて、連れて来なさい。
    もし、だれかが、
    「なぜ、そんなことをするのか」
    と言ったら、
    「主がお入り用なのです。
    すぐここにお返しになります」
    と言いなさい。


    もしあなたがろばの持ち主だったら、
    こんなことで連れて行かせますか。
    ふつうは、あり得ないことです。
    ろばの持ち主は、この言葉の中に、
    特別なことを感じ取ったに違いありません。
    「主がお入り用だ」。
    この言葉に、終わりの日に訪れる、
    メシアである主が必要としている。
    そのような特別な神聖さ、
    そしてメシアと関係しているという、
    威厳を感じたのでしょう。
    人の必要ではなく、
    「主が必要としている」。
    そこには何にも優る重みがあります。
    「主がお入り用なのです」。
    この言葉に圧倒されたろばの持ち主は、
    特別な目的と信じて、
    求めに応じたのでした。
    そして、たしかに、
    それは特別なことでした。
    来たるべきメシアが必要とするのですから。
    メシアがエルサレムに入る。
    この特別な出来事のために、
    主イエスは子ろばを必要としていました。
    だれも乗ったことのない子ろばを。
    なぜか。
    聖なる神の目的を果たすために、
    他の目的で使われたことのない、
    このために初めて用いられる、
    きよいろばが必要であったことが一つ。
    そしてもう一つは、
    預言者ゼカリヤの預言が成就するため、
    ろばの子である、
    子ろばでなければならなかったことです。
    預言者ゼカリヤが告げたとおり、
    メシアが子ろばに乗って来ることは、
    柔和さと、強さとは対極の姿の象徴でした。
    それにしても、そのイエス様の姿は、
    なんと強烈なメシアとしての自己表現でしょうか。
    なんと驚くべきメシアの姿でしょうか。
    メシアのイメージとして、
    だれも想像だにしない姿、
    だれも信じることのできない在り方、
    しかし、まさしく預言者たちが遙か昔に預言した、
    その姿に違いないのです。
    しかし、人々は別の姿のメシアを待ち望みます。
    詩編24編が高らかに歌い上げる、
    栄光に輝く王、万軍の主の姿で、
    メシアは終わりの日に現れ、
    エルサレムに入られる。
    そう信じ、その実現を願うのです。
    そのような栄光の王であれば、
    本当なら力強い馬に乗って来ることでしょう。
    太陽の光を受けて輝き渡る鎧を身に付けた、
    大軍を率いて世に来ることでしょう。
    そのようなメシア、栄光の主は、
    オリーブ山に降り立つと信じられていました。
    いま、そのオリーブ山に、
    主イエスと一行は向かおうとしているのです。
    一行の気持ちも高まるわけです。
    ただし、そのメシアは子ろばに乗って、
    薄汚れたいでたちの庶民を引き連れてですが。
    しかし、そんなことはおかまいなし。
    弟子たちも従う群衆も、
    栄光の王の凱旋を思い描き、
    栄光の王の入城を夢見て進みます。
    イエス様がエルサレムに入られるのを、
    歓呼して称え歌う大勢の人々と、
    子ろばに乗って沈黙の内に道を行く主イエス。
    なんと対極的なことでしょう。
    両者は同じ道を歩んでいます。
    共にエルサレムを目指して歩んでいます。
    たしかに、物理的にはいっしょにいます。
    しかし、イエス様と大勢の人々、
    両者は魂において、精神において、
    そして霊において、
    なんと遠く隔たっていることでしょう。
    まるで別次元に存在しているかのようです。
    弟子たちも従う群衆も、
    エルサレムに凱旋する栄光の王と共に、
    輝かしい道を歩んでいると思い込んでいます。
    だが、ほんとうはどうなのでしょうか。
    主イエスといっしょに道を歩んでいる。
    本当にそうだったでしょうか。
    彼らはその時、
    本当に主イエスと共に歩んでいたのでしょうか。
    たしかに物理的にはいっしょに歩んでいました。
    しかし、霊においては、
    彼らは自分たちの造り上げた、
    幻想の主イエスと共に歩んでいるだけ。
    そうではなかったでしょうか。
    なんというすれ違い、
    なんというずれ、
    なんという誤りであることか。
    彼らは真実の主イエス、
    真のメシアと共に歩んではいないのです。
    こんなすれ違いは、
    昔の、あのエルサレム入城の時だけの、
    一回限りの出来事でしょうか。
    いいえ、このすれ違い、このずれ、
    この誤りは、いつの時代にも起きてきました。
    主イエスは、戦に勝利をもたらす、
    無敵の軍神とみなされてきました。
    主イエスを支配と征服の守護神、
    そう信じる人々がいました。
    今も主イエスを栄光の主、成功の神、
    そのように見なす繁栄の神学が、
    あちらこちらで広められています。
    信じれば成功者になる、
    信じれば物事がうまく行くようになる。
    魅力的に思われます。
    しかし、主イエスを成功と繁栄の主と信じ、
    そのような主イエスに従うことは、
    自分たちの願望や欲望が作りだした、
    幻想の主に従っているだけです。
    だから、もしわたしたちが、
    幻想の主ではなく、
    真実の主イエスと共に歩むことを願うなら、
    主イエスを常に見ていましょう。
    平和の主、愛と憐れみの主、
    罪の赦しをもたらし、
    わたしたちにこの世の繁栄と成功ではなく、
    この世で神の愛と憐れみを生き、
    そのように生きることを教え導く、
    子ろばに乗って歩まれる主イエスを、
    常に見ていましょう。
    わたしたちはその主イエスと共に、
    この世を歩んでゆくのです。
    天の御国を目指しながら。



    説教者 石田学牧師


週報より

  • 2021.04.25 週報より抜粋・要約

  • ・きょうは礼拝後、「10分間除草」をします。
     ご参加くださる方はよろしくお願いします。     
     10分で終了しますので、
     終わりのアナウンスで終えてください。
     無理はなさらなくてけっこうです。 
                       
    ・2021年の係を申し込んでくださった方、
     ありがとうございました。
     今年9月までの礼拝担当予定を組みました。
     会堂後ろの壁に掲示してありますので、
     皆さまご確認くださり、
     ご予定に入れてくださいますよう、
     お願いいたします。    
     変更をご希望の方は、
     前後の方と交代してくださるか、
     牧師にその旨をお知らせください。
     交代なさった場合は、
     掲示の表に書き込んでください。
              
    ・学牧師による聖書セミナーが来月から始まります。
     グレース・オンラインという講座で、
     動画による配信です。
     有料講座なので受講料8000円が必要ですが、
     お買い得です。
     一度受講料を払うと、
     いつでも・何度でも視聴して受講できます。
     かなり力を注いで準備しましたので、
     よろしければぜひどうぞ。
     詳しくは会堂後ろの掲示をご覧ください。


    ・書き損じ・出し忘れのはがきをください
    (アジア学院に寄付)
    ・洗礼(バプテスマ)・転会をご希望の方は
    牧師にお知らせください。


  • 以上

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